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第九章 暗転
2 違和感
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最初のうち、それは大した違和感ではなかった。
だが次第しだいにシディの胸に不思議な焦りが生じはじめた。
(……おかしい。なにか、変だ──)
でも、いざ「なにがどうおかしいのか」と訊かれたとしてもうまく答える自信がなかった。
胸がざわつく。首の後ろの毛が逆立って、全身がざわざわする。背筋が熱くなったり冷たくなったりを繰り返す。
それでも《壺》への魔力供給は続けていく。溢れでる魔力の糸がインテス様の技術で編みあげられ、大きな漁網のようになって《皿》を包み込み、縮小させ始めている。
始めてからずいぶんと長い時間が経っていた。よくわからないが、恐らく二刻は過ぎている。
……なにも問題はない。そのはずだ。ここまでは。
対象がいつもより巨大だとは言っても、順調に《皿》の大きさを縮めているし、彷徨い出てくる魔獣にもレオたちがちゃんと対処してくれている。《半身》に対しては非常に非協力的な神官団も自分たちの魔力を注いで作戦にきちんと寄与している。見たところ何の問題もないようだ。
しかし、シディの胸の鼓動はどんどん変な打ち方を強めていく。
なにかがおかしい。このままではダメだ。
なにかが非常に危険な気がする。
それはもう理屈ではなかった。
ほとんど本能的な叫びだった。
なんとかこの違和感をみんなに伝えなくては。
シディはどうにかこうにか、からからになった喉から声をしぼり出した。
「……い、インテスさま。インテスさまっ……」
「どうしたのだい、シディ」
さすがインテス様は冷静だった。究極まで集中力を求められる技をおこなっていながらも、シディの言葉を聞きのがすなんてことはなさらない。両腕を前に上げた格好のまま、目と耳はこちらに向けてくださる。
「な、なにか……変、ですっ」
「えっ? なにがだい」
インテス様の目が驚きに見開かれたが、それは決してシディの感覚を疑っているからではなかった。慎重に周囲を見回し、兵らや魔導士たち、神官団の様子を見やってまたシディを見る。
「なにか不安なことがあるのか? レオに伝えた方がよいか」
「は、はいっ。お願いします……!」
「レオ!」
「なんだッ。なんかあったか」
インテス様の叫びに、耳のいいレオはすぐに反応した。
今しも、飛び出てきた翼のある竜のような魔獣をばさりと斬り伏せたところだったが、黒くて臭い体液にまみれながらも即座にこちらを振り向く。
「シディが、何かおかしいと言っている。一旦、攻撃を中断して──」
「なりませぬッ」
インテス様の声を遮るように、右から甲高い声が響いた。高位神官、サルの顔をした人だ。確か名をシィミオと言ったか。もともと赤い顔を真っ赤にして、彼も両腕を《皿》に向かって突き出している。
「せっかくここまで多量の魔力を消費して、ここまで縮めたのですぞ。なんの問題がありましょうや。このままこの《皿》を閉じ切ってしまうまで、魔力の注入をやめるべきではないと存ずるッ」
「いや、しかし」
「だまらっしゃい!」
老人の声は枯れ木をこするようなキイキイした叫びに変わった。
「ここでまた勢力を取り戻させれば、さらなる怪我人が出まするぞっ。殿下はそれに十分な責任がおとりになれると申されるのかッ」
「左様、左様」
「その通りにございます」
ゴリラの顔のアクレアトゥスも、ダチョウの女ストルティも「そうだそうだ」と首を上下させている。
「左様な幼い子どもの戯れ言に耳を貸しておる場合にござりましょうや? ここは一気に畳みかけるべきじゃ。みなの魔力の損耗もはげしゅうござりますし」
インテス様は少し黙った。その目が「どうする」とレオに問うている。この場での指揮官はレオだ。
レオが、ちっと口の中だけで舌打ちした音が聞こえた気がした。
「損耗が激しいのは事実だ。しかし──」
レオがそう言いかけた時だった。
シディの中を稲妻のような何かが駆け抜けた。
(ダメだ……!)
