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第七章 陥穽
4 前夜の訪問
しおりを挟むその夜。
バイトが終わってからおふくろに「怜二んとこ行ってくる」とだけ言い残して、俺は隣のでかい邸に向かった。
すでにクロエを通して訪問することは伝えてあるので、使用人のみなさんはスムーズに俺を奥へ通した。
ちなみにウェアウルフの皆さんは、凌牙をはじめ、この邸からすでに退去している。それでもヴァンピールたちと協力して、目立たないようにずっと俺の家と家族、親族の周りを警護しつづけてくれているけど。
怜二はいつもの書斎で、俺を待っていた。
今回のことに対処する傍ら、こいつは変わらずタカゾネグループの会長としてすべき仕事もこなしている。
普通のときでも忙しいのに、今回のこの騒ぎでどんなに大変だろうかと思うけど、こいつはそんなの噯にも出さない。いつものスマートなイケメン顔のままだ。正直、舌を巻く。
「ごめんな、急に。忙しかった?」
「いや。大したことはないよ」
にこりと笑って仕事の書類らしいものを脇に置き、怜二は俺をそばの応接セットへ案内した。
メイドさんが茶菓子を持って入ってくると、怜二は部屋にいた秘書やフットマンさん、それにクロエにも退室を命じた。それは俺が事前に希望していたことだった。
「で、なに? どうしたんだい」
「えっと……その」
俺は膝の上で、もぞもぞと指を絡め合わせた。
今夜の怜二は、仕立てのいい白いシャツにグレーのスラックス姿だ。仕事着というよりは部屋着に近い、ややくだけた服装。黒髪は相変わらずさらさらで、非の打ちどころのない整った顔。ただやっぱり、どこか顔色は良くなかった。
ここへ来る前から色々言うことは考えていたのに、いざとなったら言葉がうまく出てこない。
「えっと……さ。こないだ、気持ち悪くて」
「え?」
怜二が片眉を上げる。不審げな顔だ。
「だから……この間、シルヴェストルに捕まったとき」
途端、ひゅっと部屋の温度が下がったみたいになった。怜二の雰囲気が一瞬のうちに固くなる。
「……うん」
怜二は手にした紅茶のカップをソーサーに戻して、じっと俺を見つめてきた。
「ごめん、急にこんなこと。でも、ほんと……気色悪くて。いまだにときどき、夢に見るし」
「……そうか」
怜二が肩を落として、片手で目を覆った。
「ごめん。ちゃんと君を守りきれなくて──」
「あっ、違うんだ。そういうことじゃなくて」
俺はぱたぱたと両手を振ってみせた。
そうだ。そんなことが言いたいんじゃない。謝って欲しいわけでもない。
「あいつに、無理やり……ちゅーされて。体もあっちこっち、触られてよ。すっげ、気持ち悪かった。あんなのが俺のファーストキスかよって思ったら、ちょっと凹んで」
いや、本当はちょっとじゃないけど。
怜二が眉を下げ、困った目のまま俺を見つめている。
「でも、実は俺、その前にちょびっと凌牙に……狼の顔になった凌牙にぺろっとやられてさ」
「……なんだって?」
ぎらりと怜二の目が光った。
あれ? 今度は部屋に殺気が宿ったような。
これ、言っちゃまずいやつだったか? しまった。いやもう遅いけど。
「あ、いや。犬に舐められたみたいな感じだったから、それは。その時はそう思って流したんだけど。でも、シルヴェストルのことがあったあと『あれをファーストキスってことにしときゃあ、いっかあ』なんて……思って」
「それは!」
「うわっ」
いきなり叫んで怜二が立ち上がったもんだから、俺の尻は少し浮いた。
「それは違う! 断じて違う!」
「へ?」
俺はぽかんと怜二を見上げた。
「あ、いや……」
怜二の視線が忙しく右往左往している。やがて「うーん」と唸ったきり、困り果てた顔を手で覆い、すとんと腰をおろした。珍しく落ち着きがないな。
指の隙間から、怜二の目がちらっと俺を見る。
「あの……勇太。ごめん、先に謝っておくけれど」
「はあ? なんだよ」
俺、多分いま、だいぶ半眼になってると思う。
こいつ、ほんとなんだかんだで俺に謝らなきゃなんないこと多くね?
なんかだんだん先が読めてきたような気もするけど、一応聞いておくか。俺には聞く権利があるだろうし。
「言ってみ? 怒らねえからよ」
腕組みをしてふんぞり返り、怜二を見下ろすみたいにする。
怜二は困り果てた顔でしばらく逡巡していたけど、最後にとうとう諦めたように溜め息を吐きだした。
「……た、んだよね」
「はあ? なんだって?」
「だから……したの。君がもっと、小さいときに。つい……我慢できなくて。あんまり君が可愛くて」
「したって……つまり、ちゅーのことかよ」
「……そ」
もう、両手でぴたりと顔を覆ってしまってる。
やっぱりか。ちょっと「そうじゃねえかな」って思わなくもなかったけど、やっぱりかーい!
「それ、俺が何歳ごろのとき?」
「小学校の、三年生」
「うっわ。ショタかい!」
「そうじゃなくて! 君が、勇太であればこそだよ。その時は僕だって小学生の姿だったわけだし──」
「あ、そっか」
俺は小さい頃から、怜二の家によく遊びにきていた。幼児のころは親も一緒だったけど、小学生になってからは大体ひとりで。
さんざん遊んで、美味しいお菓子を出してもらって。ちょっと疲れて大きな柔らかいソファでうたた寝をすることも結構あった。
「だから、その……眠っている君にほんのちょっと。ほんのちょっとだよ? ちゅっと、触れるだけのやつを──」
「わー。ちかーん。へんたーい」
胸元を抱くようにして体をよじって見せたら、怜二はさらに慌てた顔になった。
「だからごめん! ほんの出来心だったんです。必死で我慢してた、理性の箍が外れちゃったんです! 本当にごめんなさい。許してください──」
怜二は神妙な顔でそう言って、あらためて立ち上がると、深々と俺に頭を下げた。海外発のヴァンピールのはずなのに、こんなにきっちりと日本式の謝罪をするの、ちょっと面白い。
俺はほんの五秒間ぐらい、黙ってそんな怜二を見つめていた。なるべく冷たい目を作って。
けど、結局がまんできずに「ぶはっ」と吹き出してしまった。
「……いいよ、もう。結果オーライだし」
「え?」
怜二が顔を上げる。きょとんとした目だ。
「結果オーライだっつってんの。凌牙よりも前に、お前と済ませてたっつうんならもう、それでいい。俺にとってはラッキーだったよ」
「勇太……。ほんとに?」
「うん」
俺はひょいと立ち上がると、怜二に近づいた。怜二の顔にぐっと自分の顔を近づけ、にやっと笑って見せる。
「お前が、俺のほんとのファーストキスの相手なんだろ。……だったらいいよ。なんかスッキリした。ラッキーさ。シルヴェストル、ざまあ見ろだぜ!」
「勇太……!」
「ふがっ!?」
次の瞬間、俺は力いっぱい怜二に抱きしめられていた。
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