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◆第一部終章 運命の分岐点

52 春嵐の予感

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「いっ、痛つつ!」

 口の中に出来た傷がまだ完治していないのか、すすって口に入れたスープの刺激は、思った以上に修哉を苦悶させる。

 胃に優しい牛乳系のスープや素材の旨味を活かした野菜スープならば、その優しさで胃も心も優しく満たしてくれるのだが、香辛料がバッチリ効いたスープとなれば話は別。
優しさの欠片も無い香辛料が、口や喉や胃などの粘膜を盛大に刺激すれば、身体の毛穴と言う毛穴が悲鳴を上げながら汗を噴き出し、慌てた心臓は怒った様に心拍数を上げる。
身体にとっては酷く迷惑な話なのだが、味覚が「美味い!」と判断してしまえば、もうどうしようもない。

 そう、今修哉は真っ赤に輝くスパイシーなスープを口にしていた。そしてこの、珍しいスープに難民たちが舌鼓を打っているのには理由がある。


 ここは、アンカルロッテの森の西南端の先にある難民キャンプ。
リジャの農民たちが難民となってこの地に逃げて来てコミュニティが作られたのだが、川魚や産卵の為に遡上する魚を仕掛け漁で確保し、小舟でスヴェート海に出る様にもなり、食糧の自給は何とか落ち着いて来た。
更にアンカルロッテの森に住むエルフたちが小麦粉や野菜、そして動物などの食肉を提供してくれる事で、難民の栄養バランスは飛躍的に向上したのである。

 そして今度は、海運都市サレハルートが動いたのだ。

 昨日の夕方、エマニュエル・ハンナエルケ・リンドグレインは難民たちを集めて自らの出自を明かした。
多分難民たちの中に、海運ギルドの密偵が紛れ込んでいたのであろう、情報はあっと言う間にギルド側に流れ、そしてこの贈り物である。

【香辛料】

 古来より食材の臭み消しや薬用に用いられ、金や銀と等価値とされ高価で流通していたそれらは、このエルゲンプレクト大陸でも貴重な存在として取り引きされている。

 古くから独立の気運の高い海運都市サレハルートは、もちろんその香辛料の取り引きにおいても莫大な富とルートを得ており、クラースモルデン連邦共和国が進める共産主義体制に消極的なのか、事あるごとにもっともな理由をつけては面従腹背を繰り返し、政府による直轄運営から逃れていた経緯がある。

 当たり前の話、商売が順調でウッハウッハと金が転がり込むシステムが出来上がっている社会で、誰が共産主義など受け入れようか。
それも特に、資本主義を謳歌しているブルジョワが共産主義に理解を示して迎合する訳が無い。
資本主義社会が成熟してしまえば、貧民がいくら平等を唱えたとしても小さな声に過ぎず、それを実現するなどはまず不可能なのだ。

 自由主義経済の資本家たちによる、既得権益を守る為の闘いは凄まじく、我が身を守る為にはどんな手段をも行使する。それが例え汚い一手でも体制を守れるなら、上等な定石に変わってしまうのだ。

 まるでそれは、平和を唱え平和を守る為には殺人すらいとわない者たちの主張と同質と言っても良かった。

 そしてご多聞に漏れず、このサレハルートの海運ギルドも、自らの体制を守る為に新たな一手を仕掛けて来た。
利益を公平に分配すると謳う共産主義体制よりも、王政貴族による荘園体制の方が交渉の余地があると判断したのか、サレハルートはその貴重な香辛料を大量に、この難民キャンプに送り届けて来たのである。

 確かに、越ケ谷美雪と闘った際に、修哉が海運ギルドへ無言の圧力をかけたのは確かである。それが証拠にその後サレハルートは、あらゆる方面から後ろ指を指されない程度の食糧を届け、難民キャンプ保護に一定の理解を示すフリをして来た。
だが、エマニュエルが自らをリンドグレイン最後の皇女だと明かした次の日に、早速の派手な贈り物をして来るのは、それだけサレハルートのギルドもエマニュエルに期待している現れでもあったのだ。

