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おまけのおはなし2 ロマン君のおたんじょうび
21 侍従の覚悟
しおりを挟む「自分と、共に生きてくださいませぬか。この命と生涯を懸けて、あなた様と共におりとうございます。……これより、この命の続く限り」
ロマンはぽかりと口を開けた。
完全に我を忘れて、呆然と黒鳶を見下ろす。
黒鳶の目はいつも以上の真摯な光を湛えたまま、じっとロマンを見据えていた。
早く応えなくては。
──はやく。
そう気持ちは焦るのに、必死に空気を吸い込もうとしているのに。ロマンの口も肺も、ちっとも言うことを聞いてくれない。
「あ、……あああ、あの、あの──」
いつもならすらすら出てくるはずの言葉が、全部喉の奥のほうでひっかかって出てこない。ロマンはまた、ハクハクと口を開閉した。そうやったって、ちっとも酸素は取りこまれてこなかった。
ロマンの手を握る男の手が、ぐっと力を増す。
精悍な顔に、冷水を浴びたみたいな色がさっと過った。
「……おいやですか」
「な、わけないっ……!」
遂に叫んだ。
と同時に、がくりと膝の力が抜けた。
「ロマン殿……!」
驚いた黒鳶がそのまま抱きとめてくれる。
「も……もうっ。び、びっくりさせないで、くださっ──」
後半はもう、ぐしゃっと涙に紛れて言葉にならなかった。両手で顔を覆って、それごと男の胸に押し付ける。男の両腕が背中にまわり、やがてぎゅっと抱きしめてきた。
「……左様に意外でしたか」
ぼそっと言う男の声は、なかなか複雑な彼の心情を表現しているように聞こえた。なんとなく安堵したような、または心外そうな。
「自分が、左様な約束もせずにあのような行為に及ぶ男だと?」
こっちは「心外」の部分だろう。
「そっ、そういうわけじゃありませんっ……!」
ぱっと顔を上げて抗議したが、頬がもうぐしゃぐしゃに濡れていて格好なんてつかなかった。
「びっくりした、だけですっ……! こんな、急に……準備できないっ。僕、なにも準備できないじゃないかあっ!」
「準備?」黒鳶が眉をぴくりと動かした。「と申されますと」
「もうっ。だから、気持ちの準備ってものがあるでしょう! こんなの反則だもん。やり直し。僕、かっこ悪すぎ。やり直してようっ!」
「は。ご要望とあらば、何度でも」
言って黒鳶はロマンをすくっと元通りに立たせると、先ほどと寸分違わず、同じ姿勢にビタッと戻った。さすがは忍び。
「ちがーう! そうじゃな──いっっ!」
ロマンは遂に爆発した。地団駄を踏んで、ぱっと黒鳶の首っ玉にしがみつく。
「バカ。バカバカ!」
──うれしい。
「は?」
「うれしいようっ……! 黒鳶どのおっ……ふ、ふえええっ」
そこからもう、わんわん大声で泣きじゃくった。両手で顔をこすってもこすっても、大粒の涙がどんどん落ちた。周囲に誰もいなかったことが幸いだった。
黒鳶はしばらく困り果てたようにロマンを抱きしめ、赤子にするように背中を叩き、指の甲で涙をぬぐい、優しく髪を撫でてくれた。結論から言うと、それで余計にロマンの涙は止まらなくなっただけだったが。
やがてロマンの声がしゃくりあげる程度まで落ち着いてきたところで、黒鳶は少し体を離した。
「もうひとつ、確認しておかねばならぬことがございます。こちらも大切なお話です。少し落ち着いて聞いていただけましょうか」
「は、はい……?」
見返す黒鳶の瞳はどこまでも真摯だった。だがそのどこかに深い悲しみの色があることを、ロマンはなぜか知っていた。
「自分は、斯様な仕事をしております」
「あ……はい。そうですね」
そこで、黒鳶はロマンの手を引き、ともに立ち上がって海の方を見た。ロマンもつられるようにそちらを見る。
「自分の仕事は、この命を賭けてユーリ殿下をお守りすることです。それが、皇太子殿下から授かった大切な使命にございますれば」
「……はい」
何が言いたいのだろう。
いや、ロマンは知っていた。
恐らくこういう場面になって、黒鳶がきっと言うだろうと思ってきた台詞。それを今、彼が本当に言おうとしているのだということが。
黒鳶の指が、すいと目の前の断崖絶壁を指さした。
「たとえば。今ここに、あなたとユーリ殿下がぶらさがっておいでだとする」
「…………」
「その時、自分はまずユーリ殿下をお救いせねばなりませぬ。ひとりを救えば、必ずもうひとりが落ちると分かっていたとしても。……それが、自分の使命ですゆえ」
(……!)
ずくん、と胸の奥が軋んだ。
いや、わかっている。そんなことは知っている。
ロマンはきゅっと唇を噛んだ。
(馬鹿にするなよ)
そうだ。バカにしてもらっては困るのだ。そんなことはロマンだって、この二年の間に何回も、何十回も考えて来たことなのだから。
鳩尾のあたりから、大きな熱量が迸るように生まれてくる。
それは怒りでもあり、覚悟でもあり……そして、たぶん悲しみでもある。
恐らくそれが、貴人に仕える人間としての最終最後に残る覚悟だ。
目元に残っていた涙の雫を荒っぽく手の甲で払うと、ロマンはきゅっと顎を上げた。まっすぐに男の目を見る。
「……わかっております」
「ロマン殿」
黒鳶の瞳が微妙に揺れた。
「左様なこと、この私にわからぬとでもお思いでしたか」
男は沈黙し、唇を引き結んだ。一度ぎゅっと目を閉じてから開き、ゆっくりとかぶりをふる。
「……いいえ」
「僕だって同じです。今の滄海は平和です。だからそんなことはまずないでしょう。心からそう望みます。けれど、もしも黒鳶殿とユーリ殿下が同時に命の危険に晒されていて、どちらか片方しか救えないという事態になったら──」
彼の瞳から目をそらさないまま、両の拳を握りしめる。
「私は迷わず、ユーリ殿下を選びます。そこは、お覚悟していて頂きたい。……あなたこそ、です」
そうだ。
だからこんなものは、せいぜいがお互い様だ。
この男にだけ貴人の側付きとしての矜持を見せつけられて、黙っていられるロマンではない。
「無論です」
黒鳶の応えはごくあっさりしたものだった。
だが決して軽くはない。
むしろそれだけに、この男の普段からの覚悟のほどが見えるものでもあった。
「ですが、ロマン殿。これだけは申し上げておきたい」
「はい?」
今度は何を言い出すのか。
思わずロマンは身構えた。
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