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第十章 決戦
12 水底へ
しおりを挟む《みんな下がって! さがってください……!》
ほとんど反射的に《腕》から飛びのく。
次の瞬間。
目の前が真っ黒な何かで覆われた。完全に視界が奪われる。と同時に炎の中に目を突っ込んだかのような激痛に見舞われた。
「うわっ……ああああああ!!」
痛い。いや、熱い。目玉が焼けて溶け落ちそうだ。
周囲からも魔導士と兵士らの悲鳴が聞こえてくる。
「ぐああっ!」
「目がっ……!」
「動じることはない」
阿鼻叫喚と恐慌に陥りかけた皆の耳に届いたのはセネクス翁の声だ。それはひどく落ち着き払っていて、もはや涼やかといってもいいほどのものだった。声と同時に穏やかな《癒し》の魔力が降りそそいでくる。襲って来たのと同じほど急速に痛みが去っていき、ほっと息をついた。次第に視界が復活してくる。
シディはぶんぶん頭を振りまわした。
体じゅうべっとりとして気持ちが悪い。見れば全身、《闇》の体液らしいもので塗れている。
まだ少し目が染みる。ちりちりと軽い痛みが残っているが、さほど問題はない。慌てて周囲に目を走らせたが、岩陰にいたインテス様はほとんど体液を浴びずに済んだようだった。殿下は殿下で、ご自身のことよりも、むしろこちらを心配そうにご覧になっている。
《大丈夫か? シディ》
《はいっ。問題ないです! セネクス様のおかげです》
《そうか……。よかった》
どうやらこれは《闇の腕》の最後の足掻きだったらしい。大勢を立て直したレオとティガリエが呼吸を合わせ、「せいっ」と得物を振り下ろすと、《腕》は呆気なくぶつりと切断された。文字通り丸太のように地面に転がる。……と見えた次にはもう、淡く黒い霧に変わってちりぢりに空中へと溶けていった。
「今じゃ。封印ぞ!」
《はいっ》
「お、おうっ!」
セネクス翁の声で皆は我にかえり、あらためて《荒布》の口を閉ざして絞り上げはじめた。
シディもインテス様と《魔力の壺》の能力を解放させる。
(閉じろ、閉じろ、閉じろ……っ)
念じるのはこれだけではない。
(消えろ。そしてもう二度とこっちへ戻ってくるなっ……!)
この二つを、とにかくひたすらに念じ続ける。その場にいる皆も心を合わせ、同じことを念じているはずだった。
《闇の皿》それでもまだかなり強力に抵抗した。なかなか《荒布》は縮まなかったのだ。まる一刻ほどもその攻防は続いた。
が、やがて次第しだいに力の均衡がくずれはじめた。じわじわと友軍のほうが優勢になってゆき──
遂に、「ぷつん」と音がした。
《闇》が開いていた扉は《荒布》とともに消えていき、地面に残されていた黒い腕の残骸も跡形もなく消え去っている。
しばらく、みなは呆然とそこに立ち尽くしていた。放心したように。シディもまだ身構えたまま、そっとインテス様と目を見かわす。と、インテス様がそっとうなずき微笑んでくださった。
それでようやく、じわじわと何かがせり上がってきた。
(やっ……た、のか……?)
「やれやれ。終わったようじゃの」
最初に動いたのはやはりセネクス翁だった。
「さすがに年寄りには堪えるわい」
言ってその可愛らしいイタチの手でぽくぽくと自分の肩など叩いておられる。
「……お、おお。どうやら成功みてえだな?」
レオがまだ多少狐につままれたような顔ながらもにやりと苦笑し、肩に大剣をどかりと乗せてティガリエに向き直る。当のティガリエは男と目だけは合わせたものの、特に返答する様子もない。ただ淡々と自分の得物である剣をぬぐい、鞘に戻しただけだった。
「や、……った?」
「やったのか?」
「やったんだ。本当に……やったんだ!」
次第しだいに皆の目に生気が戻り、嬉しそうな声がどんどん大きくなっていく。
「セネクス様、ばんざい!」
「《救国の半身》インテグリータス殿下、ばんざい!」
「黒狼王の神、オブシディアン様ばんざーいっ!」
《えっ。か、神さまって……。やっ、やめてください》
急にかあっと身体が熱くなって、へたりとそこに蹲ってしまう。全身から嘘のように力が抜け──いや、どうやら抜けすぎた。一度座りこんだら立ち上がることも難しい。身体から急に、全身にみなぎっていたあの力が溶け出して地面へ、空気中へと去っていくのを感じた。
「シディ!」
遠くでインテス様の声がする。
そう思ったのが最後になった。
ちゃんと返事をしようと目を上げたつもりだったが、うまくいかなかったのだ。むしろシディの瞼は鉛をつっこまれたかのように重くなり、ぴっちりと閉じてしまう。シディがどんなに命じても開くことは叶わなかった。
シディはそのまま真っ暗な、しかしひどく穏やかな眠りの海の底へと、急速に沈んでいった。
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