星のオーファン

るなかふぇ

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第七章 兄二人

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「……けれども、貴方様はいつしか彼女をお疑いになられ始めた。やがては心から彼女を憎まれるまでになってしまわれた。……なぜですか」
 
 静かなアルファの声だけが、しんとした座敷牢の中でぽつりと落ちた。
 その沈黙はしばらく続いた。誰も、何も言わなかった。アルファもベータも、ザンギもミミスリも、ただ黙って目の前のもと皇太子を見つめていた。

「……やつ、だ」

 とうとう放たれたその答えは、重く押し殺した兄の声だった。

「あれだ。ツグアキラだ……。あの弟が、夜、私のしとねで時折り言うておったのだ。寝物語にな」
「…………」

 アルファたちは、ただ黙して聞いていた。
 それは勿論、当初はなんとなく紡がれる睦言の一部、単なる世間話のようなものだったらしい。

『あの者、いかがにございまするか』
『左様ですか。そのように女子おなごの相手では、兄上もさぞやお疲れであられましょう』
『兄上。あまりあのような者をご信用なさいますな』
『女など、到底信用できぬ生き物です』
『結局はどれもこれも、我らの子種を拝領しようと望んでいるだけの卑しき身ではございませぬか』……

 やがてそれは、ぬるい水を注ぎこむようになめらかに兄の耳に滑り込み、やがて毒を混ぜ込み始めた。

『兄上。あやつは<恩寵>もちにござりまするぞ』
『なんという不届きな。皇太子たる兄上を侮蔑するに等しい行いにございます』
『どうやら種別は<感応>であるらしく。兄上のお考えを逐一読み取ろうと、どこぞから送り込まれた間諜なのやも知れませぬ』……

「だから私は、遂にあの夜、ヒナゲシを問い詰めたのだ。『お前はまこと、なんの<恩寵>もない者か』と。『まさか私をたばかってここへ入内したのではなかろうな』と──」
「……それで」
 すでに暗澹たる気持ちになりながら、アルファは先を促した。
「あれは認めた。己が<恩寵>もちであることをな。そして板の間に額をこすりつけて私に許しを乞うた。……わけを、聞いてくれと頼んできた。だが──」

 そこで兄の言葉はぶつりと切れ、あとはただ重い沈黙がのしかかってきた。
 アルファは仕方なく、ゆっくりとその先を続けた。
 
「兄上は、すでに激怒しておいでだった。お気持ちを穏やかに保つことができなかった。……傷つけられたとお思いだったからでしょう。無理もないことかと思います」
「…………」
「でも、兄上。もうお気づきでいらっしゃいましょうか」
「なに……?」
 兄がふと目を上げて、アルファはじっとそれを見返した。
「傷つくのは、すでに相手を信じているからでしょう。あるいは『愛しているから』と申し上げたほうが良いのかも知れませぬ」
「え……」
「少なくとも、『できれば信じたい』、『愛したい』という思いがあればこそ、その者に裏切られたときの傷つき方も、怒りのほども、ひどくなるもののはずですから──」
「…………」

 兄は呆気にとられた顔で、穴のあくほどにアルファを見つめた。そのままわずかにぽかりと口を開いて、しばし絶句していた。

「……そう、なの……だろうか」
 掠れた声でそう問われて、アルファは虚しい気持ちで微笑んだ。
「そうなのだと、思います。愛する者から裏切られることほど、心を傷つけられることはありませぬ。……いつの世も、どんな身分のお方でも」
「…………」

 黙りこくり、遂に自分の膝のあたりに目を落として動かなくなった兄を見て、ただただアルファの胸は痛んだ。

(……愛して、おられたのか)

 兄は、ヒナゲシを。
 兄はごく幼いころからあの母から引き離され、皇太子として厳しく教育され育てられてきた。その一方で、温かな気持ちの交流やなにかといったものとは縁遠いお育ちかたをした。それゆえ兄は、そういう本当の細やかで温かな気持ちをよく分からずにいたのだろう。
 それでもぼんやりと、自分の気持ちを預けられるのかも知れないと思える女人が傍に来て、もしかしたら無意識のうちにも、彼女を憎からず思うようになっていたのかも。
 だがそれを、悪意ある讒言ざんげんが打ち崩した──。

 微妙に揺れ動きながらも美しく結実しかかっていたそれは無残にも打ち砕かれて、代わりに湧き起こったのは恐ろしい憎悪だった。
 その憎悪はそのままあのヒナゲシに向かい、恐るべき<恩寵>たるナガアキラの<傀儡>の餌食にせしめた。

「兄上……」
「いい。……もういい。何も言うな」

 兄はもう、片手で顔を覆って俯いていた。その肩が微かに震えている気がして、アルファは口を噤んだ。

「処分はすべてお前に預ける。……一人にしてくれ」

(……もういい)

 もう、いいのだ。
 すべては遅い。今頃になって何を後悔してみたところで。
 失われてしまった命は、何をどうしても戻ってこない。
 生きてここにある人が、すでに戻らないものを思って嘆き、哀しみ、慟哭するほか、できることなど何もないのだ。
 せめて次、もしも次に機会があるならば、同じ過ちを起こさぬようにと心に留める以外のことは。

 アルファはすっと居住まいを正すと、一度、深く兄に向かって頭を下げた。そうして目だけで皆を促して立ち上がった。
 重く暗い面持ちのミミスリとザンギの横で、何か思うところでもあるような目でベータがじっと自分の横顔を見つめていた。

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