脳が灼ける。
恐ろしい光景が眼前を覆う。それは一瞬の、そして一瞬後のことを教える不思議な映像だった。
シディは咄嗟に魔力を放出していた手を引き、インテス様の衣を掴んだ。力いっぱい。
「インテスさま! ダメ! 逃げて──っっ!!」
その瞬間だった。
かなり小さく弱くなっていたはずの《皿》の中から、ぬうっと黒い腕が現れた。
小さくなったとはいえ、それでも象の胴体ほどもある腕だ。真っ黒で、ねじくれた爪と針のような剛毛を生やした気味の悪い腕だった。
「あっ……」
急に周囲で起こっていることがゆっくりになる。
呆然としているうちに、その腕がインテス様の体を掴みあげ──
ぐうっという悲鳴を上げるインテス様。
怒号をあげるレオ。大剣を振り上げて腕に飛び掛かっていくが、鋼鉄のような肌に刃が何度も跳ね返される。
ティガリエが吠え声とともに飛び掛かる。が、それもまた虚しかった。
呆気にとられている神官たちと魔導士たち──
「インテス、さまあああああ────ッッ!!」
しかし。
シディが叫んだ時にはすべてが終わっていた。
気が付いたときにはもう、その場にはあの黒い腕も、巨大な《黒い皿》の姿も嘘のようにかき消えてなくなっていた。
……そしてもちろん、インテス様も。
兵らも魔導士たちも、ティガリエもレオも、みんな呆然と、なにも無くなったその場所で立ち尽くしていた。
その場に立ち込めていたあの胸の悪くなるような悪臭も、次第に風に吹かれて薄まっていく。
木々を揺らす平和なそよぎと、遠くに聞こえる潮騒の音。そして小鳥が鳴く幸せそうな歌声──
(……うそ、だ……。うそ──)
目の中が真っ赤になる。
自分の鼓動がひどくうるさい。
胸がいまにも裂けてしまいそうだ。
「……う、そ……。うそっ」
ぺたんとその場に膝をついた。
「いやだ……いやだっ。インテスさまっ……いやだあああああ──っ!!」
シディの叫びが、長閑な島の景色をつらぬき、細く長くあとを引いた。
だが次第しだいにシディの胸に不思議な焦りが生じはじめた。
(……おかしい。なにか、変だ──)
でも、いざ「なにがどうおかしいのか」と訊かれたとしてもうまく答える自信がなかった。
胸がざわつく。首の後ろの毛が逆立って、全身がざわざわする。背筋が熱くなったり冷たくなったりを繰り返す。
それでも《壺》への魔力供給は続けていく。溢れでる魔力の糸がインテス様の技術で編みあげられ、大きな漁網のようになって《皿》を包み込み、縮小させ始めている。
始めてからずいぶんと長い時間が経っていた。よくわからないが、恐らく二刻は過ぎている。
……なにも問題はない。そのはずだ。ここまでは。
対象がいつもより巨大だとは言っても、順調に《皿》の大きさを縮めているし、彷徨い出てくる魔獣にもレオたちがちゃんと対処してくれている。《半身》に対しては非常に非協力的な神官団も自分たちの魔力を注いで作戦にきちんと寄与している。見たところ何の問題もないようだ。
しかし、シディの胸の鼓動はどんどん変な打ち方を強めていく。
なにかがおかしい。このままではダメだ。
なにかが非常に危険な気がする。
それはもう理屈ではなかった。
ほとんど本能的な叫びだった。
なんとかこの違和感をみんなに伝えなくては。
シディはどうにかこうにか、からからになった喉から声をしぼり出した。
「……い、インテスさま。インテスさまっ……」
「どうしたのだい、シディ」
さすがインテス様は冷静だった。究極まで集中力を求められる技をおこなっていながらも、シディの言葉を聞きのがすなんてことはなさらない。両腕を前に上げた格好のまま、目と耳はこちらに向けてくださる。
「な、なにか……変、ですっ」
「えっ? なにがだい」
インテス様の目が驚きに見開かれたが、それは決してシディの感覚を疑っているからではなかった。慎重に周囲を見回し、兵らや魔導士たち、神官団の様子を見やってまたシディを見る。
