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第三章 ゆれる想い
4 ※
しおりを挟む気がつけば体の奥から、勝手にその声が発せられていた。
「……待って」
振り返ったベータのそばに、アルファは自分でも思いもよらぬ素早さで駆け寄っていた。
手を伸ばせば、届く距離。一瞬、身構えはしたようだったが、男はすぐにこちらの目の色を見て取ってその構えを解いた。とは言え、かなり怪訝な目で見返される。
「……なんだ」
アルファは自分でも、なぜ彼を呼び止めたのかがわかってはいなかった。いや、少なくとも「今の」アルファは。
そうしてまた、口が勝手に動いた気がした。
「さっきのは、本当……?」
「さっきの? 何がだ」
「だから――」
さらに足を少し進めて、彼に近づく。互いの距離はほんの体ひとつぶんだ。
するりと勝手に右手が動いて、彼の黒いベストの胸のあたりに指先が触れた。
「『いい匂いがする』、と――。あなたも……?」
「…………」
「あなたも……そう思ってる……?」
そう言ったら、ぎゅっと彼の眉間に皺がよった。
「だったら、何だというんだ」
「…………」
だが、そこまでだった。さっきはあれほど勝手に動いたくせに、アルファの唇はそれ以降、なにを言い出す気配もなかったからだ。
しかし、アルファにも分かっていた。
もしも今、「もとのアルファ」がわずかに顔を出したのだとすれば、彼に訊きたいことなどたったひとつに決まっていた。
『私を、抱きたいと思ってくれるか』。
『お前は私を、欲しいと思ってくれるのか』。
きっと、そうに決まっている。
あの獅子男に触れられたときには嫌悪感しかなかったはずなのに、なぜかベータに対してはそんな気持ちにならない自分に、とっくにアルファは気づいている。
いや、はっきり言おう。
自分はこの男に惹かれている。
もっと、しっかりと触れて欲しいと思っている。
そしてできれば、そういう関係になりたいと望んでいる。
そして多分、それは恐らく――。
(きっと……そうなんだ)
昔、軍人だった「アルファ」も恐らく、この男を密かに愛していた。
ベータの言に従うならば、言葉遣いも態度もさぞや可愛げはなかったのだろうけれども、それでも彼を憎からず思っていたのに違いない。
そうでなければ、彼のこまかな一挙手一投足に、いちいちこんなに胸が騒ぐ理由が分からない。彼がどこかの女にしなだれかかられ、豊満な胸を押し付けられて誘惑されるような場面を見たとき、きりきりと鳩尾が痛む、その説明がつかないのだ。
もっとも彼は、たとえそんな局面であっても少しも動じず、笑みを含んだ声を崩すこともないけれど。
(……彼になら)
彼にだったら、抱かれてもいい。
いや……抱いて欲しい。
それはもちろん、彼がこんな体を抱いてもいいと思ってくれればの話だけれど。
アルファは彼の胸に触れさせた指先を、つう、と下へ滑らせた。そのまま、さらに身を寄せる。
少し俯き、彼の肩先に顔を埋めるようにして、そっと囁いた。
「……すき」
とん、と額を軽くその肩につけ、瞼を閉じる。
一瞬、彼が息をのんだのが分かった。
きりきりと、胸の奥で刺が暴れまわっていた。
ベータの手がそっと両肩を掴み、少し体を離されて、アルファは目の中をじっとあの蒼い瞳に覗き込まれた。
あの真っ黒な三年間、ずっと自分を見守り続けていた、星の光。
それはあのとき、唯一自分を辛うじてこの世につなぎとめてくれていた蒼い光だ。
記憶を失くしてあの醜い男に咥え込まれ、ただの生ける人形に成り果てていた、この自分を。
「すき……」
アルファはぎゅっと目をつぶって、もう一度そっと囁いた。
黙っていたら、ただ赤子のように泣き出してしまいそうだったから。
「本気か」
彼の声が、やや掠れているようだった。アルファは無言でひとつだけ頷いた。肩に彼の指が食い込むのを感じたと思ったら、次の瞬間、その腕に体を抱きこまれていた。
息が詰まるほどに抱きしめられる。
何が起こったのかよくわからず、アルファはしばらくぼうっとしていた。
と、さわさわと彼の手がこちらの体を這いだして、先ほどの獅子男がしたようにして尻のあたりを撫でまわした。
「あ、……あ」
丸みを撫で、谷間を滑り、男のものをくわえ込むことをすっかり覚えこまされたその場所にするりと触れられ、腰がはねる。もう片方の手で巧みに服の上から胸の尖りに触れられて、ぴくん、と敏感に反応してしまう。
「……さっきあいつに、どうされた」
