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第四章 皇帝と魔塔
13 白と黒の系譜
しおりを挟む「無理もございませぬ。ゆっくりご理解くだされば結構にございまするゆえ」
言って老人はやわらかく笑った。
その莞爾とした微笑みを見ているだけでほっとしてしまう。見た目が可愛らしいだけではなくて、不思議な人だ。あの治癒師キュレイトーにも似たようなことを感じたが、これが長く生きてきた人に特有の人徳というものなのだろうか。インテス様がこれらの人たちを信頼しているのもわかる気がする。
「敢えて申さば、かれら精霊は『在る』ことを楽しむ存在にござりまする。赤子だったあなた様を、『闇の勢力』は亡き者にしようとした。それを精霊たちはよしとはしなかった。ゆえにあなた様の母御の『この子をどうぞ生きさせてほしい』という望みを叶えた。なぜなら精霊たちは『在る』ことを楽しむ存在であるから。……これはおわかりいただけましょうや?」
「……は、はい……」
色々むずかしいが、そこはなんとなくわかる。
あの夜あらわれた海の精霊たちも、片言で聞こえた言葉や態度からして、基本的に無邪気で楽しそうに見えた。生きていること、『在る』ことを素直に楽しんでいるように見えた。シディが生きていて、あの場に『在る』ことを手伝えたことをただ純粋に喜んでいるようだった。
「対する『闇の勢力』というのはいわば……『存在を否定する者』とでも申すとよいかも知れませぬ。かれらは『在る』ことを嫌いまする。人が在ること、木々が在ること、海が在ること……つまりはこの世そのものが在ることを厭うのでござりまする」
「そ、それって──」
なにか矛盾していないだろうか。
だってその「闇の勢力」とやらも実際に存在しているのだ。それは自分自身すら否定していることにならないか?
「左様。彼らは自分の周りのありとあらゆる『存在』を滅却したのちには、最終的に己が身すら無に帰するのにござりましょう。かれらにとっては無こそが平安。……それほど、『在る』ということを憎み、厭う存在なれば」
「厄介なことだ。まことにな」
口を挟んだのはインテス様だ。
「奴らは数百年の周期で力を強め、最大の力を蓄えた時にこの世をすべて無に帰するために動き出す。そうして、それを止めるために生まれてくると言われているのが──」
「オレたち《救国の半身》、ということですか」
「そうだ。さすがシディは聡い」
「うひゃっ」
ぐりぐりと頭を撫でられて肩をすくめる。すでにいつもの光景になってしまっているが、こうされるといつだって嬉しくてしょうがない。勝手にまたしっぽがぱたぱた動いてしまう。
それを見ているセネクス翁の目がふっと細められた。それに気づいて急に恥ずかしくなり、きゅっと身を固くする。
「ん? どうしたんだ、シディ」
「どっ……どどど、どーもしない、です……っ」
「ふ、ふほほほほ!」
遂にたまりかねたのか、セネクス翁が大笑いし始めた。ますます恥ずかしくなってしまう。が、翁はすぐに態度をあらためた。
「……なれど。闇と申すものは、この世でしばしば『黒』という色に置き換えて考えられまする。ゆえにこの世では、歴史的、また文化的に黒という色そのものへの忌避感が強い。……あなた様が黒狼王の御子としてお生まれになったことはこの地の祝福であるにも関わらず、この世から忌避される人生を送らざるを得なかったこと。こればかりはまこと、心の痛む仕儀にござりました」
「…………」
──『黒い仔』。
そうだ。物心ついてからこっち、自分はずっとそう言われて見下され、嫌悪され、忌避されてきた。自分を買いに来た男たちも「薄汚い黒犬め」といって、好き放題に自分を苦しめたものだ。……その経験はいまだに生々しく、思い出せば吐き気と震えが起こってくる。
「大丈夫か、シディ」
気が付けば、またインテス様にしっかりと肩を抱かれていた。どうやら自分は呆然として顔色を失い、震えていたらしい。
「おお。余計なことを申しましたかの。申し訳もなきことにございまする」
「い、いえ……」
老人が心から申し訳なさそうに頭を下げるので、シディは首を横に振るしかできなかった。
「本来、『黒』が悪い色だということはないのでございます。事実、この世界に黒い肌、黒い毛並み、黒い瞳をもつ者は思う以上に多い。夜空が黒いことになんの悪がありましょうや。夜空は夜空。星をうかべ、月を輝かせるために必要な色であるとも申せましょう。……黒は、なにも悪うはないのですよ」
「セネクス様……」
じいん、と胸の奥が温まる心もちがした。
……黒は、悪くはない。汚くもない。
だってあの栄光ある狼王である父も、母も、やっぱり黒き狼だったではないか。
「この世界には、次々に《有》を生み出す場がある一方、次々にその《有》を飲み込み滅するばかりの《無》を発生させる場がある、と古代の文書にございましてな」
「えっ……」
「太古の昔、人は空の果て、あの星々の近くにすら飛んでいき、空の秘密を解き明かしていたという伝説がござりまして」
「ほ、ほんとうですか?」
「はい。そうやって、この世は《在る》と《無い》とを繰り返し、循環させて全体の調和を図っている。……と、我らは考えておるのです。それこそがこの世の深淵にある秘密、魔法と魔力の真の源であろう、と」
なんだそれは。信じられない。
シディは言葉もなく、相変わらずおだやかな翁の顔を見つめるばかりだった。
が、インテス様も翁と同様、ゆるやかに頷いて見せてくるだけだ。彼はすでにこうしたことを知っていたらしい。ではやっぱり、本当のことなのか──
「じゃ、じゃあ……。ええと。黒は、そんな悪い色じゃない……のですね」
「もちろんにございまするよ。ですから、どうか自信をお持ちくだされたく。あなた様はかの黒狼王の御子。そしてこの世を救う《救国の半身》にあらせられる。こうしてお目に掛かるももったいなき、唯一無二の存在にあらせられまする」
言って最後にセネクス翁は、これまでで最も低く、最も慇懃な長いお辞儀をしてくれた。
胸に広がる静かな温かさをじんわりと感じながら、シディもまた老人に対して、深い深いお辞儀を返したのだった。
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