106 / 209
第十章 決戦
4 輝くローブ
しおりを挟む シディは自分としては最速で《荒布》の下へ到達した。四つ足で走ればもっと速かったかもしれないが、今のところは両の足だけで走った。
《荒布》の口は下部でしっかり閉ざされている。それをシディはそっと自分の《魔力の腕》でこじあけた。ほんのわずかに。
「うっ……」
とたん、あのひどい悪臭がきつくなる。真っ黒な靄とともに顔面に吹き付けてくるそれは、生臭く、何かがどろどろに混ざり合って黴たような、大量の臓物の腐臭に似たものを漂わせていた。
が、戸惑っている暇などない。
そのままめりめりと《荒布》の口を広げると、シディはその中に飛びこんだ。
そこからはいきなり《闇》の領域が始まっていた。
「くうっ」
これまでとは比べものにならないほどの腐臭で鼻が利かなくなりそうだ。眼球にまで攻撃的な刺激を感じ、目を開いていることすらひと苦労だ。
と、急にがくんと足もとの感覚が失われた。
「うわっ……!」
シディは慌てた。しかしいくら待っても、予期したような体が地面に激突する様子はない。
なんとか目をこじ開けて見まわすと、周囲はすっかり《闇》の世界だった。
どちらが上でどちらが下なのかもわからない。闇はただすべてが真っ黒というわけでもないようだった。次第に目が慣れてくると、それが微妙な明暗をともなっているのに気づく。それらがぐにゃぐにゃと混ざり合い、まるで生き物のように渦を巻きながら流動的に蠢いている。
平衡感覚が完全に奪われた状態になって、シディはまためまいと吐き気に襲われた。
(どこですか、インテス様……!)
四肢をめちゃくちゃに振り回して周囲をかき回し、無我夢中で進もうとする。だが、まるで粘土の中に嵌まったようでうまくいかない。はたしてちゃんと前に進んでいるのかどうかすら怪しかった。
それでも必死に耳を立て、鼻の感覚に意識を集中させる。ひどい悪臭のためにすっかりばかになりかけている鼻だが、だからといって使わないわけにはいかなかった。
「インテス様、インテス様、インテスさまあああっ……!」
絶叫は虚しく真っ黒な粘土の高いなにかに吞み込まれていくようだ。変に音が吸収されてしまうのか、どうかするときぃんと耳が痛くなる。
これで耳まで使いものにならなくなったらお手上げだ。どうしてもじわじわと焦りが体を浸していってしまう。
だが頭の中心には、依然としてあのあたたかな明かりが灯っていた。それが少しでも弱くなると移動をやめ、方向を確認する。そして灯りの存在を強く感じられる方へ向かって、またもがくのを繰り返す。
いったいどれほどの時間が経っただろうか。
もうそのころには、シディの全身はぐったりと疲れ果て、腕を動かすのもままならなくなりかけていた。それでもなんとか腕を動かし続ける。念じるのはただただ、あの人の名前だけだ。
と、急に呼吸がひどく苦しくなりはじめた。
「うう……」
もともと決して楽ではなかったし、悪臭のためにできるだけ息をすまいともしていたのだが。それがここへ来て、急にひどく苦しくなってきたのだ。水中にいるときほどの苦しさではなかったものが、粘度のある水の中へ放り込まれたような感覚に変化している。
「う……ぐううっ」
まずい。このままでは窒息してしまう。
だが、進まないわけにはいかない。ここでやめてしまうわけにはいかないのだ。絶対に。
しかしシディの望みも虚しく、視界はどんどん狭まっていく。意識が遠のいているのを感じて、シディは狼狽した。
「いん……てす、さま……っ」
──ああ。
死ぬのか。
こんなところで、なんにもできずに──
絶望が忍び寄り、はるか遠くに感じていたほのかな灯りを闇で塗りつぶそうとしている。
これが《闇》。
これが、絶望。
《在る》もののすべてを否定し、すべてを《無い》ものへと誘うものか──
落ちていく。
沈んでいく……
これで、最後。
(インテス様……)
目を閉じた、そのときだった。
ぐぅん、と胸元から凄まじい光が放出された。強くて温かな光だった。
それがふんわりとシディの身体全体をつつんだかと思うと、薄物のローブをまとったようにぴたりと身体にまきついた。と同時に呼吸が急に楽になる。
(えっ……?)
シディは恐るおそるその力の源をさぐった。
