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第五章 鷹の男
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しおりを挟むその命令を受けたとき、アルファは不思議な違和感を覚えた。
その違和感を言葉で説明するのは難しい。だが、ここから以降「なにか変だな」という思いがずっとアルファについて回ることになった。
宇宙軍にしてみれば、スメラギから押し付けられる形になっているこんな皇子など、本来であれば後方の安全地域で適当に遊ばせておくだけでいい。表だった問題さえ起こさずにいてくれるなら、数年間面倒を見て適当に階級を上げて花をもたせ、無事に故国に戻っていただければそれでいいのだ。
間違っても実際の戦場に行かせるなど、あってはならないはずだった。もしもそれで怪我でもされたら、それこそあの皇国からどんな補償を要求されるかわかったものではないからだ。
例によってその辞令を渡すためアルファを部屋に呼んだホーガンも、ずっと変な顔をしているようだった。とはいえ、命令は命令である。上層部が何を考えているかなど、こんな辺境の基地を預かる一介の将軍にわかろうはずもなかった。
ちなみにこの虎顔の上官も、あれから階級があがって今は少将になっている。いまやこの男がこの基地の総責任者なのだ。
「まあ、戦場に赴くとはいってもごく後方で活動する医務艦や補給艦での任務になるはずだ。命の危険はまずないと思うが、何もないとは言い切れん」
男の恰幅のいい体躯と炯々としたまなざしは相変わらずだ。
この男を前にすると、不思議にアルファはほっとする。酸いも甘いもかみ分けた御仁であるのは確かなのだが、かといってこの男には一切のどす黒い感情、悪意や妬み、そねみといったものが見えないからだ。
「かすり傷ひとつ負わずに無事に戻れ。それが貴様の使命の第一義だ。気をひきしめてかかれよ」
「はっ」
上官の厳しくも温かい言葉に対し、アルファは宇宙軍士官としての敬礼をもって応えた。
「お気遣い、傷み入ります。少将閣下」
少将の執務室前では、いつものようにミミスリとザンギが控えていた。部屋から出てきたアルファからことの次第を説明されて、二人は明らかに顔色を変えた。
「殿下を、戦場に……!? そのような──」
そう言ったきり、ミミスリが黙りこくる。床をにらみつけるようにして、拳を握りしめている。ザンギはそんな相棒をちらりと見やっただけで終始無言だったが、いかつい鷲の顔をわずかに歪ませ、珍しくなにか物思う風情だった。
◆◆◆
「そうか。ついに初陣か」
一連の話を聞いて、ベータが言ったのはこれだけだった。
彼がどんな反応をするだろうとさまざまに期待するような、あるいは不安なような気持ちでいたアルファだったが、なんとなく肩透かしを食らったような気分だった。
「おめでとう。これでようやく、軍人としても一人前ということだな」
「それはどうも」
「まあ頑張れ。せいぜい他の連中の足を引っ張らんようにな」
にやにやしている男の顔を見返して、アルファは心の中だけでこっそりと肩を落とした。まあどの道、自分が居ようが居まいが彼の仕事にさしたる支障があるわけではない。もっと言えば、自分がその戦場で死のうがどうしようが、この男はどうでもいいのに違いなかった。
アルファは顔には何も出さなかったが、その実、胸の奥ではしくしくと冷たく翳った痛みを覚えた。
「君には特に、迷惑は掛けないだろうと思うが。一応、これまでの礼を言っておく」
どうもありがとう、と言って頭を下げ、握手をするため右手を差し出したのだったが、男は意外にも、不快げな目でその手をじろりと見ただけだった。
「縁起でもないことをするな。自分でフラグを立てる奴があるか」
その言いようのどこかに、ほんのわずかな温もりがあるような気がする。ふと胸がはねて、アルファは苦笑した。自分はどこまで、この男にそんな期待をするのだろう。
「そんなつもりはないさ。単なる挨拶の一環だろう」
「そんなものは必要ない」
なおも手を差し出しているのに、ベータは犬でも追い払うように顔の前で手を振っただけで、さっさとバーカウンターに入ってしまった。もちろん他の客はいない。ちょっと名残惜しい気持ちになりながら、アルファは行き場を失った手をひっこめた。
ベータは向こうを向いたまま、グラスなど拭く様子だ。カウンターチェアに座ってなんとなくその手元を見ていたら、どうということもない口調で訊かれた。
「で、どこの宙域だ」
「作戦上のことだ。話せない」
「いまさらだな、少佐殿」
くはは、と男が笑って、アルファもつい頬をゆるめた。言われる通りだ。ここまで散々秘密の仕事を一緒にやってきておいて、何がいまさら「秘密」なものか。
そのまましばらく、無音の店の中でふたりは黙りこくっていた。彼が何を考えているのかは、その背中からはまったく分からなかった。そうっと<感応>の扉をひらいて窺ってみても、彼の心は相変わらずぴたりと閉ざされていて、何も見えてはこなかった。
……言ってみようか。
やめようか。
アルファはここへ来るまでに何度も逡巡したその問いを、再び自分のなかで繰り返した。テーブルの上で組んだ指先を、少し強く握り締める。
そして遂に心を決めると、背筋を伸ばして彼を見た。
「……ベータ」
「ん?」
彼はむこうを向いたまま、グラスを拭くのをやめない。
こく、とアルファは密かに喉を鳴らした。
「依頼……しても、いいだろうか。君に」
「何をだ」
男は相変わらず、こちらに背を向けたままだ。
アルファはそれに勇気を貰った。今を逃せば、もう二度と言えないというのは分かっていた。
「君の、言い値でいいんだ」
声が掠れる。喉が震える。
男がやっと半身になって、こちらを見たようだった。
今度は逆に、アルファが彼を見られなかった。ひたすらに、組み合わせた自分の指だけを見る。
「……いて、欲しいんだ。君に」
「なんだって?」
肝心なところが蚊の鳴くような声になってしまって、アルファは猛烈に自分を叱咤した。全身が熱かった。本気で火を噴いているのではないかと思った。
気がついたらもう、いつもの「ふてぶてしいベータの相棒」としての仮面はどこかに飛んでいってしまっていた。
「だ……だから」
「何だ。ちゃんと聞こえるように言え」
「…………」
なんてことだ。
こんな一番恥ずかしい部分を、もう一度言わなくてはならないなんて。
アルファはもう、ぎゅっと両目をつぶってしまった。
握り締めた両手が真っ白になって、ひどく冷たく痺れていた。
「抱いて……欲しいんだ」
ぱりんと甲高い音がした。
それは、グラスがベータの手から滑り落ち、床で砕けた音だった。
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