「なにか不安なことがあるのか? レオに伝えた方がよいか」
「は、はいっ。お願いします……!」
「レオ!」
「なんだッ。なんかあったか」
インテス様の叫びに、耳のいいレオはすぐに反応した。
今しも、飛び出てきた翼のある竜のような魔獣をばさりと斬り伏せたところだったが、黒くて臭い体液にまみれながらも即座にこちらを振り向く。
「シディが、何かおかしいと言っている。一旦、攻撃を中断して──」
「なりませぬッ」
インテス様の声を遮るように、右から甲高い声が響いた。高位神官、サルの顔をした人だ。確か名をシィミオと言ったか。もともと赤い顔を真っ赤にして、彼も両腕を《皿》に向かって突き出している。
「せっかくここまで多量の魔力を消費して、ここまで縮めたのですぞ。なんの問題がありましょうや。このままこの《皿》を閉じ切ってしまうまで、魔力の注入をやめるべきではないと存ずるッ」
「いや、しかし」
「だまらっしゃい!」
老人の声は枯れ木をこするようなキイキイした叫びに変わった。
「ここでまた勢力を取り戻させれば、さらなる怪我人が出まするぞっ。殿下はそれに十分な責任がおとりになれると申されるのかッ」
「左様、左様」
「その通りにございます」
ゴリラの顔のアクレアトゥスも、ダチョウの女ストルティも「そうだそうだ」と首を上下させている。
「左様な幼い子どもの戯れ言に耳を貸しておる場合にござりましょうや? ここは一気に畳みかけるべきじゃ。みなの魔力の損耗もはげしゅうござりますし」
インテス様は少し黙った。その目が「どうする」とレオに問うている。この場での指揮官はレオだ。
レオが、ちっと口の中だけで舌打ちした音が聞こえた気がした。
「損耗が激しいのは事実だ。しかし──」
レオがそう言いかけた時だった。
シディの中を稲妻のような何かが駆け抜けた。
(ダメだ……!)
脳が灼ける。
恐ろしい光景が眼前を覆う。それは一瞬の、そして一瞬後のことを教える不思議な映像だった。
シディは咄嗟に魔力を放出していた手を引き、インテス様の衣を掴んだ。力いっぱい。
「インテスさま! ダメ! 逃げて──っっ!!」
その瞬間だった。
かなり小さく弱くなっていたはずの《皿》の中から、ぬうっと黒い腕が現れた。
小さくなったとはいえ、それでも象の胴体ほどもある腕だ。真っ黒で、ねじくれた爪と針のような剛毛を生やした気味の悪い腕だった。
「あっ……」
急に周囲で起こっていることがゆっくりになる。
呆然としているうちに、その腕がインテス様の体を掴みあげ──
ぐうっという悲鳴を上げるインテス様。
怒号をあげるレオ。大剣を振り上げて腕に飛び掛かっていくが、鋼鉄のような肌に刃が何度も跳ね返される。
ティガリエが吠え声とともに飛び掛かる。が、それもまた虚しかった。
呆気にとられている神官たちと魔導士たち──
「インテス、さまあああああ────ッッ!!」
しかし。
シディが叫んだ時にはすべてが終わっていた。
気が付いたときにはもう、その場にはあの黒い腕も、巨大な《黒い皿》の姿も嘘のようにかき消えてなくなっていた。
……そしてもちろん、インテス様も。
兵らも魔導士たちも、ティガリエもレオも、みんな呆然と、なにも無くなったその場所で立ち尽くしていた。
その場に立ち込めていたあの胸の悪くなるような悪臭も、次第に風に吹かれて薄まっていく。
木々を揺らす平和なそよぎと、遠くに聞こえる潮騒の音。そして小鳥が鳴く幸せそうな歌声──
(……うそ、だ……。うそ──)
目の中が真っ赤になる。
自分の鼓動がひどくうるさい。
胸がいまにも裂けてしまいそうだ。
「……う、そ……。うそっ」
ぺたんとその場に膝をついた。
「いやだ……いやだっ。インテスさまっ……いやだあああああ──っ!!」
シディの叫びが、長閑な島の景色をつらぬき、細く長くあとを引いた。
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