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小さな恋のものがたり
1 朝渡り
しおりを挟む恋とは、どんなものだろうか。
何年も前から貴人の側付きとして働いてきた少年にとって、その問いへの答えを返すのは難しい。
両親はさほど位の高くない中流貴族だったが、幸いにしてとても仲はよかった。少年の上にも下にも、男女を問わずきょうだいがたくさんいた。
たまたま父親の伝手があって今の主人の側にお仕えするようになったのは、もう数年も前だ。
王宮に入る前には、少年だってそれなりに子供らしい無邪気さであれこれと夢想した。
下働きの、可愛らしいメイドの少女とちょっと言葉など交わすうちに、いい雰囲気になったりして。頑張って働いて成長し、それなりの地位と収入が得られるようになったらそういう子と結婚し、幸せな家庭を築く。
ごく普通の少年が夢見るようなそんな未来を、少年だって年相応にあれこれと考えなかったはずはなかった。
──しかし。
いま、少年の心を波立たせてくれるのは、そんな可愛らしい少女ではない。
むしろ彼よりずっと背も高く、胸板厚く。
武骨で無口で、目つき鋭く精悍な……つまりは、大人の男だった。
◇
茶器や小さな金盥の乗った盆を手に、しずしずと廊下を進む。
ようやく日常を取り戻した帝都・青碧の中心部。内裏の東に位置する東宮御所の朝は、空気が澄んで少し冷たい。ともすれば、ここが海の底にある都市であり、これが人工的に調整された空気であることをうっかり忘れてしまうほどには自然なものだ。
ここには季節がつくられている。
いまはちょうど、少し肌寒くなってくる頃合いだった。
少年はいつものように、主人の寝室の前で一度盆を置いて扉の前で平伏した。扉の脇には、昨夜の宿直にあたっていた衛士の男が二人、静かなまなざしを保って座っている。
「おはようございます。皇太子殿下、配殿下。朝のお仕度のご用意と、お茶をお持ち致しましてございます」
自分がお仕えしてきた大切なアルネリオの第三王子は、いまやこの海底の皇国、滄海の皇太子の大切な配偶者になられている。
さまざまな厳しい事件を経て、ようやくおとずれたゆるりと過ごせる朝の時間。とはいえ、皇太子殿下は非常にご多忙の身だ。あまりゆっくりと朝寝を貪る余裕はない。もちろん、新婚のおふたりだ。もっともっと、穏やかに甘い朝のひとときを楽しみたいのは山々でいらっしゃるだろうけれども。
「ああ……ロマン。ちょ、ちょっと待ってね」
中から、少し慌てたような主人の声が応えた。さらさらと衣擦れの音が続く。
待てというわりに、その声に眠そうな響きは残っていない。恐らく少し前に目を覚まされて、愛する人との大切な甘いひとときを過ごされていたのだろう。
「もちろんです。どうぞごゆるりと。入ってよろしければお声掛けくださいませ」
そう答えたところで、ふと背後から影がさした。ロマンはほんの少しだけ、肩ごしにそちらへ目をやった。その時点で、影の主がだれであるかは知っていた。向き直り、頭を垂れて挨拶をする。
「おはようございます、黒鳶どの」
「おはようございます。ロマン殿におかれましては、本日もご機嫌麗しゅう」
「……ですから。そういう言葉遣いはおやめくださいと──」
主人や玻璃殿下に対してならいざ知らず。
自分は、故国アルネリオからつき従ってきた、ただの配殿下の側近にすぎない。そもそもその故国でも、単なる地方の貧乏貴族にすぎなかった。家柄も大したことはなく、せいぜいが中級貴族の末席といったところ。あちらの宮廷では、大体は洟もひっかけてもらえないような身分である。
だが、この黒衣の忍びはロマンが何度そう言っても頓着しない。ユーリ殿下に対するのとほとんど変わらず、きちんとした敬語を使い、礼を尽くして接してくれる。それがロマンには申し訳なく、こそばゆく感じられるのだった。
(思えば、最初からそうだった)
もともと帝国アルネリオにいたときから、ロマンは第三王子であるユーリ殿下の側付きを拝命していた。優秀な兄君がたの代わりに、あちらこちらへと地方の視察などに出向かれることの多い殿下だったが、そのことがきっかけで、殿下はいまの配偶者であり皇太子殿下である、玻璃殿下にお会いすることになったのだ。
その後、故国に戻った殿下のもとにまずは玻璃殿下が訪問せられ、「護衛に」とおっしゃって、この黒鳶をそばに残していかれた。
そのときから、ずっとだ。
彼は「ユーリ殿下を守れ」とのご命令を「ユーリ殿下と側近ロマンどのをお守りせよ」へと勝手に拡大解釈しているふしがある。言葉遣いだけではない。ユーリ殿下があの恐ろしい人外の生き物に連れ去られていた期間もずっと、ロマンのそばでひたすらに彼の体と心を守ってくれた。
ぱっと見は無口で武骨に見えるだけの男なのだが、これで中々に心優しい。濃やかに人の心に配慮ができる人でもある。そこはさすが、あの玻璃殿下が信頼する忍びだけのことはあるのだ。
(……はあ。でもなあ……)
このところ、ロマンの胸の鼓動はおかしい。
ユーリ殿下が攫われていらした期間、なにかとこの宮でこの男に励まされ、慰められてしまったせいかもわからないが。
今みたいにこの男の存在をそばに感じると、どうも胸のあたりやら、腹の下のほうのどこぞかやらが、もぞもぞ、とくとくとやかましくなる。
(だめだ、だめだ。こんなことでは、お務めに支障がでてしまう)
ロマンは無意識に首を左右に振って、要らぬ雑念を締め出した。
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