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終章
エピローグ(1)
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《あの、インテス様》
「うん?」
《こ、こんなところに居ていいんですか? オレはともかく、インテス様は──》
「いいのいいの。そのために、忠実で優秀な補佐官たちをたくさん入れてあるのだから」
いやそういう問題ではない。
そう思うけれど、シディにはいまひとつ反対する気持ちが欠けていた。
なぜなら心密かに嬉しかったからだ。こうしてこの人と、ふたりきりで出かけることが。
巨大な狼の姿になって背にインテス様を乗せ、シディはいま帝都を見下ろせる高いところをゆっくりと旋回しつつ飛んでいる。
帝都と神殿を大いに破壊されたあの《闇》の最後の悪あがきから三年。もろもろの勉強に加え、魔力を扱う訓練も重ねて、今ではシディも自分の魔力を扱う術をかなり心得てきている。
(ああ。だいぶきれいに戻ってきたなあ……)
眼下の帝都は、すっかりもとどおりの活気を取り戻している。
そのなかで、神殿の建物だけは異様な雰囲気を湛えていた。そこだけはあきらかに覇気がないのだ。
最初こそ壊れた部分を補修しかかったらしいのだが、やがてその作業はとりやめになり、今では建物の一部取り壊しと改修作業に入っている。改修も、もとどおりに戻すためではなく、あれを別の建物に作り替えようとするものだった。
あれから、多くのことがあった。
神殿の最高位神官サクライエは、あの時の傷がもとで寝床から起き上がれなくなり、寝たきりになってしまったようだ。そこからあっという間に状態が悪くなり、老衰も進んで逝去してしまったのである。あの事件で大いに民心の離れた神殿にとってこれほどの打撃はなかった。結局、かれらがもとのように復活することは難しくなったのだ。
皇帝モロボスの体調もよくなかったのだったが、こちらもサクライエの後を追うようにして崩御した。死因に不審な点はなく、これまでの暴飲暴食や淫蕩の生活によって短命を招き寄せた、というのがご典医師団の下した診断だった。
もと皇太子のアーシノスが廃嫡されたあと、第一皇位継承権を持つことになった第二皇子は病がちな人で、皇帝崩御の直前になって「自分にはとてもこの大役は務まりませぬ」と継承権を返上してしまっていた。
第三皇子は人格破綻者であり、第四皇子は非常に虚弱な者だったため、双方臣下からの信頼を得られておらず、最終的に継承権を失うことになった。もちろんそれまでには大変なすったもんだがあったわけだが。それぞれ別の母后を持つ人であり、母方の貴族連中が頑なに反対したためである。
人格に問題が多かった第三皇子は、この混乱の中、非常に不審な死を遂げた。乗っていた皇宮の馬車が突然暴走して川に落ちたのである。
馬が暴走した理由はいまだに謎ということになっているけれども、シディたちは知っている。精霊たちにはこの世のありとあらゆることがお見通しだからだ。かれらはシディたちの耳に、そっと真実を囁いてくれた。
こうしたことを危惧していた第三皇子は毒見を何人も置いて口に入れるものについては非常に気を遣っていた。毒殺することは難しい、というわけで下手人たちは馬車の事故死に見せかけたというわけである。
これにはさすがにインテス様も顔色を悪くなさっていた。なんといっても、似たような事故で母上を亡くされているのだ、無理もないことである。
これらの騒動について第四皇子自身がどこまでかかわっていたかは不明だったが、恐らく親族のだれかが糸を引いたのは間違いないだろう。その事実を知ったせいなのかどうなのか、虚弱な皇子はひどく体調を崩し、ほとんど人事不省の状態にまで陥ったという。これで皇帝になれるはずがない。
というわけで、第四皇子とその近親貴族連中も、泣く泣く皇位継承権を手放したのだ。
もちろんこれらの騒動に、インテス様の陣営はいっさい関与していない。かれらは互いに権力に酔わされて、互いに食い合い、自滅していったばかりのことだ。
《もうすぐあそこに、師匠たちが来るんですね。楽しみです》
「ああ。そうだな」
もと神殿だった建物は、偉そうに天を衝いて建っていた高い尖塔がなくなって、もっと親しみやすい建物に生まれ変わることになっている。そしてそこは、五柱の精霊だけでなく、かれらの親たる白と黒の神々をも祀る魔塔と同じ組織になることになったのだ。
人々はこれから、これまでよりもいっそう強力な魔導士たちの力によって護られることになる。病気や怪我などもほとんど無料で治してもらえるはずだった。
目の前に広がる未来を考えると、胸がふわっと大きくなって息がしやすくなるようだった。シディは嬉しくて嬉しくて、空中でぴょんぴょん跳ねまわった。
「あはは! シディ、気持ちはわかるがあまり暴れないでくれ。私はそなたのように空は飛べないのだからね」
《あっ。すみません……》
「さて。落ち着いたら、あらためていろいろ考えなくてはな」
《そうですね。即位式とかなんとか、儀式がいっぱいなんでしょう?》
「いや、それはどうでもいい。適当にしよう」
《はい? なにをおっしゃってるんですか、皇帝陛下!》
ふざけてわざとそこだけゆっくり言ってあげたら、インテス様は苦笑した。
「こらこら。そんな称号はどうでもいいんだ。皇帝がどんな愚か者でも、しっかりした臣下がいれば国は回る。これまでもそうだったようにね。……私が欲しいのは、そんなつまらぬ称号ではないよ」
《えっ?》
狼の顔のまま、シディはきょとんとなった。
なにをおっしゃってるんだろう。
第二皇子、第三皇子、第四皇子。
みんな帝位を放棄した。
……となれば。
皇帝になられるのはだれあろう、このインテグリータス殿下を措いてほかにないではないか!
