星のオーファン

るなかふぇ

文字の大きさ
上 下
66 / 191
第四章 相棒(バディ)

しおりを挟む

 その瞬間、何が起こったのかはわからなかった。
 今しもアルファを犯そうとしていたヒグマの男は、急に全身の力が抜けて目が泳ぎ、そのまま目の前にどうっと倒れた。情けない下半身をあらわにしたまま、芝生の上にのびている。
 気がつけば、アルファはなぜか自由になった手で小型の麻酔銃をにぎっていた。拘束されていたはずの腕が自由になり、いつのまにか懐にあったはずの銃を手にしていたのだ。

(なんだ……?)

 全身ががくがく震えている。何が起こったのかはわからないが、ともかくここには居られない。アルファは痺れたようになって言うことをきかない我が手を叱咤しつつ、どうにか衣服を整えると、よろめきながら歩き出した。
 がなりたてる鼓動をおさえ、なんとか<隠遁>を発動する。今の自分は、髪や衣服が乱れ、顔も真っ青にちがいない。こんな風体で歩いているところを、誰にも見られるわけにはいかなかった。
 自室前の廊下までやっとのことでたどり着いたとき、そこにいつもの二人が普段どおりに立っている姿を見て、アルファは心底、安堵した。と同時に思わず<隠遁>を解いてしまい、その場に崩れ落ちるようにして膝をついた。
 ぎょっとしたのは、彼ら二人だ。

「な、殿下……!?」
「どうなさいましたッ!」

 二人が大股に駆け寄ってくる。床に倒れかかったアルファの体を、すんでのところでミミスリが抱きとめてくれた。それと同時に、彼の優れた嗅覚はアルファの身に起こったことを正確に知らしめてしまったようだった。

「なんと……いうことをッ……!」

 ミミスリに人間の髪に相当するものはないけれど、「怒髪天を衝く」とはまさにこれだった。彼は今まで見たこともない形相になり、耳まで裂けるかと思うほどに鋭い牙をむき出していた。うす鳶色の瞳を燃え上がらせ、全身の毛を怒りに逆立てている。喉奥からぐるるる、と狼としての唸り声がした。
 まさしく、激怒する狼そのものだった。

「殿下、奴はどこです。風体は」

 言葉すくなにアルファから必要なことを聞き出すと、ミミスリはアルファの体をザンギにあずけ、脱兎のごとく駆け出した。無論、あのヒグマ男を探しにいくためだろう。

「ミミスリ。殺すなよ」

 その背に向かって、不思議なほどに落ち着いた声を掛けたのはザンギである。いつも表情のわかりにくい鷲の顔をした男だけあって、今回も何を思っているかは分からなかった。だが、その声には相当に苦いものが含まれているようにも思われた。
 アルファはザンギに支えられながらどうにか立ち上がると、私室に入った。すぐにもシャワーを浴びたかった。あの不埒な男の臭いも、体液も、触れられた指の感触もなにもかも、肌をそぎ落とすようにして即座に捨て去りたかった。
 が、ザンギがそれを押しとどめた。

「申し訳ありませんが、殿下。少々お待ちを」

 そうして、アルファに簡潔に理由を説明すると、肩を貸して医務室へと連れていった。本当は、有無を言わさずアルファを抱き上げようとしてくれたのだったが、それはこちらで必死に固辞した。それこそ、兵舎にいる誰かれから奇異の視線を浴びるに決まっているからだ。

「ミミスリは……大丈夫だろうか」

 少し喘ぐようにしながら、アルファはザンギに尋ねた。いまは気を失っているだろうが、麻酔の効果がどのぐらい続くかは分からない。なにしろ夢中で、麻酔の設定をどうしたのかも曖昧だった。意識が戻れば、あのヒグマ男はミミスリよりも遥かに巨体で腕力もある。いかなミミスリにとっても、強敵であるに違いなかった。
 が、ザンギは珍しくも苦笑したようだった。

「お忘れにございますか、殿下。殿下ほどではないとは言え、我らはこれでも一応<恩寵>もちにございますれば」
「あ……」
「単に体格や膂力りょりょくで上回っているだけの<恩寵>もない一般兵など、あのミミスリの敵ではございませぬ。ご心配召されますな」
「そうか……。よかった」

 アルファは納得し、安堵した。そうして、あとは素直にザンギの肩につかまって、医務室に連れてゆかれた。


◆◆◆



 基地内の医務室で、アルファはそこの山羊顔をした医務官から付着した体液などを採取され、診察や消毒そのほかの処置を施された。そうしてそれら羞恥きわまる一連のことを耐え忍び、ザンギとともにようやく私室に戻ってから、やっとシャワールームに飛び込むことができた。
 あの男に塗りたくられたあらゆる体液や臭いをこすり落とす。肌がひりひりするほどになってようやく、アルファはスポンジを手放した。そうしてしばらく、シャワールームの壁に背をつけて、降り落ちてくる湯の雫にあたりながらぼんやりしていた。

「大変なことにございましたね。ともかくも、最悪の事態にだけはならなくて良うございました」

 気の毒そうな目をして山羊の医務官が言った言葉が、耳の奥で再生される。アルファは唇を噛んだ。

(最悪の事態……か)

 それは無論、あの行為の最終局面を言うのだろう。しかし、これまであのスメラギのため、その身を売られてきた子らはそれより遥かに厳しい苦界くがいに身を置いてきたのに違いなかった。
 彼らは犯されるにとどまらない。この世には、体を端から切り刻まれて泣き叫ぶ子供の声を聞きながら酒を飲むのが大層好きだという嗜虐まみれの人非人にんぴにんも多いと聞く。さらにその飼い主に飽きられれば、子らはほかの飼い主に売り渡される。
 そういうことが繰り返され、そこでも散々に弄ばれて飽きられた後は、そこまでせっかく長らえた命であっても、その身を切り刻まれて闇の臓器売買ルートに乗せられる。
 地獄だ。
 まさに、地獄と言うべきだろう。

