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第十章 決戦
7 変わる心
しおりを挟む脱出行は思った以上に難航した。《闇のヘビ》たちは二人の周囲をがっちりと取り囲んで逃がそうとしないし、そこをどうにかこうにか突破したかと思えばまた新手の《闇》が目の前に現れてゆく手を遮る。
それを咬みちぎり、蹴散らし、かき分けて進むうちに、さすがの黒狼シディも全身に重い疲れが広がるのを覚えはじめた。四つの足すべてにいくつもの岩を結び付けられたようだ。ひどくだるい。頭もぼうっとしはじめている。
それでもがむしゃらに目の前の《闇》を蹴散らすことはやめなかったけれど。
(くそうっ……。こんなところで!)
あまりの悔しさで、知らず牙をバリバリと噛み鳴らしていたらしい。
だからインテス様が優しい手つきで自分の首の横をぽすぽす叩いてくださっていることに気づくのもだいぶ遅れてしまった。
「シディ。落ちつくんだ」
「わうううっ……」
「気持ちはわかる。だがここで慌てても仕方がない。ここは二人でまた魔力を合わせてみようではないか。どうだ?」
「わうっ?」
(でも、インテス様)
そんなにお顔の色が悪いのに。
今、あなたにそんな無理はさせられない。
本来ならとっくに餓死でもしていたはずのところ、こんな場所でもなんとか体力を保たれていたのは《半身》としての魔力の加護があったからだろう。普通の魔導士よりはるかに強大な魔力を持つとはいえ、それでも体力には限りがある。術師自身はただの人間にすぎないからだ。器が脆ければ蓄えられる魔力にはどうしても限りがある。
(今ここでそんな無理をしたら、あなたは──)
「心配いらぬ」
シディの内面を正確に読み取った表情をなさっているインテス様の顔色は、やはり蒼白だった。いつもは明るく輝くような目元にも、目覚められてからこっちどす黒い隈がずっと居座っている。こんなもの、心配するなと言う方が無理だ。
(やめてください。それであなたにもしものことがあったら、オレは──)
正直、理性を保っていられる自信がない。
だがインテス様はふふっと笑った。ごく軽い調子で。
「そこまでの無理をしようと言うのではないさ。無理になったらそう申すゆえ」
(……本当ですか?)
「疑り深いなあ、我が半身どのは。私はそなたが思うほど我慢強くなどないよ。これで結構、根性なしなのだからな」
やつれたお顔でくすくす笑われると、胸に引き絞られるような痛みが走った。痛々しいなんてものではない。
決して余裕があるわけではないのだ。むしろ今のインテス様の状態はその真逆──。
シディはほんのわずかに沈黙し、ゆっくりと思考の扉を開いた。
《……インテス様。オレ、本当に感謝してるんです。あなたに》
「うん?」
背中側から意外そうな声が聞こえた。「急になにを」というお気持ちが、背中を通してありありと伝わってくる。
《あんなところで、あんな仕事をしていたオレを……何年も何年もかかってやっと見つけ出してくださった。村の女の子からも聞きました》
「ん? ……そうか」
どうやらお心当たりがあるようだ。インテス様の匂いがふと照れくさそうなものに変わる。黒狼王としての非常に敏感な鼻は、彼の微妙な変化すら手にとるように教えてくれるのだ。
《あの頃のオレは、ただのゴミだった。いやそれよりもずっとずうっと、つまらないモノだった》
「シディ──」
インテス様が絶句したのがわかる。
《いいえ。本当にそうだったんです》
あの頃。
夜な夜な性欲を満たすための玩具として男どもに金で買われ、好き放題に弄ばれるだけの存在だった自分は、いつ死んだからといって誰に惜しまれることもなかっただろう。それ以上金になる仕事ができなくなったことと、余計な死骸を片付けなくてはならないことを不快に思った親方が、舌打ちをするぐらいのことだったにちがいない。そうして、どこぞのゴミ捨て場にでも遺棄されたにちがいないのだ。
ただそれだけの存在にすぎなかった自分を、この人はずっと何年も探し回ってくださった。
一度は海の精霊に隠されて、その存在を感じることすらできなくなったというのに。それでも決してあきらめず、こうして自分にたどりついてくださった。
《だから。あなたのためならなんだってやるんです。オレは》
「シディ──」
《でも》
今はもう、それだけではなくなっている。
セネクス翁に言われた通りだ。もしも今、この場でこの方と一緒に命を喪うことになっても、以前のシディならそれで満足してしまっていたかもしれない。
「この方と一緒ならいいや」と、「この人となら死んでしまってもいい」と、どこかで諦めてしまっていたかも。
《でも……。今はもう、そうじゃないんです》
インテス様は静かにシディの次の言葉を待ってくださっている。
《いまは……みんながいる。セネクス師匠も、ティガリエも、ラシェルタも。それからレオも。……ほかのみんなも》
セネクス翁があちこちの島にシディを連れて回り、それぞれの場所に住む素朴な村人たちに会わせてくれたことの意味。それがこのところようやく、シディの腹にしっくりと落ちてきたのだ。
《誰も失わせたくない。たとえ短いものだったとしても、ちゃんと幸せに、自分の人生を生きてから死んでほしい。……前だったらこんなことは思わなかった。他の人のことなんてどうでもいい、っていうか……あんなひどい奴らなんて、みんな死んじゃえばいいって、そう思っていたかもしれない。すごく簡単に。でも、今はちがうんです》
「……うん」
匂いでわかる。インテス様が静かに微笑んでいる。
「そうなって初めて出せる力がある。師匠はそのようにおっしゃったのではないか? シディ」
《はい》
シディも静かに笑った。ただこの狼の顔ではそれがどこまで人の目で理解できるかは知らないけれど。
だがインテス様は、まさに「心の目」でもってシディの表情を的確に見極められたらしかった。
「そなたがそう思えるようになってくれて嬉しいよ、シディ。本当に」
《インテス様……》
優しい声に、ぶるっと全身の毛が逆立った。
きゅっと胸に走る鋭い痛みとともに、温かななにかが満ちている。狼の目からは何も溢れはしないけれど、もしも人の目であったなら、何かが零れ落ちてしまっていたかもしれなかった。
「では」とインテス様がおごそかな声で宣言した。
「ひとつその成果を、ここで披露してみようじゃないか。ん?」
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