それはまぎれもなく、シディが首から掛けていたあの首飾りから放たれている光だった。
《荒布》の口は下部でしっかり閉ざされている。それをシディはそっと自分の《魔力の腕》でこじあけた。ほんのわずかに。
「うっ……」
とたん、あのひどい悪臭がきつくなる。真っ黒な靄とともに顔面に吹き付けてくるそれは、生臭く、何かがどろどろに混ざり合って黴たような、大量の臓物の腐臭に似たものを漂わせていた。
が、戸惑っている暇などない。
そのままめりめりと《荒布》の口を広げると、シディはその中に飛びこんだ。
そこからはいきなり《闇》の領域が始まっていた。
「くうっ」
これまでとは比べものにならないほどの腐臭で鼻が利かなくなりそうだ。眼球にまで攻撃的な刺激を感じ、目を開いていることすらひと苦労だ。
と、急にがくんと足もとの感覚が失われた。
「うわっ……!」
シディは慌てた。しかしいくら待っても、予期したような体が地面に激突する様子はない。
なんとか目をこじ開けて見まわすと、周囲はすっかり《闇》の世界だった。
どちらが上でどちらが下なのかもわからない。闇はただすべてが真っ黒というわけでもないようだった。次第に目が慣れてくると、それが微妙な明暗をともなっているのに気づく。それらがぐにゃぐにゃと混ざり合い、まるで生き物のように渦を巻きながら流動的に蠢いている。
平衡感覚が完全に奪われた状態になって、シディはまためまいと吐き気に襲われた。
(どこですか、インテス様……!)
四肢をめちゃくちゃに振り回して周囲をかき回し、無我夢中で進もうとする。だが、まるで粘土の中に嵌まったようでうまくいかない。はたしてちゃんと前に進んでいるのかどうかすら怪しかった。
それでも必死に耳を立て、鼻の感覚に意識を集中させる。ひどい悪臭のためにすっかりばかになりかけている鼻だが、だからといって使わないわけにはいかなかった。
「インテス様、インテス様、インテスさまあああっ……!」
絶叫は虚しく真っ黒な粘土の高いなにかに吞み込まれていくようだ。変に音が吸収されてしまうのか、どうかするときぃんと耳が痛くなる。
これで耳まで使いものにならなくなったらお手上げだ。どうしてもじわじわと焦りが体を浸していってしまう。
だが頭の中心には、依然としてあのあたたかな明かりが灯っていた。それが少しでも弱くなると移動をやめ、方向を確認する。そして灯りの存在を強く感じられる方へ向かって、またもがくのを繰り返す。
いったいどれほどの時間が経っただろうか。
もうそのころには、シディの全身はぐったりと疲れ果て、腕を動かすのもままならなくなりかけていた。それでもなんとか腕を動かし続ける。念じるのはただただ、あの人の名前だけだ。
と、急に呼吸がひどく苦しくなりはじめた。
「うう……」
もともと決して楽ではなかったし、悪臭のためにできるだけ息をすまいともしていたのだが。それがここへ来て、急にひどく苦しくなってきたのだ。水中にいるときほどの苦しさではなかったものが、粘度のある水の中へ放り込まれたような感覚に変化している。
「う……ぐううっ」
まずい。このままでは窒息してしまう。
だが、進まないわけにはいかない。ここでやめてしまうわけにはいかないのだ。絶対に。
しかしシディの望みも虚しく、視界はどんどん狭まっていく。意識が遠のいているのを感じて、シディは狼狽した。
「いん……てす、さま……っ」
──ああ。
死ぬのか。
こんなところで、なんにもできずに──
絶望が忍び寄り、はるか遠くに感じていたほのかな灯りを闇で塗りつぶそうとしている。
これが《闇》。
これが、絶望。
《在る》もののすべてを否定し、すべてを《無い》ものへと誘うものか──
落ちていく。
沈んでいく……
これで、最後。
(インテス様……)
目を閉じた、そのときだった。
ぐぅん、と胸元から凄まじい光が放出された。強くて温かな光だった。
それがふんわりとシディの身体全体をつつんだかと思うと、薄物のローブをまとったようにぴたりと身体にまきついた。と同時に呼吸が急に楽になる。
(えっ……?)
シディは恐るおそるその力の源をさぐった。
それはまぎれもなく、シディが首から掛けていたあの首飾りから放たれている光だった。
0
お気に入りに追加
185
あなたにおすすめの小説