 結果、難民キャンプは朝から大賑わい。
難民たちの中から手を上げたボランティアが、彼らの食事を調理して公平に配膳するのだが、塩味に飽きていた人々は様々な香辛料の攻撃的な味覚と風味に、歓声を上げつつ虜となっていた。


 そして、難民キャンプからしばしの距離をとった場所の焚き火に今、修哉やエマニュエルたちはいる。

 エルフのシルフィア・マリニンは昨晩の内にキャンプを出て、自分の村へと帰って行った。もちろんそれは、自分の都合で帰ったのでは無く、修哉の壮大なる依頼を受けてウルリーカ族のコミュニティへと戻ったのである。

「全エルフ種が、エマニュエルの後見人となってくれるよう働きかけてくれ。リンドグレイン再興が、エルフの総意である事が世界に示せるならば、これ程心強い事は無い」

修哉の依頼を快諾し、シルフィアはアンカルロッテの森の奥へと帰って行った。

よって、この焚き火を囲む人数は三人。
修哉とエマニュエルそして莉琉昇太郎が、香辛料をふんだんに使ったスープの出来上がりを、今か今かと待っている。


 味見をしたのは修哉。そしてこの焚き火の上に置かれた大きな鍋の中で、灼熱色で熱と刺激的な匂いを放ちながらグラグラと煮詰められるスープを調理しているのも修哉。
彼はサレハルートから送られて来た香辛料がオレガノやクミン、ガーリックパウダーで調合されたチリペッパーである事で閃き、今チリコンカーン……つまり、チリビーンズのスープを作っていたのだ。


 ひき肉など用意出来る訳が無いので鶏肉で代用し、一口大に細切れにした鶏肉を玉ねぎと一緒にまず炒める。そこへ水で戻した乾燥大豆とトマトを入れて煮詰め、チリペッパーを投入して完成。

 アメリカ西部開拓時代の荒野の夕暮れ時、紺とオレンジ色が絶妙に入り混じった背景の中、散りばめられたラメがチラチラと輝く乾いた空の下で、牛追いに疲れたカウボーイたちや旅の男たちが焚き火を囲み、チリコンカーンを食べてはうすら寒い荒野の夜を凌ぐ……。
修哉もどこでそれを覚えたのか、器用にもナイフ一つで本場バリバリのチリコンカーンを作ったのである。


 前述の修哉の苦悶は、ちょうど彼が味見をした瞬間の出来事。昨日の激闘の傷は完治に至らず、口内に出来た傷はチリペッパーの刺激をまともに受け止めたようであった。

「傷……痛むの?」

「大丈夫だ、問題無い」

 心配そうに修哉の顔を覗き込んで来るエマニュエルは不思議な事に、ボロ雑巾の様に傷だらけになった修哉を怒らなかった。


 幼い彼女がこの世界で生き残るには、親などの大人の力が必要不可欠である。
唯一無二の存在である藤森修哉が精神的支柱であり、拠り所である事を彼女自身理解しており、彼を父親の様に、時には兄や恋人の様に慕っている。
つまりは、修哉が最後の望みであり、レオニード・プロニチェフ亡き後は彼が全てであった。

だからこそ、修哉が傷だらけになったり、危険を承知で闘いに赴く事を徹底的に嫌っていた。

 --修哉が死んでしまえば、自分はどうやって生きて行けば良いのか--

保護者がいなくなった後の自分自身の姿に、絶望しか見出せなかったのである。


 だが、修哉がアレスターこと漆原謙一郎と、ジャンパーこと土岐朱鷺子との闘いの後、民衆に対しての演説を終えたエマニュエルがその場にやって来た時は、心配したじゃないの!と、いつもの様にヒステリックに叫ぶ彼女はそこにはいなかった。
血だらけの修哉を優しく抱き締めながら、彼の耳元でこう囁いたのだ。


