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第十六章 恐慌
3 過去の傷
しおりを挟むシディたちが飛んでいく間にも、空がどんどん暗くなっていく。見ていると、それはどうやらあの《皿》が空の雨雲をすら吸い寄せているからのようだった。
まだ午前の時間帯だというのに、晴れて明るかったはずの空が嵐のときのそれにどんどん変化していく。雲は上空で渦をまき、そこから《皿》へむかって竜巻の足のようなものをのばしていた。
空中にはもはや帝都にある、ありとあらゆるものが吸い上げられ、うなりをあげて飛び交っている。
洗濯ものらしい大きな布や衣服がばたばたと音を立ててきりきり舞いをしている横を、桶や腰かけや鍋が飛んでいく。そして、小さな生きものたち。
体の軽い者から巻き上げられていくため、幼子や痩せた老人が悲鳴をあげながら飛んでいく。
《飛翔体》の面々のほかに、後方から補佐の支援隊がついてきていたが、彼等の一部は飛ばされていく人々の救助活動も担っていた。
魔導士たちは飛んでいく者に近づいては捕まえ、《飛翔体》の魔力の壁の内側に保護していく。
悲鳴をあげていない者は気を失っているか、残念ながらすでにこと切れている場合も多かった。さまざまなものが飛び交っているため、そうしたものに急所を打ち付けてしまったのだろう。
すべてを救い出すなどは無理な相談ではあったけれども、それでも別動隊は飛び上がっては救助を続けてくれている。
だがシディたちの使命はなにより、この騒ぎの大元を押さえることだった。
まだ相当遠方であるというのに、《黒き皿》はすでに不気味で大きな姿を空中に開き、周囲を圧する存在感を放っている。
《飛翔体》の面々はかねてからの打ち合わせどおり、散開して《皿》を囲むような形をとった。
インテス様は前々から「前回のあれが最後の攻撃だという保証はない」と常々おっしゃっており、魔導士たちは様々な場面に備えて作戦行動の訓練を怠らなかったのである。
《飛翔体》がじゅうぶん《皿》の周りを取り囲めたところで、セネクス翁が静かに言った。
「ではシディ。そろそろ変化を」
「はい!」
準備していたシディは少しだけインテス様たちから距離をとると、目を閉じて精神集中に入った。
慌ててはいけない。平常心を失っては元も子もなくなるのだ。
シディもすでに何度も訓練を繰り返してきている。もちろんこうした事態に備えるためにだ。
(帝都を守る)
帝都だけでなく、この世界を。《無》の侵略から守る。
それが自分の務めだし、使命だ。この世に生まれてきた意味だ。
(……でも)
と、思う気持ちがまったくないと言えばウソになる。
この街の最底辺で、汚泥にまみれるようにして生きていた頃のことを思うと、どうしても複雑な気分になるからだ。
自分は聖人君子にはほど遠い。あの親方に金を払って自分を好き放題に嬲っていた客たちの顔を思い出すと、今でも腹の底にむかつきを覚える。
あんな奴らまで救う必要があるだろうか? ……と、そんな風に考えたことは一度や二度ではなかった。
それらはすべて雑念になって、シディが自在に黒狼王に変化することを妨げたのだ。
だがそんな時、セネクス様もインテス様も辛抱強くシディを導いてくださった。
『シディがどれほど、客たちにひどい扱いを受け、虐げられてきたかは理解しているつもりだ。……もちろん、ある程度は、というにすぎないけれどね』
『だがシディ、思い出してほしいんだ。この街に、この世界にいるのはそなたを虐げた者たちだけではないということを』
インテス様の声のあとには、セネクス翁の穏やかな声が耳の奥に蘇ってきた。
『人はだれしも弱きものじゃ。弱さとはすなわち、己よりも弱き者を見出して嘲笑うこと、虐げることとなって現れる』
『そなたを虐げた者らは弱き者らじゃった』
『しかし、罪なき弱者もこの世には大勢おる。むしろそれらの者の方が多かろう』
『赤子や幼子でそなたを傷つけた者はあるまい。女たちの多くもそうであろう』
『離宮でそなたの世話をしてくれた者、旅先で出会った者。変化のときにはそうした者らのことを思い浮かべよ。そなたを愛し慈しんでくれた者たちのことを』
『もちろん、とりわけインテグリータス殿下のことを』
(はい。わかってます、師匠)
自分はもう揺らがない。
傷つけられた過去は変わらないし、その記憶がなくなることはこれからもないだろうと思う。
でも、もうその傷に今の自分をさらに傷つけさせたりはしない。
今の自分の隣には、だれよりもインテス様がいてくださるからだ。
「……いきます!」
ぱっと目を開いたのと、シディの身体から七色の光が発したのとは同時だった。
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