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第七章 兄二人
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しおりを挟む<燕の巣>からやってきたヒナゲシは、それは美しい少女だった。
そもそもその<燕の巣>から生まれた中で、<恩寵>なしの美しく聡明な少女たちから選ばれるのだから当然と言えば当然である。
しかし、何と言ってもヒナゲシはよくいる表面だけの「美しい」少女ではなかった。少しずつ話をするうちに、その心映えまでが清らかで意思の強い女人であるということはナガアキラにもすぐに知れることになった。
当初はぎくしゃくしていたものの、ナガアキラとヒナゲシは少しずつその距離を縮めていったはずだった。
「では……なぜ」
アルファはそこで、とうとう恐る恐る訊いてしまった。
そうやってわずかずつでも心を開いていきかけていたはずなのに、どうしてあの夜、兄は彼女を死に追いやってしまったのか。
床几に肘をつき、人差し指の背を噛むようにしていたナガアキラが、ふとこちらを見た。その眉間に不快げな皺が寄る。これまではずっと、独り言を言うような風情で語り続けていた兄に、明らかに人間らしい表情が現れた瞬間だった。
「当然ではないか。あやつはこの私を謀った。お前も知っていたのであろう? あの女は、<恩寵>など無いという振りをして涼しい顔で入内して参った。つまり、私に嘘をついていたのではないか」
「そ、……それは」
アルファは少し躊躇いはしたものの、最後には顔を上げて兄を見た。
「義姉上様には、当初から目的がおありだったからです。それは、かの<燕の巣>より生まれいでる多くの子らの苦しみを、どうにか安んじたいとの心よりの願いから生じたことにございました」
兄はすうっと細めた目でじっとこちらを見つめてきた。それはアルファ自身の心の裏側まで見通そうとするような視線だった。
「……では、そなた。やはり通じておったのだな、あれと」
「『通じていた』というような、大げさなことではありませんでした。わたくしも義姉上様にも、幸い<感応>がございましたゆえ。ときどきに、お話しさせていただく機会があったまでのことにございます」
そこからアルファは、兄に向かって順々にすべてを語って聞かせた。あのヒナゲシがどんな決意を持ってこの宮中に入内してきたかということ。<感応>の力をもってアルファを見出し、なんとか<燕の巣>の子らに対するこれまでの非情な扱いを減じてほしいと願っていたこと。
そして何より、決して兄を裏切ろうといった後ろ暗い心は持たなかったということを。
それらを黙って聞くうちに、兄の目の中に不思議な光が宿りはじめた。それが何を意味しているのかは分からなかったけれども、ともかくもアルファは言い募った。
「できることなら義姉上様も、兄上と良き夫婦になることをお望みだったかと思います。ただなかなかお心を開いては頂けず、許される時もあまり無く……。わたくしを頼って下さったのも、そうした思いからのことだったかと」
「…………」
「わたくしたちが思う以上に、<恩寵>のなき子らのその後の扱いは惨いものでございました。わたくしも、どうにか義姉上様のお力になりたいと思うてはいたのでございますが。……なかなか、当時はまだ子供に変わらぬ年でもあり……。そうこうするうち、あの夜の仕儀となってしまいました──」
《どうか、お願いです。殿下、どうか……『子ら』を、『子ら』を……!》
まるで布を引き裂くようなあのヒナゲシの声。あの、悲しく絶望に塗り籠められた悲鳴のような声が耳の奥に甦って、アルファはぎゅっと唇を噛んだ。
兄はそんなアルファをじいっと見て、しばらくは沈黙していた。が、やがて押し殺したように低い声がした。
「……だが、裏切りは裏切りだ。あるものを『無い』と言い、いずれ私を謀って陥れるつもりで入内してきたのだろう。私が安心し、かの者を信用したところで寝首を掻くつもりでいたのやも知れぬではないか。そうでなければ──」
「兄上」
それはアルファが自分でも思ってもみなかったほど厳しい声になって外へ出た。兄ははじめて、驚いたように目を上げた。
「兄上、いま一度、よく思い出してくださいませ。義姉上様は、まこと貴方様にお優しくはありませんでしたか。普段、左様に好んで隠し事をしたり、裏でこそこそと貴方様を侮るような、そんな品のなき女人だったでしょうか」
「…………」
兄が再び沈黙する。
ちらちらとその瞳が不規則に動いた。それは確かに、兄の動揺を表わしていた。
周囲に座っているザンギやミミスリ、ベータが、自分の背中に視線を集中させているのを感じる。アルファはそのまま、なるべく穏やかな声で畳み掛けた。
「……兄上。それはまことのことだったでしょうか。よく思い出して頂きたいのです。誰か、ほかの何者かが、貴方様に義姉上様のことで、要らぬ讒言などをしませんでしたか。『あの者はきっとこういうつもりで入内してきたに違いない』と、貴方様に囁いた者がおりませんでしたか」
「…………」
「そうやって貴方様に、巧みによからぬ何かを吹き込んだ者がおりませんでしたでしょうか。もしも居るなら、その者こそがあの時の事件の首謀者でございましょう」
「……!」
その時だった。
兄は初めて目を見開いて、真正面からアルファを見た。
その瞳には真摯な驚きが確かにあった。
「そなた──。そ、……そうかも、しれぬ。そう言われれば確かに私とて、ことの初めからあの女を憎んでいたわけではなかった。無論、信じていたわけではないとは申せ、そこまで疑っていたのでもなかった」
なにしろ相手は、あの<燕の巣>出身の少女に過ぎない。大した腕力があるわけでなし、<恩寵>もないとなれば、できることなど端から限られているに決まっている。
初めての夜にあっても、彼女はすべてをナガアキラに任せただけで、特に嫌がる様子も悲しむ様子も見えなかった。まあそれは、単に彼の前では見せなかっただけかもしれないのだが。
「……けれども、貴方様はいつしか彼女をお疑いになり始めた。やがては心から憎まれるまでになってしまわれた。……なぜですか」
静かなアルファの声だけが、しんとした座敷牢の中でぽつりと落ちた。
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