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第一章 スメラギ皇国
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しおりを挟むその年の春、スメラギ皇国皇太子ナガアキラのもとへ嫁するため入内してきたのは、やっと十三になったばかりの少女だった。
スメラギにおいては、子供は十三あるいは十四の年に成人の儀を迎えることになる。今回のようにまだまるで幼い娘が入内した場合、その夫婦生活は初めのうち、ただのままごとのような風情になるらしかった。
「らしかった」と言うのはもちろん、斯様な閨房のあれやこれやなど、当時まだその姫と同じほどの年にすぎなかったタカアキラにとっては単なる想像上のことでしかなかったからである。
娘はやがて宮で「雛罌粟の君」と呼称されるようになり、タカアキラもごくごく遠目にではあるが、宮の庭園にある池に掛かった反橋の上でたたずんでいる長兄と、その少女を見かけることがあった。
遠目であることを差し引いても、どうもおふたりは「仲睦まじい」と表現するにはほど遠い関係のように見受けられた。二人の動きはどことなくぎくしゃくしていて、立ち位置も遠く、その間に温かな言葉のやりとりがあるようには見えなかったのである。
ただ遠い場所からだとは言え、その少女がひどくあでやかな美しい人であることだけは分かった。初夏らしい爽やかな色あわせの装束に、緋色の長袴をひいた姿がまだ初々しい。しかし、その細身で儚い佇まいがどこかわが母を思い出させるように思われて、タカアキラの胸は軋むのだった。
あの少女を前に、兄は何を語っているのだろう。
彼女をどう思っているのだろうか。
母にしろ他の妃たちにしろ、彼女たちはいずこかからいつのまにか吟味され、選ばれてこの宮へとつれてこられる。それは恐らく、彼女ら自身の意思とは無関係であるのに違いなかった。
幼いとき、あの母がいつも池の面を見つめながら寂しげな風情でいたことを、この皇子はよく覚えていた。今にして思えばあのとき母が言った「思い出していた人」というのは、彼女がこちらへ連れてこられる以前に睦まじかっただれかのことであるのに違いなかった。
他の貴族の娘らとは違い、妃たちは近くに家族や親族のだれひとり居ない生活を強いられる。座学のときに学んだ皇家の長大な歴史書の中には、千年以上の大昔に妃の父方の家、つまり外戚が権力を握りすぎた挙げ句に皇家そのものをないがしろにしたという記録がある。彼らはそのまま放埓の限りを尽くし、あやうく皇家断絶の危機に至りかけたことがあるのだと。
母やあの皇太子妃らに後ろ盾がないことと、このことには関わりがあるのに相違なかった。しかし、座学の講師を務める博士たちや、老いた物知りの使用人らに訊ねてみても、これといった明らかな返答は得られなかった。
やはり、この皇家における最重要機密にあたることは、父たるミカドとその取り巻きの重臣らが握っている。しかし皇子たる自分が下手に臣下の者に近づくのは、逆に危ないことに思われた。かつて外戚が権勢を揮ったことで危うくなった経験をもつ皇家である。無闇に下手な動きをすれば、どんな疑いがこの身に降りかからないとも限らない。
(それではいっそ、父上に――)
そうは思うが、相手はこの国のミカドである。たとえ血を分けた息子といえども、あちらからのお召しもないままにこちらから強硬にお目通りを願うことは、この宮の儀礼上、道を外したことになるのだ。
それに、これは気の回しすぎなのかもしれないが、ミカドはタカアキラのみならず、普段から他の息子らに対してもあまり進んで顔を合わせようとはなさらない。ただまあこれは、もしかすると息子たちの風情の中に愛する亡き人の面影を見出してお辛いだけなのかもしれなかったけれども。
◆◆◆
さて。
そんなこんなで三月ばかりが瞬く間にすぎてしまった。
そのころ、タカアキラは時折り、己が<恩寵>つまり<隠遁>の能力についても自分なりに様々に検証することがよくあった。勉強や鍛錬の合い間を見ては、少し用を足しに行くようなふりをして部屋を抜け出し、庭木の陰などで「気」を集中させる。
集中させて何をするのかと言えば、要するにあの<恩寵博士>が言ったとおりのことだった。つまり一心に「隠れたい、隠れたい」と自分に念じる。
すると、辺りを掃除などしている小者の少年や下働きの女たちは、自分の姿を目にできなくなるようだった。タカアキラがかれらの目の前を通り過ぎても、そよと風が吹いた程度の反応しかしない。
それは、宮中で飼われている犬や猫などでも同じのようで、いつもなら大喜びでタカアキラの足にまろびついてくる子犬たちも、暢気に欠伸などしているのだった。つまり彼らにはタカアキラの姿のみならず、その匂いや気配といったようなものまで感じ取れなくなるようなのだ。
しかし、自分の姿が誰にも見えないというのも、やってみればなかなか難儀なことだった。誰にも見えないからといって安心していると、こちらの姿の見えていない相手から思い切りぶつかられたりしてしまう。そのため、常に用心は肝要だった。
「気」を集中している間は特に、いつも以上に周囲に気を配らなくてはならない。下手にぶつかってこちらがかすり傷でも負おうものなら、相手の者は悪くすれば極刑に処せられるかもしれないからだ。
タカアキラは足音をしのばせ、だれにもぶつかることのないようよく注意しながら、その日はあの母がよく好んでその畔に立っていた、あの池のあたりまで歩いていった。
しかし。
その日はそこに、先客がいた。
木陰からそちらをそっと見やって、タカアキラは思わず息を飲んだ。
そこに、もはや居るはずのない、あの母がいるのかと思ったのだ。
しかし、違った。
そこにいたのは、かの長兄の妻だった。
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