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第六章 叢雲
1 ※※
しおりを挟む母は自分を、「叢雲(ムラクモ)」と呼んだ。
それは雨の降り出しそうな空気があつまって、わらわらと空に群がり立ち、白く覆い隠す叢雲のことをいう言葉なのだという。
母は美しい人だったが、身分はさほど高くはなかった。しかしその美しさのゆえ、高貴な家の男のものになり、それなりの暮らしをしていた。が、もちろん正妻ではない。とはいえ当時の少年には、時おり下男や下女らがひそひそと語り交わす中に出てくるいわゆる「囲われ者」という言葉の意味は分からなかった。
でぶでぶと太ったその中年貴族は、しげしげとその家にやってきては母に酌をさせ、下卑た声をあげながら飲み食いをし、来た日は必ず泊まっていく。
だが男は、ムラクモの存在を知らなかった。母がその存在をひた隠しにしていたからである。
ムラクモがその男の子だねによって生まれた子なのかどうかは、いまだにもって分からない。というか、ムラクモは正直、そんなことはどうでもよかった。なぜなら男はムラクモとは似ても似つかぬ醜怪な面がまえだったからである。これはまったく冗談でもなんでもなく、男はムラクモから見ても、あれが自分と同じ人間であるとは思えぬほどのいささか酷いご面相だったのだ。
男は単純に母の美しさに惹かれ、金にあかせてその身を囲った。実際、それだけのことだった。だからムラクモも、幼心にも男を父だなどと思ったことはない。というよりも、そいつとははっきりと顔を合わせて口をきいたことさえなかった。なぜなら母は、ムラクモのことをその男に話すことはなかったから。
どうやら母は、子を身ごもっていた間じゅう、体調の悪化を理由にしばらく田舎に引っ込んでいたらしい。これらはそのとき母のそばに仕えていた乳母のひとりから聞いたことである。
側仕えの女たちは女主人の手前、一応はムラクモのことを「若君さま、若君さま」と呼びはしていたけれども、ムラクモは知っていた。彼女らが、この薄気味の悪い色目をした少年をどんな風に思っているかを。
ムラクモの目に入る人々はすべて、母も侍女たちもあの男も、みな黒い髪と黒い瞳をもっている。しかしムラクモは、その名のとおり空の果てにひろがるあの雲の群れのごとく、なにもかもが白い子供だった。唯一、その目の色だけが、血の色のように真っ赤に染まっているほかは。
動物にも人にも、ときたまこうしたものが生まれる。
「あるびの」とか「シラコ」と言うのだと、母が教えてくれたことがあったけれども、ムラクモはそんなことは大して気にもしなかった。幸いにして、もしもそこに居たなら確実に彼を忌み嫌っていやがらせなどをしたと思われる同年代の子供らなどはいなかったし、ムラクモ自身、別に「トモダチ」と呼べるような者が欲しいとも思わなかった。それに、なによりあの美しい母がことのほか、この少年を愛し、慈しんでくれたから。
「ほんとうに美しいわ。あなたのお髪……お日様があたると、きらきら白鼠色に輝いて。まるで冬の夜の、冷たく澄んだお月様のよう」
母はいつもそう言って、息子の髪をやさしく撫でた。
そうしてあの男のいない静かな夜には、涼やかな声音で息子に色々な本を読んで聞かせた。
◇◇◇
しかし、そんな年月はけっして長くは続かなかった。
ある夜、あの男がまた自分たちの邸にやってきた日、ムラクモは周囲がいつもとは違う様子であるのに気がついた。そうして、それまではいつものように自室で静かに寝ていたのだが、なんとなしに胸騒ぎを覚えてそっと部屋をぬけだした。
どすん、ばたんと何かが激しくぶちあたるような音がして、母がなにかをかき口説き、泣くような声を上げていた。それをかき消すようにして、あの男の野太い声が何かをがなりたてている。
「この私をたばかったな」とか「あばずれが、汚らわしい」とか、その当時のムラクモには意味不明の単語も多くてよく分からなかったのだったが、二人はなにかで揉めているようだった。母は泣きながら「お許しください」「どうか命ばかりは」と、誰かの助命を願っているように聞こえた。
ふだん、男がやってくるといつも使われている酒宴の間のそばの妻戸は、その時ほんの少し開いていた。周囲には、いつもだったら控えている侍従やら侍女たちの姿はなかった。
ムラクモは音も立てずにそこに滑り寄り、中を覗いた。本当はあの母から、「決してのぞいてはいけませんよ」と言われていたのに。あの男にその姿を見せてはならないと、母はいつも息子に向かって口を酸っぱくするようにして言っていたのに。
途端、何かくぐもった音がして、がすんと重いものが壁に叩きつけられたように思った。その次に、そっと見つめていた部屋の中の板敷きの上に、ごとんと何かが落ちてきた。
その何かがころりと転がり、目が合って――
少年は、大きな大きな悲鳴をあげた。
それはどこを見ているのでもない目を悲しげにかっと見開いたままの、哀れな母の頭部だった。
「そこにいたのか、蛆虫めが!」
「取り押さえよ! 逃がすでないぞ!」
男の声がそう叫ぶと、ざざざっとその周囲から手に手に得物を持った屈強な武人らが現れて、あっというまに少年の首っ玉をおさえこんだ。少年はそれでも、いまだ足元にころがったままのものから目が離せず、ただぶるぶる震えていただけだった。逃げなくてはならないのだということすら、まだ考えることもできなかった。
少年はまるで紙くずでも転がすように、容易く男の前へと連れてこられて引き据えられた。
「ふん。確かにあやつの子だけあって、綺麗な顔はしておるな」
男は動物園の生き物でも見るような、しかしいかにも汚らわしいものを目にしたような顔でじろじろと少年を検分した。
そして吐き気をもよおしたように、こう言い捨てた。
「しかしその髪、その瞳……! まさに物の怪、忌み子に間違いない。そはこの皇国にあるまじき穢れの身ぞ。忌まわしきこと、この上もないわ」
男の剣幕を察したように、少年のそばにいた武人の一人が得物の剣を構えなおした。
「殺しますか」
氷のような声だった。そこには恩情など、ただのひとかけらもありはしなかった。
彼らにとってこの少年を殺すことなど、小さな羽虫を殺すよりも容易いことに違いなかった。
「いや、待て」
男はじわりと自分の唇を舌で湿らせつつ、ムラクモの体をねばつくような目で再びじろじろと眺め渡した。
「あの女には、この儂でも多少は躊躇うほどの、それは大枚を叩いたのだ。ただ殺すだけでは、いかにも大損――」
そうしてしばし考える風にしてから、男は何かしらいいことを思いついたらしく「そうよ、そうよ」とにやりと醜い脂肪まみれの顔をゆがめた。笑ったのであるらしい。
「せめてその一部なりとも、その体で贖わさせてもらおうぞ。運の良いことに、顔立ちだけはなかなかのものなのじゃからな。うむ、うむ。これは良い考えじゃ……」
ぞうっと背筋に寒いものを覚えながら、少年はその奇っ怪な醜男を見上げるしかできなかった。
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