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第七章 陥穽
7 執着
しおりを挟むおよそ「執着」という言葉ほど、怜二にとって遠い言葉はない。
人間世界にある多くの欲の対象──富、名声、食欲をそそるもの、性的な欲をそそるもの、そして他人からの憧憬──それらはみんな、怜二にとっては無意味なものでしかなかった。
比較的幼いうちに人間ではなくなった怜二にとって、人間と人間の欲望の対象は、ちょうど箱庭の中にいる虫を観察するようなものに過ぎなかった。富も名声もそのほかのものも、人の欲望を刺激して、餌として利用する材料にはする。だが、決して自分が追い求める対象にはならない。
実際に財を成しているということはあるけれど、それは単なる「手段」にすぎない。ヴァンピールがより穏便に地球上で生きていくためには、多くの資金が必要だった。
「なにかを、誰かを欲して、理性までが歪められそうになる。……そんなこと、君と出会うまではついぞ経験したことがなかったんだ。それなのに」
怜二は俺の肩のところで頭を抱えて俯いている。
「最近の僕はおかしい。そう、ずうっとおかしいんだ」
俺が凌牙を好きだと言い、ゆづきちゃんを可愛いと言っては目を輝かせるたびに、怜二はこの千年以上感じたこともない奇妙な感覚に襲われていた。
『月代も、あの女も滅茶苦茶にしてやりたい。八つ裂きにしても飽き足りない』──。
そういう、恐るべき欲望を抑えるのに必死だった。ずっと。
俺がシルヴェストルに攫われ、襲われたときもそうだ。
前後の見境もなくなって「今すぐ勇太のところにいく」と暴れる怜二を、側近のヴァンピールたちは必死に止めた。理性の箍を外してしまった自分が何をしでかしてしまったのかを知ったのは、ずいぶん後になってからだ。
「でも、わかってる。シルヴェストルはともかく、もしも月代や美里さんに何かしてしまったら、即座に君を失うんだってこと。君の心を失うんだってこと。……だから、必死に我慢してきた」
「そ、それは……そうしてもらわなきゃ困るけどさ」
相変わらず、さらっと物騒なことを言いやがる。
「でも、変だろう? 僕が……この僕が、こんな風にめちゃくちゃに、ひとりの人に執着しているなんて」
「ん? それって、そんな変?」
「……え?」
怜二が不思議そうに目を上げる。
「人間だったら、それ、すげえ普通のことじゃんか。誰かを好きになって、こ、恋……とか、しちゃったら」
うわわ、「恋」だってよ。なんかもう、こっ恥ずかしくて耳が熱くなっちまうわ。
「これは今だから言うんだけどさ。俺だってあの合コンのとき、お前らにおんなじ気持ちになってたしよ」
「恋……」
怜二はやっぱり不思議そうに、しげしげと俺を見た。
「そうなんだろうか。君たちの創る映画や小説に出てくる『恋』って、もっとふわふわして優しいものじゃない? なんだか砂糖菓子みたいなさ。なんて言うか、『ああ、妄想による創作だもんね』とか『ああ、夢見がちだね可愛いね』って思う程度の」
「いや、言い方……」
思わずまた半眼になる。ほんと言い方がひでえなもう。
「こんなにドロドロと真っ黒で非論理的で、全然理屈に合わなくて。それに、こんなにも攻撃的なものなのかな。こんなに邪魔者を排除したくてたまらなくなるもの? 僕にはよくわからなくて。ほら、人間でなくなって久しいもんだから」
「んー。いや、そこは人にもよると思うけど……」
俺はひとつ息をついて、体を怜二の方に向けた。
「なあ、怜二」
「うん?」
「俺に『好き』って言われて、どうだった? ……嬉しい?」
「それは……もちろん」
でも、とすぐに怜二は言った。
「正直、最近どんどん変になるんだ。君のことは欲しい。独り占めにしたい。誰にも渡したくない。当然だ。……でも、『それではダメなんじゃないか』と言う、もうひとりの自分が常にいて」
