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第一章 スメラギ皇国
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しおりを挟む雛罌粟の君は、どきりとするほど美しい横顔を少しうつむけて、まさにあの母のように、池の水面に寂しげな視線を落としていた。その風情がまことに、目を疑うばかりにあの母に酷似していて、タカアキラはしばし我を忘れて、その少女に見入ってしまった。
タカアキラとはちょうど反対側に、彼女の側仕えの者らしい女がひとり控えている。これはもともとこの宮中に仕えていた女のひとりだ。したがって、ヒナゲシにとってこの宮そのものと同様に、異なる世界のひとつの構成要素に過ぎない。
タカアキラがじっと見ているうちに、少女は小さなため息をひとつ落としてくるりと後ろを向いた。が、そのときふっと泳いできた彼女の視線がタカアキラのところでぴたりと止まった。
その瞬間、彼女はびくりと身を竦ませた。なんとなく、いたずらに「わっ」と驚かせたときの猫のようだと思った。
(しまった――)
いや、もう遅かった。
どうやらタカアキラは彼女の姿にみとれているうちに、うっかりと肝心の「気」を集中させることを怠ってしまったのだ。ヒナゲシは明らかにこちらの姿を認めて驚いていた。
幸い、彼女自身の影になって側仕えの者にはまだタカアキラの姿は見えていない。しかし、それも時間の問題だと思われた。ヒナゲシが今すぐ大声でもあげれば、自分のしでかしたことはあっというまに公になる。
本来、この宮にあっては成人した男子と女子が顔を見せ合って対峙することは控えるべきとされている。ましてや、相手が人妻ともなればなおさらだ。たとえそれが御簾をはさんでであったとしても、夫でもない成人男子が頻繁に人妻のもとを訪れるなどは、極めてはしたないことと見なされる。
それどころか、彼女はタカアキラにとっては義理の姉。斯様な事態は、すくなくともこのスメラギ宮にあって許されることではなかった。
タカアキラは木の幹に体を半分ほど隠しつつも、もう半ばは諦めていた。そして早々に次に起こることに対して腹をくくりかけていた。しかし。
ヒナゲシはきゅっとその紅くかわいらしい唇を引き締めると、ごくわずかに顎を上下させた。つまり、タカアキラに対して頷いて見せた。そうして、まったく何事もなかったかのようにして視線を逸らすと、側仕えの者に声をかけ、彼女の注意をタカアキラのいる方向から逸らしてくれたらしかった。
次の瞬間、タカアキラは「気」を集中しなおした。そうして再び姿を消すことに成功した。
が、ほっとしたのも束の間だった。
驚くべきことが起こったのだ。
《ご無礼ではございますが》
いきなり頭の中に、清げな少女の声が響いた。
《タカアキラ殿下でいらっしゃいますか》
(え……?)
タカアキラは驚きのあまり、再びうっかりと自分の「気」を緩めそうになったほどだった。呆然としているうちにも頭の中に、さらに声が響いてくる。
《遠くからではありましたけれど、婚礼の儀のおりに、一度お見かけ致しております。タカアキラ殿下とお見受けいたしましたが、間違っておりましたでしょうか》
落ち着いた優しげな声――否、それは「思念」とでもいうべきものだった。
まさか、これは<恩寵>なのだろうか。
(いや、しかし――)
この宮の慣習として、なにがしかの<恩寵>をその身にもつ女人が入内することはありえない。
ちなみに本来、<恩寵>を持つ者同士の場合、互いの力の強弱によってその力が発揮される度合いは変化する。もちろん、強い者に対して弱いものの力は有効に発揮されにくくなるのだ。
しかし、入内してミカドや皇太子の閨に侍ることになる皇后や皇太子妃に関しては、それら<恩寵>がいっさいあっては困る。なぜなら彼女らは、皇族が深い睡眠に陥っている間にそのすぐ隣にいられる、数少ない人間だからだ。
夫の無防備な時間を狙って、不届きな行いをされることもなきにしもあらず。実際、過去にはそうした例もあると聞く。
(しかし今、このかたは――)
タカアキラは、知らずごくりと喉を鳴らしていた。
明らかに、このかたには<恩寵>がある。こうして人の心に直接に呼びかけられる能力は、確か<念話>の力ではなかったか。そんな方がなぜ、皇太子妃としてこの宮に来ることができたのだろう。
ヒナゲシの君はこちらに目をやってはいなかったが、今のは明らかに彼女から発せられている思念の声だ。タカアキラは自分の鼓動が早まるのを覚えたが、恐る恐る自分も頭の中だけでそれに返事をしてみた。
《いかにも、その通りにございます。わたくしは、第三皇子、タカアキラ》
《やはり、そうであられましたか》
さわやかな少女の心の声が、するりとタカアキラの胸に滑り込んできた。
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