 ……シューヤはいけない子ね、いつも私を心配させる。でもあの二人を助けようってシューヤは頑張ったのよね。ご苦労様、私が抱き締めてあげる……


 私はここにいる!私を助けて!私を守って!私を理解してよ!
子供の特権ではあるが、図らずも自己の存在をアピールする事に終始していたエマニュエルに、いつの間にか人を理解しようとする姿勢が垣間見れたのである。

 そして、横たわるアレスターとジャンパーに対しては、修哉を痛めつけた怨みなどそっちのけで、修哉が生かそうとしたその理由を理解しようとしながら、森の小屋に運んで休ませてあげましょうと、言葉ながらに手を差し伸べたのである。

八歳の幼女には早すぎる感もあるが、修哉が彼女の成長を素直に感じた瞬間でもあった。

 だが、大人の片鱗をエマニュエルに見たとしても、それはあくまでも瞬間的な事。年相応の幼さを基本とした、好奇心旺盛でおませな娘には変わりない。

「……ぴゃーーッ! あああっ!」

口の中をゆすごうと、背後の水瓶に手を伸ばそうと場所を離れた修哉の背中に、幼い悲鳴が突き刺さる。

「ど、どうした!?」

「修哉きゅん、エマちゃんが味見したら……!」

「 ひいいい! 口が、口が!?」

 修哉の代わりに味見しようとしたのか、それとも好奇心から出たつまみ食いか。
いずれにしてもエマニュエルは、チリペッパーの陽気で地獄的な刺激の洗礼を受け、顔を赤白に目まぐるしく変えながら頭から蒸気を吹き出している。

「エマちゃんこれ飲んで、牛乳よ牛乳!」

「昇太郎、お前見てたんなら止めろよ!」

「修哉きゅん、傷口にしみただけで味は大丈夫かなって思って」

「このままじゃ辛過ぎてダメだ。牛乳とチーズ入れないと、アレスターたちも食べれないぞ」

「はあ、はあ! 悪魔よ! 悪魔のスープだわ」


 まるで家族の様に賑やかな三人組ではあるが、周囲の視線を気にしている事も確か。
何故なら難民たちから見れば【皇女エマニュエルと、お付きの原初の導士二人】である事には間違いないからだ。


 何とか辛さを極力抑えたチリビーンズは完成し、アレスターとジャンパーの分を小屋まで届けた後、三人の夕食が始まった。

 明日の朝、修哉はかねてから決めていたリジャへと赴く。まだあの街に残っている者を救うため、そして現れるであろう連邦共和国側の鎮圧部隊を屠る為に。
エマニュエルもそれには渋々同意した。本来なら側にいて欲しいと、傷だらけの姿など見たくないと言いたいのだが、自らが自らの素性を民に明かした以上、もうリジャの人々の不幸に目を背ける訳にはいかない。


 絶えず西から吹いて来る海風に変化が現れた。身体の芯まで冷やす様な、肌を刺す風が、今日はやけに暖かい。
スベェート海の寒流が北へ回帰し、南からの暖流が勢力を近海まで伸ばして来たのであろう。

 つまりは春の到来。新緑の芽が吹いてやがて深緑に変わる、生命の誕生の季節がやって来るのだ。


 明日には修哉としばしの別れになってしまうエマニュエルであったが、身を任せた暖かな風に希望を膨らませながら、今この時間を楽しんでいた。

 ただ、修哉は表面上は穏やかさを装っていたが、彼の胸中には決して穏やかではなかった。昨晩、アレスターが知っている限りの情報を、修哉に与えたのが原因だ。

 小夜の処刑についての詳細、そしてこの世界に飛ばされる寸前に起きた出来事。何より修哉を驚かせたのは、アレスターが最後に言った言葉である。


 それは酷く低い声で、修哉を警戒させるには充分なほどに圧力を伴った言葉であった。


 --藤森修哉、陸自が来てる。気を付けろ、連中……チャカ持ってるぞ--



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