「え……」
目を開けると、明らかに怒りを乗せた瞳がじっとこちらを睨んでいた。その怒りは当然、あの男に対するものだろうと思われる。
「あの野郎、勝手に触りまくりやがって」
いつになく言葉が野卑になっているのも、その怒りのゆえだろう。それからふと、ベータはアルファの顔を覗き込むようにした。
「お前、嫌だったのか?」
「え?」
「あいつに触られた時だ。逃げもしないで突っ立っていただろう。まさかとは思うが、あれは嫌じゃなかったからか」
「ま、まさか……!」
かっと頭に血がのぼって、アルファは叫んだ。
そんなこと、思うはずがない。しかし、他人から見ればあれは確かに「まんざらでもないんだろう」と思われても仕方がないのかも知れなかった。
アルファは震えてくる声を抑えて、どうにか言った。
「そ……んなこと、思ってない」
アルファはぎゅっと唇を噛んだ。思わず拳を握り締める。
嫌に決まっている。
好きでもない相手から、あんな無遠慮なやり方で身勝手に体じゅうを撫で回されるなんて。
このベータの手と、あの男の手とでは、意味はまったく違うのだ。
「なら、イヤだったんだな?」
確かめるようにそう問われてこくりと頷くと、やっと男の顔から先ほどまでちらちらと仄見えていた険が消えた。
片腕で腰を抱かれたまま、ぽすぽすと子供にするように頭をたたかれる。
「イヤならちゃんと逃げるなり、はっきり断るなりしろ。店では困るが、他でなら反撃してもいいんだぞ。股間を思い切り蹴り上げてやれ。そのぐらいで丁度いいのさ、あんな野郎はな」
「いや、あの――」
あまりの言葉になんと答えたらいいものかわからずにいると、ベータは真摯な瞳になってこちらをじっと見つめてきた。
「いいか。もう、おまえの体にあのナノマシンはないんだ。何を考えても死ぬことはない。脳を破壊されることもない。もう、何を考えるのも自由なんだぞ」
(あっ……)
そう言われて、はっとした。
そうなのだ。自分は多分、無意識に自分の意思をおしこめていた。
あの三年、ゴブサムに飼われていた間じゅう、自分は自分の意思のすべてを殺されていた。それがやっと、この男の助けによってナノマシンから開放され、晴れて自由の身になった。しかし自分はもしかしたら、そのことを頭ではわかっていても、体のほうでは理解していなかったのかも知れない。
あのとき自分は「俺に抱かれろ」と強引に迫られて、ほとんど反射のようにして相手の言いなりになろうとしていたのではないのだろうか。つまり、無意識のうちにもいつのまにか、以前の奴隷としての振る舞いをしていたのかも。
(そうか……。それで)
それでベータは、これほど怒ってくれたのだ。
だから「お前はもう自由なんだ」と、「誰の持ち物でもないんだ」と、そして「嫌なら嫌だとはっきり言え」と、まっすぐに言ってくれているのだろう。
(ベータ――)
思わず目頭が熱くなりかけたとき、ベータが惚けたような顔で自分の顎の下を掻いた。
「安心した。俺はまた、うっかり人の恋路を邪魔するような野暮な真似をしてしまったかと」
「まさか! だ、だれが、あんな奴……!」
思わず大きな声を出したら、ベータはくはは、と明るく笑った。
「それは何より。……で? どこを、どうされたんだ」
腰を抱いていた腕にふたたび力がこもり、アルファはぴくんと体を固くした。
「言ってみろ」
そう言いながら、悪戯好きなもう片方の手が再びアルファの体を這いはじめる。
「え、あ……いや、だ」
さらさらと布地の上を滑る手が、尻から腰、脇腹をなぞり上げて再び胸のところで悪戯を始める。焦らすように軽くこすって、やがて弾いて。
巧い。彼の手は、間違いなく手馴れていた。
「んっ……あ、……あ」
敏感な場所に触れられるたびに声が震えて、とても返事などできない。
あの男に触られたときにはあれほど不快だったはずのことが、ただただ嬉しくてアルファは奥歯をかみ締めた。そうしていなければ、あっさりと妙な声が出てしまいそうだった。
そうこうするうちに、どんどん腰の奥に覚えのある感覚が集まり始めてしまう。
無意識にそこを彼の腰にこすりつけると、男は喉の奥で少し笑ったようだった。
勝手に浮かんでしまった涙を溜めた目で見返すと、顎の下に手をかけられ、そっと唇を奪われた。
「……ん」
それは先日の、あの噛み付くようなものとはまったくちがう、ひどく優しいキスだった。
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