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第二章 スメラギの秘密
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しおりを挟むそれからのタカアキラは、ほとんど食事も喉を通らなくなった。これまで何の疑問もなく口にし、袖を通していた豪奢な食事や絹の着物が厭わしくてならなかった。
やっと口にしたものも、すぐに胸がむかついて戻してしまう。着るものも、「そのようなものをお召しになっては」と女官らが泣きそうな声でとどめるのを振り切って、木綿のごく素朴な単を着るだけだった。
それらがあの母やヒナゲシの君と同じ立場だった子らの、あるいは春を鬻ぎ、あるいはその命をすら懸けて稼ぎだしたもので成り立っていると思えば、当然のことだった。
青白い顔をしてずっと塞ぎこんでいるこの第三皇子のことを、周囲の従者や女官らはひどく心配していた。しかし、いかに「どうなさったのです」「お体の具合でも」と尋ねられても、答えるわけには行かなかった。
結局のところ、こうしたヒナゲシとの話し合いは、その後も極秘裏に行われ続けた。とはいえ期間としてはごく短く、ほんのひと月あまりだったろうかと思われる。実際は、一回の時間も本当に短いもので、あれらの長い話すべてを終えるのに、相当の日数を要することになったのだった。
その後もヒナゲシは何かと理由をつけてはあの池の端へとやってきた。そうして、この不思議な「逢瀬」は続いていった。が、お互い、不思議と一片の恋情も起こりはしなかった。ヒナゲシは確かに美しく、心栄えのしっかりとした優しく強かで賢い女人だったけれども、タカアキラが彼女に熱い想いを抱くということはまったくなかった。
彼女はむしろ、皇子にとっては大切な義姉であり、かつまた「戦友」とでも呼ぶべき人だったのである。
こんな状況下であり、しているのはこのように殺伐としたことばかりだったとは言え、彼女はタカアキラにとって肉親以上に心を開いて話のできる、大切な相手になっていった。
だが。
そんな「蜜月」は、決して長くは続かなかった。
皇太子妃ヒナゲシが、ある夜、突然に失踪したのだ。
◆◆◆
その夜、タカアキラは体調が思わしくなく、自室の褥の中にいた。皇子の身辺を護るため配置された衛士たちが、部屋の外でおこなう交代の寝ずの番、宿居をしてくれている。
鬱々として眠ることもできず、ただぼんやりと部屋の隅で小さな明かりを灯している蝋燭の火を見つめていたら、突然、頭の中で声がした。
《タカアキラ様。タカアキラさま……!》
それは必死の、女人の声だった。
聞き間違うはずもない。ヒナゲシだ。
その声が彼女にしてはひどく慌てて、溢れる恐れに取り巻かれ、切羽つまったものに聞こえた。
タカアキラは思わずがばっと起き上がり、すぐに頭の中で返事をした。
《どうなさったのです、義姉上さま……!》
《いけない……いけない。ああ、駄目だわ。わたくしは恐らくもう──。どうか殿下、あなたはお気をつけあそばして……!》
「あの人に気をつけて」と、彼女は何度も叫んでいた。「『あの人』とはだれなのです」とタカアキラが何度尋ねても、彼女の思念は千々に乱れてうまくまとまらない様子だった。それから、何度も「ウロ」という単語が聞こえたが、それも意味がよく分からなかった。
彼女の背後から、何か恐るべきものが追いかけて来ているような。
一体、どうしたというのだろう。
《どうか、お願いです。殿下、どうか……『子ら』を、『子ら』を……!》
ヒナゲシの声は、そこまででぷつりと途切れた。その後何度よびかけても、決して返事が返ってくることはなかった。
居ても立ってもいられず、タカアキラは飛び起きてすぐに<隠遁>の技を使い、己が姿を隠して部屋から忍び出た。無論、外には衛士がいる。だから彼はじわじわと音もなく、まず遣り戸を開いて隙間をつくり、そこから外へと滑り出たのだ。
そうして衛士に足音を聞かれない場所まで出てからは、ひたすらに走った。中天にはほぼまるい形になった月が、煌々と輝く夜であった。
(義姉上、どちらに……?)
そう思いながらも、タカアキラの足は無意識のうちにも、長兄タカアキラとヒナゲシの寝所である棟へと向かった。あちらこちらに、もちろん衛士たちが寝ずの番に立っている。しかし能力を使っているタカアキラには、意味をなさない者たちだった。
と、心臓を絞られるような恐るべき何かを感じて、タカアキラは思わず立ち止まった。本能的に、庭木のかげに身を隠す。
その恐ろしい「気」を放っている何者かが、棟と棟をつないだ廊下のような、渡殿の上に立っていた。
(……!)
タカアキラは、そのとき呼吸することも忘れた。
渡殿の上に、寝巻き姿の一人の青年が立っている。周囲を照らす月明かりと、わずかばかりの灯火の光で見たその男は、この世ならぬほどの美しさだった。高貴な家の男子らしく、その表情は冴え冴えとして静かである。
しかし。
その目の色を見たとき、タカアキラの鼓動は止まった。
──その、目。
男の両眼はいま真っ赤に燃え上がり、夕焼けの色よりもさらに赤く、しかし鬼火のように冷たい光を放っていた。ときに山の端に見える血の色をした月は、いずれ来たるべき凶兆を示しているのだと言う。その禍々しさにも酷似して、男の瞳はぞくぞくとタカアキラの鳩尾を凍らせるようだった。
その眼はひたと皇居のはるか北東、山々の連なるあたりを睨み据えている。
(……もしや)
タカアキラは再び、本能的に理解した。
そこに今、あのヒナゲシがいるのであろうことを。
しかし、すぐにもそちらに向かおうと思うのに、体は言うことをきかなかった。両足は痺れたようになって庭の地面にへばりついており、どうしても動いてくれない。全身に鳥肌が立って、まるで滝のようにして背中を冷や汗が流れ落ちている。
恐ろしかった。
心底、恐ろしかった。
あれは、まことに人だろうか。
自分は今、生ける鬼を見ているのでは――。
そうこうするうち、やがて周囲が騒がしくなり始めた。「妃殿下が」「皇太子妃殿下が」という人々の声が近づいてきて、すぐに邸全体に広がっていく。
すると、渡り廊下の上にいた「鬼」もまた、ふっとその目の光をおさめ、まるでなにごとも無かったかのように踵を返して、あっというまに部屋の中へと消えてしまった。
……つまり、ナガアキラの寝室へ。
そこでやっと、タカアキラは金縛りにあったようになっていた自分の体が自由を取り戻したことを知った。そうして、慎重に<隠遁>の技を使いつづけながら、再び足音をひそませて自室へととって返した。
それ以上のことは、もはや無理だった。この場で自分までが行方不明になっていることが知れたら、後々、どういうことになるか分かったものではない。今回、行動をともにしていたわけではないけれども、いま自分が寝床を離れていなくなっていたことが皆に知れたら、余計な腹を探られることになるのは目に見えていた。
タカアキラは胸をかきむしられるような思いをしながら、しかし何事もなかったかのように自室に戻るしかなかった。
そして、その数日後。
皇太子妃ヒナゲシの哀れな亡骸が、皇居の北東を流れる川の岸で見つかったのだ。
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