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第三章 侵入者
5 隠遁生活
しおりを挟む「ど、どうしよう……」
また息が苦しくなる。自分の心臓の音がどくんどくん聞こえてきて、目の前がぐるぐる回りそうだ。
「きゅるるる?」
クロエが心配そうに鳴いて、俺の顎をぺろぺろ舐めた。
「しばらくは、配下のヴァンピールに密かに護衛させよう。もちろん大っぴらなことはしないよ。目立ったことをすれば、かえって奴の目に留まる」
「そ、そっか……」
「後でおじいさま、おばあさまたちのご住所を教えてくれると助かる。いいかな? 勇太」
「うん。ありがとな。よろしく頼みます、怜二。世話かけてごめん……」
俺がぺこっと頭を下げたら、怜二は困った顔になって手を振った。
「やめてよ、勇太。これは当然のことなんだから。すべては君のため。つまりは僕のためだ。しばらくそれで様子を見よう。手下のヴァンピールにも、もろもろ情報収集させる。……月代」
「おう」
「君はいつもどおり、大学へ行ってくれ。勇太の身代わりと一緒にね」
凌牙はひとつ頷いた。
「おお。俺の方でも、ちょっと動いてみるわ。情報集めにな」
「ありがとう。助かるよ」
俺は真摯な目で見つめ合う二人を見て、ひとり変な気分になった。
うーむ。息ぴったり。
こんなの初めて見るぞ、俺。いつもこうだったらいいのにな。
でもまあ、うん。
仲がいいのはいいことだよな、うん。
◆
それから。
怜二の邸での、俺たちの隠遁生活が始まった。
怜二はすべての約束を果たした。親父とおふくろの仕事先に手を回し、ふたりがしばらく有休を含めて休みが取れるようにしてくれた。その上で、約束どおり邸に招待してくれたんだ。
おふくろは大喜びだった。
「きゃあ! すってき! 家の中にサウナがあるの? プールがあるの? これ全部使わせてもらっていいって? 信じらんなーい! どこぞのホテルに泊まるよりもずうっと豪勢じゃなーい!」
若い頃にバブルという狂乱の時代──だったらしい、知らねえけど──を生きた人であるおふくろは、こういうのにとにかく目がない。食事どきには、望みのままに高級なワインなんかも次々に出してもらって、もう完全にごきげんだった。
対する親父は、最初のうち、なんだかとても窮屈そうにしていた。
「本当にタダでいいのかい? こんな、なにからなにまで……」
そう言って頭を掻きながら、何度も怜二に確認していた。
親父は地味だけど、優しくて誠実な人だ。体はそれなりに大きいけど、人を圧するような雰囲気は微塵もない。技術職で、車や飛行機の部品なんかを中心に、モノ作りをコツコツとずっとやってきた人だ。温厚で実直で声を荒げたところなんて見たことないけど、言うべきことはちゃんと言ってくれるし、俺は尊敬してる。
俺と同じで女にもてたためしはないみたいだけど、おふくろは「あたし、男を見る目だけはあんのよ~ん」なんてよく自慢する。そこんとこだけは俺、心ひそかに賛成してるんだよな。まっ、口には出さねえけど。
「あの野郎、あれ以来姿を現さねえ。もうどっかに移動したのかも知れねえな」
三日後、怜二の書斎にやってきた凌牙が言った。
俺はソファに座り、膝の上のクロエを撫でながらふたりの話を聞いている。俺が気に入ったせいなのか、最近のクロエはずっと猫の姿だ。親父とおふくろは、怜二にあてがわれた夫婦の部屋で水入らずの時間を過ごしている。
凌牙はあれから俺の姿になったヴァンピールや使い魔と一緒に講義を受けてくれている。でもあの日以来、同じ匂いをさせた男を見かけることはなかったらしい。凌牙の鼻なら、集中すれば数キロ先の匂いでも嗅ぎわけられるらしいんだけど、その素晴らしいセンサーにも引っかからなかったそうだ。
「朗報だ……と、言いたいところだけど。そうは問屋が卸さないんじゃないかと思うよ、僕は」
怜二はあくまでも慎重だった。俺の隣で、やっぱり腕組みを崩さない。
「相手は奴だ。とっくに勇太のことに気付いていて、もう次の手を打っている可能性もある。もしあの日、同時に月代の正体にも気づいたんだとすれば、匂いを抑えて行動していることも十分考えられるしね。あまり気を抜かないほうがいい」
「なるほどな」
凌牙は口の端をひん曲げてあっさりと同意した。これまた珍しいことだ。怜二と凌牙はあれ以来、「一時休戦」ってことになってるらしい。ふたりとも、俺や俺の家族を守るために協力してくれている。俺にできることなんてほとんどなくて、俺はひたすら二人に感謝するしかできない。あとは、二人の邪魔をしないこと。
今のところ、田舎のじいちゃんばあちゃんの周囲でも変なことは起こっていないそうだ。田舎は人間がそんなに入れ替わらないから、よそ者が入ってきたらすぐに分かる。そういう場所は、逆にヴァンピールが入り込みにくいってことらしい。そういう意味では都会よりもずっと安全かもしれなかった。
「んで、俺と親はいつまでここにいりゃあいいのかな」
俺は今のところ、最も気になっていることを訊いてみた。
「怜二のおかげで不自由はしてないんだけどさ。いつまでも授業に出ねえってわけにもいかねえし。親だって、そんな長く仕事を休んでるわけにはいかねえと思うんだけど……」
「うーん。気持ちはわかるけど、もう少し待って。きちんと安全が確認されるまでは、ここを動かないほうがいいよ」
「そっか……」
ちょっと凹んで、俺がクロエの柔らかい体を抱きしめたときだった。
頭の中に声が響いた。
《みんなで可愛い相談をしているみたいだね。まあ、無駄だと思うけど》
「ひっ……!」
まったくの予想外。かつ唐突。
ぞわっと全身の毛が逆立ち、俺はソファから飛び上がった。クロエが「ぴゃっ!」とひと声叫んで、飛んで逃げる。
脳を引っ掻くみたいな、不快な雑音。ひどく柔らかいのに、人間性のまったく感じられない冷たい声。
なんだ。なんだよ、これ……?
怜二と凌牙も、緊張した面持ちで俺を見つめた。
「き、聞こえたか? いま──」
二人が即座に頷いた。俺のと同じ声が聞こえてるらしい。
怜二がすっと手を伸ばして俺の身体を抱き込むようにし、一緒にまたソファに座った。凌牙は俺たちを背に庇うようにして、ソファの前に立ちはだかる。
《ずいぶん美味しそうな子がいるなと思ったら、やっぱりもうヒモつきだったね。なんだか懐かしい子がいるじゃないか。元気だったかい、○○○○○》
最後のところは、あんまり発音が良すぎてなんて言ったのか分からなかった。
だけどわかった。
それは多分、怜二の以前の名前だった。
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