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第二章 焦燥
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しおりを挟む実は彼を助け出してみて初めて、様々な困った問題が存在することが判明した。
アルファはかの蜥蜴の男に拉致される以前の、タカアキラとしての記憶をすべて失っていたのである。当然ながら、わざわざマスクを外して素顔を晒してやったベータを見ても、彼はただ不思議そうな顔をしただけだった。
ベータは何か拍子抜けするとともに、改めてあの蜥蜴野郎を憎悪した。「あの野郎、もっと苦しませて殺すんだった」と殺伐とした後悔がぐらぐらと臓腑を灼くようだった。が、すでにあとの祭りだった。
彼が記憶を失った顛末についてはよくわからなかったのだが、それとよく似た<恩寵>を持つベータにしてみれば、なんとなしにその経緯は想像できた。彼の理性はあの蜥蜴男から与えられるあまりの仕打ちに耐えかねたのではないのかと。それゆえ、自分の心の繊細で大切な部分を本能的に守ったのではないのかと。
ただ、そんな風にぼうっとしているようには見えても、やっぱりアルファは美しかった。この三年というもの、各種さまざまの嗜虐の肴にされてきたのであろうに、彼自身は微塵もそうした薄汚れた心に毒されているようではなかった。そうした精神的な在り方というものは、往々にしてすぐそばにいる他者に伝播しやすいものだというのに。
その体に埋め込まれていたナノマシンを取り除いてやったり、足の傷を治してやったりするときにも、彼は邪気のない子供のような目でベータを見つめていた。そのきょとんとした目はいかにも、「この人とどこかで会ったことがあるだろうか」と自問自答するものだった。
(まったく……)
そんな彼に接すると、ベータは無性にやりきれない気持ちになった。「しっかりしろ」と彼の頬を張り飛ばしたいような、いや、力いっぱい抱きしめてやりたいような。
別に彼から「私を助けに来てくれたんだな。ありがとう」などと涙にむせんで感動し、礼が言われたかったわけではない。そんな期待をした覚えは微塵もなかった。なかったが、逆にこんな風に「今度はこの男が自分の『主人』になるんだな」と、何もかもを諦めたような目をして微笑まれるとは思わなかったのだ。こればかりは予想のはるか外だった。
いや、正直なところを言えば、胸の内に「それならそれでもいいではないか」と囁く「黒いベータ」も居るにはいた。このまま彼の記憶が戻らなければ、彼は本当にただの男、ただの「アルファ」として自分のそばにずっといさせられるだろう。あのスメラギ皇国の皇子としての柵も<燕の巣>から生まれる子らへの責任感もなにも持たない、ただの一人の青年として好きなだけ自分のそばに置いておける。
彼の体を洗うため、宇宙艇内の分解シャワー室の中でその体に触れたときにも、青年は特に嫌がるそぶりは見せなかった。このまま彼の誤解のとおりに彼を自分のものにして、どこかの隠れ家で飼うことだってできるのだ。
あのゴブサムがしていたような嗜虐の生贄にするのとはわけがちがう。ただ自分の思うさま彼を抱き、思うさま彼を悦がらせて、夜ごと甘い声で啼かせてやるだけではないか。
毎日、毎晩。
彼を自分の寝床から出すこともしないで、ずっと。
そうしていけない理由があるか……?
(バカが。何を考えている……!)
電撃のようにしてそんな叱咤の言葉がひらめき、ベータはすんでのところで自分の足の間のものを今にもしゃぶろうとしていたアルファの体を突き飛ばした。
びっくりして呆然としたアルファをシャワー室の外へ追い出して、ベータは口の中でありとあらゆる悪態をつきながら、みっともない欲望を主張しまくっている自分のそれを我が手で慰めねばならなかった。
そんなこと、許されるわけがない。
あの惑星オッドアイの子らもマサトビも、それにあのザンギだって呆れかえり、怒り心頭になるに決まっている。下手をすればあのザンギは、こちらの首の骨を折りにすらやって来かねないだろう。
(……それに)
それに、本当はベータだって嫌だったのだ。
こんな風に理性を失い、たとえ美しくとも心の抜け殻のようになったこの皇子をただそばで見ているのは。そんな心を誤魔化して、うやむやのままに抱いてしまうのは。
やはり、彼に会いたかった。
「子らのために」と必死に自分にできることを探して足掻いていた、美しい瞳をしたあの皇子にまた会いたい。「君に抱いてほしいんだ」とあの夜、耳まで真っ赤にして震える声で言ってくれた、あの皇子に。
世間知らずのどうしようもないぼんぼんではあるけれど、それでもまっすぐに前を見て、自分のすべきことをしようと必死に生きていたあの皇子にだ。
(……焼きが回ったな、俺も)
これはもう、認めるしかなさそうだった。
彼がスメラギの皇子だろうが何だろうが。
そんなことはもう、関係ないのだ。
……愛してる。
お前を。
タカアキラを。
お前がどんな生まれだろうが育ちだろうが、そんなことはもうどうでもいい。
ましてや今回、どんな目に遭って帰ってきたのだとしても。
全部が全部、なにもかも。
もはやどうだっていいのだ。
(……愛してる)
そう心に思った途端、ふわっと体が軽くなった。
ミーナの重力制御装置がおかしくなったはずはないのに、自分の体重がいつもの半分ぐらいになった気がした。
「は……、はは」
狭い分解シャワールームで、ベータは一人、けらけら笑った。
可笑しくて可笑しくて、笑い続けずにはいられなかった。あまり笑いすぎて、ちょっと目じりに涙が浮かんでしまったほどに。
(……やってくれたな。バカ皇子)
なんてことをしてくれる。
よりにもよって、俺からこんなものを盗むつもりか。
(お前って皇子はまったく──)
どうやら、これが年貢の納めどきらしい。
あっちこっちでいろんな男女を手玉にとってきた自分を、あいつはよくも、こんなに呆気なく落としてくれたものだ。
可愛い、清らかなバカ皇子。
(……お前の、勝ちだ)
そう思って衣服を整えると、近頃うるさくなってきた前髪をくしゃりと掻きあげ、ベータは勢いをつけて分解シャワールームから飛び出ていった。
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