「ダメって? なんで?」
怜二は口元を覆って、少し考えたみたいだった。
「なんだろうな……。うまく説明できないんだけど。『僕なんかより月代の方が』って、自分の本意じゃない台詞が勝手に頭の違う部分から聞こえてくるというか」
勇太のことは欲しい。もちろんだ。
ずっとずっと欲しかった。生まれる前から待っていた。
勇太は僕のものだ。誰にも渡さない──
確かにそう思っているのに、どこかでそんな自分を押しとどめる自分がいる。
月代の方がふさわしいんじゃないか。
あんな風に部下に慕われて尊敬される、人望と懐の深さを持つ男のほうが。利害関係なんて度外視して、真っすぐに勇太を助けに来てくれる、男気の塊のような奴のほうが。
たとえ同じ人外の存在なのだとしても、あの男のほうがよほど、勇太を幸せにしてくれるのでは。笑顔で生きさせてくれるのでは。
こんなちっぽけな、自分なんかより──。
怜二が訥々と言う言葉の中には、こいつのそんな矛盾した気持ちがごうごうと渦巻いているみたいに思えた。
俺は聞いているうちに、胸の奥が少しずつじわじわと温かくなるのを感じた。
(だってそれって、それってさ──)
千年以上も凍りついてきたヴァンピールの王の心に、それが灯ったってことじゃないの?
それって、実はとんでもなくすげえことじゃねえ?
「怜二……。あのさ」
「うん……?」
怜二がゆっくり顔を上げる。少しやつれて、目元にはらりと落ちている髪がぞくりとするほど色っぽい。
「前に、親父が言ってたんだよ。『自分が《欲しい、欲しい》ってばかり言ってる間は、それはまだ《愛》とは呼べないんだぞ』って。『相手のこと、相手のほんとの幸せをちゃんと考えられないうちは、まだそう呼んじゃダメなんだ』って。……『お前にも、いつかわかるといいな』って」
「…………」
怜二が目をまん丸くして俺を見つめた。
「だからそれ……たぶん、『愛』ってやつなんだ」
怜二、そのままの顔で停止している。
やがて、やっとその唇がちょっと動いた。
「あ……い? なのかい? ……これが?」
じわじわと目線を下ろして自分の胸を押さえ、そこをじーっと見つめる。その場所に生まれて初めて、見たこともない植物の芽でも生えてきたみたいに。
俺はにっこり笑ってあげた。
「うん。多分」
「本当に?」
「うん。だってさっき、お前『月代に任せたほうが勇太は幸せになれるんじゃ』って言ったじゃん。欲しくてたまんねえくせに、そう考えてくれたってことだろ? 自分の『欲しい』って気持ちより、俺のことを考えてくれたってことだろう?」
「……そ、うだけど」
まったく、こいつは。
今までさんざん「大好きだよ」とか「愛してるよ」とか言ってきといて。
その言葉の本当の意味は、今になるまで知らなかったんだな。
本当は人間のそういう気持ちのこと、ちっとも理解はしてなかったんだ。
無理もないけど。
だって、こいつはヴァンピールだ。
仲間同士の友愛や信頼なんてなにもない、それどころか時には敵になって獲物を奪い合うだけの関係。かれらは基本、たった独りで生きる生きもの。
ヴァンピールになったその日から、周囲に同族を従えた今になっても、実はずっとずっと、ただ独りで生きてきた生きものだから。
俺は怜二の身体に腕を回して、自分の胸に抱きしめた。
「……ありがと、怜二。俺なんかのこと、そんな風に思ってくれて」
「ゆう、た……」
「愛してくれて……ありがとう」
怜二の腕が、そろりそろりと俺の背中に回ってきた。
声にもならない声が、胸のところから聞こえて来た。
なんだか悲鳴みたいに聞こえた。
……それから。
俺の身体は怜二の腕に、骨も折れよと抱きしめられた。
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