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第十四章 審議
4 皇太子宮
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「ヴルペスが煙のように消えたとでも言うのか? ふざけるなっ」
一方の皇太子宮。宮の主の執務室では、今しも報告をうけた皇太子の手から茶の入った器が臣下の顔に投げつけられたところだった。
「そのとき神官のダチョウ女までが一緒に捕まったというではないか。なんという失態! なんという不手際!」
いらいらと執務机のそばを歩き回るだけで、巨体の腹肉がゆれ、床が地響きをたてる。ぶくぶく太って日焼けをしていないなまっ白い顔の上には、ぶつぶつと相変わらず吹き出物が散っている。
アーシノスは肉厚保の手でがん、と執務机を叩いた。その拍子に書類や筆記具などがばらばらと落下した。
もうこれ以上口を開きたくなかったであろう臣下の男は、凍ったように床にはりついたまま、ようやくのことでこう言った。
「御前会議が招集されましてございまする。そ、その……第五皇子殿下の求めにより、陛下のご容態に関する疑義あり、とのことで──ぎゃっ!」
最後まで言い切る前に、その顔に羊皮紙の巻物が叩きつけられた。芯になっている木製の棒がしたたかに男の額を打った。
「もうよい! さがれッ」
「は、はは……」
目の縁あたりから血を滴らせながら男が下がっていく。まわりにいた文官たちが棒立ちになってそれを見送った。
なにかキリキリ音がすると思って文官らがそっと目をやると、それは皇太子がたてる歯ぎしりだった。
「うおのれえっ……インテグリータス! 妾腹風情が偉そうにのさばりおって」
実は「妾腹」というのはあたらない。一夫多妻のこの皇家にあっては、インテグリータスの母とて、れっきとした妃には違いないからだ。最初に生まれた男子が皇太子になり、その母である女が一応「正妃」のような形になるばかりのこと。あとの奥方はすべて「側妃」のような扱いにはなるが、さほど身分に差があるわけではない。ましてや「妾」つまり愛人呼ばわりなど、まったく当たらない話。
だが、今のアーシノスにはそんなのはどうでもいいことだった。
唯一無二の皇太子がいて、そのほかは有象無象にすぎぬこと。万が一、自分になにかあったときのための保険のようなものにすぎぬ。
ただ惜しむらくは自分にとっての直接の弟、本当に血を分けた弟がいないのは残念だ。母はほかにも皇子を生んだは生んだのだが、かれらはすべて成人する前に病死したから。
第一子の男子、つまり自分を生んでから後しばらくして、皇帝の母への寵愛は一気に失われたらしい。自分が皇太子に定められてからは夜のお渡りもほぼなくなり、ただ浪費と享楽があるだけの日々。子育てのほうはというと、貴族や皇族たちはふつう側近の乳母に任せるものなので忙しくはないのだ。
皇帝の心が離れたのは、どうやら「わが息子を一日も早く皇太子に」とやや強引に水面下で動きすぎたのが原因らしい。母の強い権力欲は、皇帝の興を大いにそいだのだ。同じ男としてその気持ちはわからなくもない。
そういう自分は、性格のみならず体質も母に似ているのだろう。少し放蕩が過ぎただけで体じゅうに純粋な人間としてはあり得ないほどの脂肪を蓄え、むやみと激しい性欲に身をまかせてしまいがちなところが、特に。
母はそれでも皇后ゆえ、宮に男を引き入れれば死罪は免れぬ。ゆえに意図的に男として使い物にならなくした者(つまり宦官)や女、子どもがその相手となった。
残酷さも大したもので、少しでも反抗的な態度を見せた者には苛烈な処罰をすることで有名だった。
そんな酸鼻をきわめる妻から皇帝は何十年も目をそむけ、無視しつづけてきた。
母に問題がなかったとは思わない。だがそれでもあんな男、父と思ったこともない。あんな男に無駄に長い期間、皇帝の座を温めさせることはないのだ。
どうせ醜く人望もない皇帝。死を願っている者のほうがはるかに多いはずである。
(それならさっさと、そのムダな王座を余に与えればよいものを)
そう思った。
あのやたらと下賤の民に人気のある見目麗しい弟皇子がこれ以上力をつける前に。
《救国の半身》だなどと調子づいて、これ以上自分の目の前をうろうろと小バエのように飛び回るようになる前にだ。
実際、母も同じ考えだったらしい。
なぜならあまり身分の高くなかった第五皇子の母親は、皇子を生んで早々に死んだらしいからだ。
背後にいたのはおそらく母だ──証拠はないが、血を分けた息子として本能的にそう感じる。恐らくそれはまちがいない。
第五皇子の母親は非常な美貌の人であり、心映えもすぐれ、そのころ父の寵愛を一身に受けていたという。あの母がどう動くかなど自明のことだった。
一方の皇太子宮。宮の主の執務室では、今しも報告をうけた皇太子の手から茶の入った器が臣下の顔に投げつけられたところだった。
「そのとき神官のダチョウ女までが一緒に捕まったというではないか。なんという失態! なんという不手際!」
いらいらと執務机のそばを歩き回るだけで、巨体の腹肉がゆれ、床が地響きをたてる。ぶくぶく太って日焼けをしていないなまっ白い顔の上には、ぶつぶつと相変わらず吹き出物が散っている。
アーシノスは肉厚保の手でがん、と執務机を叩いた。その拍子に書類や筆記具などがばらばらと落下した。
もうこれ以上口を開きたくなかったであろう臣下の男は、凍ったように床にはりついたまま、ようやくのことでこう言った。
「御前会議が招集されましてございまする。そ、その……第五皇子殿下の求めにより、陛下のご容態に関する疑義あり、とのことで──ぎゃっ!」
最後まで言い切る前に、その顔に羊皮紙の巻物が叩きつけられた。芯になっている木製の棒がしたたかに男の額を打った。
「もうよい! さがれッ」
「は、はは……」
目の縁あたりから血を滴らせながら男が下がっていく。まわりにいた文官たちが棒立ちになってそれを見送った。
なにかキリキリ音がすると思って文官らがそっと目をやると、それは皇太子がたてる歯ぎしりだった。
「うおのれえっ……インテグリータス! 妾腹風情が偉そうにのさばりおって」
実は「妾腹」というのはあたらない。一夫多妻のこの皇家にあっては、インテグリータスの母とて、れっきとした妃には違いないからだ。最初に生まれた男子が皇太子になり、その母である女が一応「正妃」のような形になるばかりのこと。あとの奥方はすべて「側妃」のような扱いにはなるが、さほど身分に差があるわけではない。ましてや「妾」つまり愛人呼ばわりなど、まったく当たらない話。
だが、今のアーシノスにはそんなのはどうでもいいことだった。
唯一無二の皇太子がいて、そのほかは有象無象にすぎぬこと。万が一、自分になにかあったときのための保険のようなものにすぎぬ。
ただ惜しむらくは自分にとっての直接の弟、本当に血を分けた弟がいないのは残念だ。母はほかにも皇子を生んだは生んだのだが、かれらはすべて成人する前に病死したから。
第一子の男子、つまり自分を生んでから後しばらくして、皇帝の母への寵愛は一気に失われたらしい。自分が皇太子に定められてからは夜のお渡りもほぼなくなり、ただ浪費と享楽があるだけの日々。子育てのほうはというと、貴族や皇族たちはふつう側近の乳母に任せるものなので忙しくはないのだ。
皇帝の心が離れたのは、どうやら「わが息子を一日も早く皇太子に」とやや強引に水面下で動きすぎたのが原因らしい。母の強い権力欲は、皇帝の興を大いにそいだのだ。同じ男としてその気持ちはわからなくもない。
そういう自分は、性格のみならず体質も母に似ているのだろう。少し放蕩が過ぎただけで体じゅうに純粋な人間としてはあり得ないほどの脂肪を蓄え、むやみと激しい性欲に身をまかせてしまいがちなところが、特に。
母はそれでも皇后ゆえ、宮に男を引き入れれば死罪は免れぬ。ゆえに意図的に男として使い物にならなくした者(つまり宦官)や女、子どもがその相手となった。
残酷さも大したもので、少しでも反抗的な態度を見せた者には苛烈な処罰をすることで有名だった。
そんな酸鼻をきわめる妻から皇帝は何十年も目をそむけ、無視しつづけてきた。
母に問題がなかったとは思わない。だがそれでもあんな男、父と思ったこともない。あんな男に無駄に長い期間、皇帝の座を温めさせることはないのだ。
どうせ醜く人望もない皇帝。死を願っている者のほうがはるかに多いはずである。
(それならさっさと、そのムダな王座を余に与えればよいものを)
そう思った。
あのやたらと下賤の民に人気のある見目麗しい弟皇子がこれ以上力をつける前に。
《救国の半身》だなどと調子づいて、これ以上自分の目の前をうろうろと小バエのように飛び回るようになる前にだ。
実際、母も同じ考えだったらしい。
なぜならあまり身分の高くなかった第五皇子の母親は、皇子を生んで早々に死んだらしいからだ。
背後にいたのはおそらく母だ──証拠はないが、血を分けた息子として本能的にそう感じる。恐らくそれはまちがいない。
第五皇子の母親は非常な美貌の人であり、心映えもすぐれ、そのころ父の寵愛を一身に受けていたという。あの母がどう動くかなど自明のことだった。
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