(……情けない)

 だというのに、この自分がこれしきのことで、こんなに傷ついてどうするのか。
 まして、あの場面でついに彼に助けを求めてしまうなど。
 そしてまた、今の自分は罪深くも、とある安堵を覚えてもいる。
 もちろん、あの男に最後まで犯されなかったことにだ。

 あの時、自分は自覚した。
 「こんな男に犯されるぐらいなら、いっそ」と思った自分のことを。
 同じ男に犯されるなら、せめてと叫んだ自分の心を。

(……ベータ)

 そうだ。
 そんな資格もないくせに、自分はいつの間にかあの男に、そんなことを望んでしまっていた。
 いや、とっくに気づいていたのだ。
 彼の声を聞くとき、その素顔を、星のような光を放つあの瞳を目にするとき。
 何かの拍子に手が触れたり、肩が触れたりするときに。
 どうして自分の胸が妙にうきたち、今まで感じたこともないような高揚感に包まれるのか。

(ベータ……)

 降りつづける雫の下で、アルファは口元を手で覆った。
 こんな気持ち、気づいてどうしようというのか。無駄なだけではないか。少なくとも彼に対して、打ち明けるわけには行かないというのに。
 自分は今や、彼の相棒バディだ。そうして彼はバディとそういう親密な関係になることを好まないかもしれない。いや、ここまでの言動からして、それは間違いないように思われる。彼は本来、愛だの恋だのといった甘っちょろい関係など見下している男なのだから。
 もしも告白などしてしまったら、彼は自分と単なるバディでいることすら解消しようと言い出すかもしれない。一度ぐらい、寝るぐらいのことは了承してくれるかもしれないが、バディとしての関係はそこで途切れるのに違いなかった。

 だから、言えない。
 彼と会えなくなるのは嫌だった。
 金が必要だからというのは勿論あるが、それ以上に、ただ彼と離れたくなかった。
 ただの相棒で構わないから、彼のそばにいたかった。

「……ベータ」

 アルファの唇から零れ出た、その後につづく小さな小さな告白は、温かな雨音がすべて攫って、シャワールームの排水溝へとあとかたもなく流し去っただけだった。


しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

【完結】『ルカ』

瀬川香夜子
BL
―――目が覚めた時、自分の中は空っぽだった。 倒れていたところを一人の老人に拾われ、目覚めた時には記憶を無くしていた。 クロと名付けられ、親切な老人―ソニーの家に置いて貰うことに。しかし、記憶は一向に戻る気配を見せない。 そんなある日、クロを知る青年が現れ……? 貴族の青年×記憶喪失の青年です。 ※自サイトでも掲載しています。 2021年6月28日 本編完結

渇望の檻

凪玖海くみ
BL
カフェの店員として静かに働いていた早坂優希の前に、かつての先輩兼友人だった五十嵐零が突然現れる。 しかし、彼は優希を「今度こそ失いたくない」と告げ、強引に自宅に連れ去り監禁してしまう。 支配される日々の中で、優希は必死に逃げ出そうとするが、いつしか零の孤独に触れ、彼への感情が少しずつ変わり始める。 一方、優希を探し出そうとする探偵の夏目は、救いと恋心の間で揺れながら、彼を取り戻そうと奔走する。 外の世界への自由か、孤独を分かち合う愛か――。 ふたつの好意に触れた優希が最後に選ぶのは……?

男色医師

虎 正規
BL
ゲイの医者、黒河の毒牙から逃れられるか?

狐に嫁入り~種付け陵辱♡山神の里~

トマトふぁ之助
BL
昔々、山に逃げ込んだ青年が山神の里に迷い込み……。人外×青年、時代物オメガバースBL。

僕の宿命の人は黒耳のもふもふ尻尾の狛犬でした!【完結】

華周夏
BL
かつての恋を彼は忘れている。運命は、あるのか。繋がった赤い糸。ほどけてしまった赤い糸。繋ぎ直した赤い糸。切れてしまった赤い糸──。その先は?糸ごと君を抱きしめればいい。宿命に翻弄される神の子と、眷属の恋物語【*マークはちょっとHです】

温泉でイこう!~イきまくり漏らしまくりの超羞恥宴会芸~

市井安希
BL
男子大学生がノリでエッチな宴会芸に挑戦する話です。 テーマは明るく楽しいアホエロ お下品、ハート喘ぎ、おもらし等

秘花~王太子の秘密と宿命の皇女~

めぐみ
BL
☆俺はお前を何度も抱き、俺なしではいられぬ淫らな身体にする。宿命という名の数奇な運命に翻弄される王子達☆ ―俺はそなたを玩具だと思ったことはなかった。ただ、そなたの身体は俺のものだ。俺はそなたを何度でも抱き、俺なしではいられないような淫らな身体にする。抱き潰すくらいに抱けば、そなたもあの宦官のことなど思い出しもしなくなる。― モンゴル大帝国の皇帝を祖父に持ちモンゴル帝国直系の皇女を生母として生まれた彼は、生まれながらの高麗の王太子だった。 だが、そんな王太子の運命を激変させる出来事が起こった。 そう、あの「秘密」が表に出るまでは。

【完結】海の家のリゾートバイトで口説かれレイプされる話

にのまえ
BL
※未成年飲酒、ビールを使ったプレイがあります 親友の紹介で海の家で短期アルバイトを始めたリョウ。 イケメン店長のもとで働き始めたものの、初日から常連客による異常なセクハラを受けた上、それを咎めるどころか店長にもドスケベな従業員教育を受け……。

処理中です...