「うん?」
《こ、こんなところに居ていいんですか? オレはともかく、インテス様は──》
「いいのいいの。そのために、忠実で優秀な補佐官たちをたくさん入れてあるのだから」
いやそういう問題ではない。
そう思うけれど、シディにはいまひとつ反対する気持ちが欠けていた。
なぜなら心密かに嬉しかったからだ。こうしてこの人と、ふたりきりで出かけることが。
巨大な狼の姿になって背にインテス様を乗せ、シディはいま帝都を見下ろせる高いところをゆっくりと旋回しつつ飛んでいる。
帝都と神殿を大いに破壊されたあの《闇》の最後の悪あがきから三年。もろもろの勉強に加え、魔力を扱う訓練も重ねて、今ではシディも自分の魔力を扱う術をかなり心得てきている。
(ああ。だいぶきれいに戻ってきたなあ……)
眼下の帝都は、すっかりもとどおりの活気を取り戻している。
そのなかで、神殿の建物だけは異様な雰囲気を湛えていた。そこだけはあきらかに覇気がないのだ。
最初こそ壊れた部分を補修しかかったらしいのだが、やがてその作業はとりやめになり、今では建物の一部取り壊しと改修作業に入っている。改修も、もとどおりに戻すためではなく、あれを別の建物に作り替えようとするものだった。
あれから、多くのことがあった。
神殿の最高位神官サクライエは、あの時の傷がもとで寝床から起き上がれなくなり、寝たきりになってしまったようだ。そこからあっという間に状態が悪くなり、老衰も進んで逝去してしまったのである。あの事件で大いに民心の離れた神殿にとってこれほどの打撃はなかった。結局、かれらがもとのように復活することは難しくなったのだ。
皇帝モロボスの体調もよくなかったのだったが、こちらもサクライエの後を追うようにして崩御した。死因に不審な点はなく、これまでの暴飲暴食や淫蕩の生活によって短命を招き寄せた、というのがご典医師団の下した診断だった。
もと皇太子のアーシノスが廃嫡されたあと、第一皇位継承権を持つことになった第二皇子は病がちな人で、皇帝崩御の直前になって「自分にはとてもこの大役は務まりませぬ」と継承権を返上してしまっていた。
第三皇子は人格破綻者であり、第四皇子は非常に虚弱な者だったため、双方臣下からの信頼を得られておらず、最終的に継承権を失うことになった。もちろんそれまでには大変なすったもんだがあったわけだが。それぞれ別の母后を持つ人であり、母方の貴族連中が頑なに反対したためである。
人格に問題が多かった第三皇子は、この混乱の中、非常に不審な死を遂げた。乗っていた皇宮の馬車が突然暴走して川に落ちたのである。
馬が暴走した理由はいまだに謎ということになっているけれども、シディたちは知っている。精霊たちにはこの世のありとあらゆることがお見通しだからだ。かれらはシディたちの耳に、そっと真実を囁いてくれた。
こうしたことを危惧していた第三皇子は毒見を何人も置いて口に入れるものについては非常に気を遣っていた。毒殺することは難しい、というわけで下手人たちは馬車の事故死に見せかけたというわけである。
これにはさすがにインテス様も顔色を悪くなさっていた。なんといっても、似たような事故で母上を亡くされているのだ、無理もないことである。
これらの騒動について第四皇子自身がどこまでかかわっていたかは不明だったが、恐らく親族のだれかが糸を引いたのは間違いないだろう。その事実を知ったせいなのかどうなのか、虚弱な皇子はひどく体調を崩し、ほとんど人事不省の状態にまで陥ったという。これで皇帝になれるはずがない。
というわけで、第四皇子とその近親貴族連中も、泣く泣く皇位継承権を手放したのだ。
もちろんこれらの騒動に、インテス様の陣営はいっさい関与していない。かれらは互いに権力に酔わされて、互いに食い合い、自滅していったばかりのことだ。
《もうすぐあそこに、師匠たちが来るんですね。楽しみです》
「ああ。そうだな」
もと神殿だった建物は、偉そうに天を衝いて建っていた高い尖塔がなくなって、もっと親しみやすい建物に生まれ変わることになっている。そしてそこは、五柱の精霊だけでなく、かれらの親たる白と黒の神々をも祀る魔塔と同じ組織になることになったのだ。
人々はこれから、これまでよりもいっそう強力な魔導士たちの力によって護られることになる。病気や怪我などもほとんど無料で治してもらえるはずだった。
目の前に広がる未来を考えると、胸がふわっと大きくなって息がしやすくなるようだった。シディは嬉しくて嬉しくて、空中でぴょんぴょん跳ねまわった。
「あはは! シディ、気持ちはわかるがあまり暴れないでくれ。私はそなたのように空は飛べないのだからね」
《あっ。すみません……》
「さて。落ち着いたら、あらためていろいろ考えなくてはな」
《そうですね。即位式とかなんとか、儀式がいっぱいなんでしょう?》
「いや、それはどうでもいい。適当にしよう」
《はい? なにをおっしゃってるんですか、皇帝陛下!》
ふざけてわざとそこだけゆっくり言ってあげたら、インテス様は苦笑した。
「こらこら。そんな称号はどうでもいいんだ。皇帝がどんな愚か者でも、しっかりした臣下がいれば国は回る。これまでもそうだったようにね。……私が欲しいのは、そんなつまらぬ称号ではないよ」
《えっ?》
狼の顔のまま、シディはきょとんとなった。
なにをおっしゃってるんだろう。
第二皇子、第三皇子、第四皇子。
みんな帝位を放棄した。
……となれば。
皇帝になられるのはだれあろう、このインテグリータス殿下を措いてほかにないではないか!
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