狂わせたのは君なのに
白兪
BL
ガベラは10歳の時に前世の記憶を思い出した。ここはゲームの世界で自分は悪役令息だということを。ゲームではガベラは主人公ランを悪漢を雇って襲わせ、そして断罪される。しかし、ガベラはそんなこと望んでいないし、罰せられるのも嫌である。なんとかしてこの運命を変えたい。その行動が彼を狂わすことになるとは知らずに。
完結保証
番外編あり
大嫌いだったアイツの子なんか絶対に身籠りません!
みづき
BL
国王の妾の子として、宮廷の片隅で母親とひっそりと暮らしていたユズハ。宮廷ではオメガの子だからと『下層の子』と蔑まれ、次期国王の子であるアサギからはしょっちゅういたずらをされていて、ユズハは大嫌いだった。
そんなある日、国王交代のタイミングで宮廷を追い出されたユズハ。娼館のスタッフとして働いていたが、十八歳になり、男娼となる。
初めての夜、客として現れたのは、幼い頃大嫌いだったアサギ、しかも「俺の子を孕め」なんて言ってきて――絶対に嫌! と思うユズハだが……
架空の近未来世界を舞台にした、再会から始まるオメガバースです。

皇帝陛下の精子検査
雲丹はち
BL
弱冠25歳にして帝国全土の統一を果たした若き皇帝マクシミリアン。
しかし彼は政務に追われ、いまだ妃すら迎えられていなかった。
このままでは世継ぎが産まれるかどうかも分からない。
焦れた官僚たちに迫られ、マクシミリアンは世にも屈辱的な『検査』を受けさせられることに――!?
悪役令息の七日間
リラックス@ピロー
BL
唐突に前世を思い出した俺、ユリシーズ=アディンソンは自分がスマホ配信アプリ"王宮の花〜神子は7色のバラに抱かれる〜"に登場する悪役だと気付く。しかし思い出すのが遅過ぎて、断罪イベントまで7日間しか残っていない。
気づいた時にはもう遅い、それでも足掻く悪役令息の話。【お知らせ:2024年1月18日書籍発売!】

親友と同時に死んで異世界転生したけど立場が違いすぎてお嫁さんにされちゃった話
gina
BL
親友と同時に死んで異世界転生したけど、
立場が違いすぎてお嫁さんにされちゃった話です。
タイトルそのままですみません。

異世界で8歳児になった僕は半獣さん達と仲良くスローライフを目ざします
み馬
BL
志望校に合格した春、桜の樹の下で意識を失った主人公・斗馬 亮介(とうま りょうすけ)は、気がついたとき、異世界で8歳児の姿にもどっていた。
わけもわからず放心していると、いきなり巨大な黒蛇に襲われるが、水の精霊〈ミュオン・リヒテル・リノアース〉と、半獣属の大熊〈ハイロ〉があらわれて……!?
これは、異世界へ転移した8歳児が、しゃべる動物たちとスローライフ?を目ざす、ファンタジーBLです。
おとなサイド(半獣×精霊)のカプありにつき、R15にしておきました。
※ 設定ゆるめ、造語、出産描写あり。幕開け(前置き)長め。第21話に登場人物紹介を載せましたので、ご参考ください。
★お試し読みは、第1部(第22〜27話あたり)がオススメです。物語の傾向がわかりやすいかと思います★
★第11回BL小説大賞エントリー作品★最終結果2773作品中/414位★応援ありがとうございました★

田舎育ちの天然令息、姉様の嫌がった婚約を押し付けられるも同性との婚約に困惑。その上性別は絶対バレちゃいけないのに、即行でバレた!?
下菊みこと
BL
髪色が呪われた黒であったことから両親から疎まれ、隠居した父方の祖父母のいる田舎で育ったアリスティア・ベレニス・カサンドル。カサンドル侯爵家のご令息として恥ずかしくない教養を祖父母の教えの元身につけた…のだが、農作業の手伝いの方が貴族として過ごすより好き。
そんなアリスティア十八歳に急な婚約が持ち上がった。アリスティアの双子の姉、アナイス・セレスト・カサンドル。アリスティアとは違い金の御髪の彼女は侯爵家で大変かわいがられていた。そんなアナイスに、とある同盟国の公爵家の当主との婚約が持ちかけられたのだが、アナイスは婿を取ってカサンドル家を継ぎたいからと男であるアリスティアに婚約を押し付けてしまう。アリスティアとアナイスは髪色以外は見た目がそっくりで、アリスティアは田舎に引っ込んでいたためいけてしまった。
アリスは自分の性別がバレたらどうなるか、また自分の呪われた黒を見て相手はどう思うかと心配になった。そして顔合わせすることになったが、なんと公爵家の執事長に性別が即行でバレた。
公爵家には公爵と歳の離れた腹違いの弟がいる。前公爵の正妻との唯一の子である。公爵は、正当な継承権を持つ正妻の息子があまりにも幼く家を継げないため、妾腹でありながら爵位を継承したのだ。なので公爵の後を継ぐのはこの弟と決まっている。そのため公爵に必要なのは同盟国の有力貴族との縁のみ。嫁が子供を産む必要はない。
アリスティアが男であることがバレたら捨てられると思いきや、公爵の弟に懐かれたアリスティアは公爵に「家同士の婚姻という事実だけがあれば良い」と言われてそのまま公爵家で暮らすことになる。
一方婚約者、二十五歳のクロヴィス・シリル・ドナシアンは嫁に来たのが男で困惑。しかし可愛い弟と仲良くなるのが早かったのと弟について黙って結婚しようとしていた負い目でアリスティアを追い出す気になれず婚約を結ぶことに。
これはそんなクロヴィスとアリスティアが少しずつ近づいていき、本物の夫婦になるまでの記録である。
小説家になろう様でも2023年 03月07日 15時11分から投稿しています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる