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第十三章 雌伏
7 記憶
しおりを挟む皇帝の着替えをさせたり、水差しの水を入れ替えたりしている女官たちに触れないように気をつけながら、シディは必死で様々なもののにおいを嗅ぎ、憶えることを繰り返した。
とはいえ、においというのはいっぺんに複数覚えることが困難なものでもある。「これが憶えるにおいだよ」と差し出されて、それひとつを探すのはずっとたやすいことだろうけれど、今回はどれが求めるにおいだかわからないのだ。
とはいえ、ここまで来て泣き言をいっても始まらない。
シディは女官が離れた隙を狙って、卓上にある薬らしいものの壺のにおいを嗅ぎ、それから皇帝のそばににじりよった。
(これが……皇帝?)
思わずじっと凝視してしまう。
その顔は、インテス様に連れられて謁見の間で見たときと、ずいぶん様子が変わっていた。眠ったままなのでろくな食事も摂れないからだろうが、あれほどでっぷりと太っていた顔や体がすっかりほっそりしてしまっている。頬がこけるほどではないけれど、かなりやつれて見えた。
顔色も非常に悪い。なんだかしなびた柑橘類の皮みたいだ。枯れ木のようながさがさした皮膚が、頬と顎のところにぶよぶよと垂れさがっている。人間の顔とは思えなかった。全体に、ひどく作りものめいて見えるのだ。ましてやこれが、あの美しいインテス様の兄だなんて信じられない。
女官が離れた場所にいることを確認してから、シディはそうっと身をのばし、皇帝の顔のそばに鼻を寄せた。
(やっぱり……)
なにか不自然で独特なにおいがするようだ。
病人というのは、それも特に重病にかかった者は独特の匂いがするものではある。鋭敏な鼻をもつ獣人や獣たちは、当人が自分でも気づかない病にかかっていることを鼻で感じ取る場合もあるのだ。自分が飼っていた犬があまり心配そうにするので医者にかかったところ、隠れた病が発見された……などといった話は、現在でも枚挙にいとまがない。
(だけど……これは)
もちろん病人のにおいもするけれど、これは単純に病による臭気だけだとは思えない。やはり何らかの作為的な、たとえば投薬などが原因なのではないだろうか。だとすれば、その証拠をつかまなくては。
シディは目を閉じ、皇帝の身にまとわりつくようにしてそこに漂っているにおいというにおいを記憶しようとした。もっと集中できればいいのだが、こちらの姿が見えないまま働いている女官たちの存在がどうしても気を散らしてくる。じりじりするが、そこは我慢だ。
気づかないうちに、シディのこめかみから汗が滴りおちていた。それが目に入るのにも構わず、シディは集中をつづけた。
植物。……そう、植物だ。たぶん、木の根かなにかだろう。あとは各種の鉱物。木の根は乾かして粉にし、鉱物も粉末状にして油で練り合わせたような、そんなにおい。
(それにしても、これは──)
古い記憶のどこかが、かさり、と音を立てた。
この匂い。かすかではあるが、憶えがある匂いのような気がするのだ。
(どこで……)
思いだそうとして、ハッとした。
暗黒の記憶の底にあった、その台詞がありありと耳の奥でよみがえったからだ。
──『おとなしくしろ! この野郎』
──『オヤジ、こいつ躾がなってねえぞ』
──『あれを持ってこい。おとなしくさせてやる!』
(ううっ……?)
どくどくと鼓動が早くなる。
同時に思い出すのは、あのひどい飢餓感と鞭の痛み。そして体が変に痺れて不自由になったまま、客に好き放題に嬲られたあの地獄のような日々──
(ま……まさか)
もしかして、自分は知っているのだろうか。
いや、確かに知っている。
このにおい、特に木の根みたいな埃っぽいにおい。これはかつて、男娼としてあの売春宿で男どもに体を売らされていたころ、時折りあの親父や客に使われたものではないだろうか……?
「はあっ……はあ」
心の臓がばくばくと音をたてる。耳の中がそれでいっぱいになって、女官たちに聞こえてしまわないか不安になるほどだ。急に眼前が暗くなって舌が口の中で張り付いたようになった。ひどく呼吸がしにくい。
「う……う」
だめだ。あまり声を立てるわけにはいかない。
シディは胸元の衣をにぎりしめ、うずくまって静かに息を整えた。
慌てることはない。ここはもう、あの売春宿ではない。
自分はもう自由なのだ。そしてもう、あの真っ黒くてみすぼらしい、ただの売春宿の男娼でもない。
(大丈夫……大丈夫だ)
それに、この手がかりはきっと貴重なものだ。あの木の根のようなもの、何かの鉱物のようなものが混ざり合ったにおいのする薬は、恐らく痺れ薬だったのだろう。自分はたまに使われるだけだったが、それでも数日は体に影響が残った。
もしかして、あれを常時口にさせられるとこの皇帝のような状態になるのでは?
いや、まだ結論を急ぐべきではないが。
(……よし)
遂にシディは目を開いた。
全身びっしょりと汗をかいて、衣はすっかり重たくなり肌に張り付いている。
女官たちはひと通りの世話を終了して、今は部屋の隅に控えている。彼女たちは皇帝の容体になにか少しでも変化があれば、すぐに医者を呼ぶための不寝番なのだ。
シディは呼吸を整えると、そっと心の中で語りかけた。
《セネクス師匠。終わりました》
《うむ。では入り口のそばで待機しておれ》
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