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第四章 皇帝と魔塔
7 黒狼王
しおりを挟むはっと目を覚ました時、シディは殿下の部屋で寝かされていた。
ぎぎい、ぎぎいと波が船を揺らしている聞きなれた音がする。海の中を満たしているから様々な生き物たちの声も、いつもどおりのにぎやかさだ。
(オ……オレ、は)
ぼんやりと周囲を目だけで見まわす。途端、「シディ!」と人が立ち上がる気配がした。それが誰だかなんて、見なくてもわかっていた。この人のすてきな匂いだけはいつも、この鼻がちゃんと嗅ぎとっているからだ。
つぎの瞬間、優しい手のひらがシディの頬を撫でた。本当に大切なものを壊すまいとするように、そうっと。
「シディ……やっと目が覚めたか。良かった……」
もちろん殿下だ。温かなその声はいつもの生気をやや失って、少し震えているように聞こえた。
「待っていてくれ、いま医者を呼ぶ」
言ってすぐに出て行こうとする殿下の袖を、シディの手はきゅっとつかんだ。
「ん、なんだ……? どうした、シディ」
「でん……か」
あれから一体どうなったのか。あの光るもやもやの正体はなんだったのか。
それから、あの映像の真実は──。
訊いてみたいことは山ほどあるのに、シディの喉も舌もうまく言うことを聞いてくれない。自分の体はいったいどうなってしまったのだろう。もどかしさに胸がつまる。
自分を覗きこんでくるインテス様の紫の瞳には、たくさんの意味と感情が乗っているようだった。安堵と、慈愛と……たぶん、同情もあるのかもしれない。理由はわかるような気がした。
それからすぐに船医が呼ばれ、ひととおりの診察が終わってから、シディはまずしっかりと水を飲まされ、麦粥をあてがわれた。
「えっ……殿下。いいです、じ、自分で──」
「いや、ダメだ。私がする」
殿下は頑としてシディの望みを退け、手ずから粥を食べさせてくださった。
なんというもったいないことか。こんな自分なんかのために、この高貴な人が看病や世話をしてくださるなんて。病み上がりだというのに、申し訳なさで消えてしまいたくなってしまう。身の置きどころがないとはこのことだ。
シディは食べている間じゅう、そんな衝動を懸命に堪えなくてはならなかった。
そんなすったもんだの挙げ句、殿下はシディの口に匙を運びながら、ここまでわかった事情を順を追って教えてくれた。
「あの光は、海をつかさどる精霊たちだ。水の精霊たちだから、アクアに属する者たちだな。……あれらはそなたを、数年間隠してくれていたらしい」
「えっ。数年間も、ですか?」
「ああ」
あれからすぐ、シディはインテス様の腕の中で気を失ってしまったという。水の精霊たる光の靄たちはそれを見届けると、今度はインテス様に色々な情報を与えてくれた。
かれらの言語は非常に聞き取りづらく、片言な上に情報が前後するので非常にわかりにくかったのだが、まとめるとこういうことらしい。
彼らはあの事件のとき、シディの母親からシディを引き受け、海中深く隠してくれたのだそうだ。地上に現れた炎は意思を持つ悪霊のたぐいであり、火の精霊イグニスとは関係がないらしい。やつらはなぜか、この地に最後に生き残った黒狼の血を絶やさんと襲ってきたのだという。
「こ、こく……ろう?」
「そうだ。黒き狼。古代文書ではずっと昔に絶えてしまったと言われてきた、伝説のオオカミ族の王、黒狼王。……その末裔が、そなたなのだ」
呆然として、つい阿呆のように口をぽかんと開けたままになってしまう。そこへすかさず、殿下が粥をつっこむものだから激しく噎せてしまった。
「あ。すまぬ……」
「い、いえ……」
(ど、どういうこと……?)
言われたことがうまく咀嚼できない。いや、当たり前だけれど。
黒狼王だって? なんだそれは。
驚くとかなんとかいう以前に、とても自分と関係のある話だとは思えない。
インテス様はやっぱりどこか楽しげにシディの口に麦粥を運びながら、柔らかく微笑んだ。
「つまり、そなたは犬ではない。正確には、犬の祖先にあたる高潔な生き物、オオカミの一族だったというわけだ」
「そせん……」
「オオカミ族というのは、非常に高い能力と知性、そして魔力をも兼ね備えた一族だったと言われている。獣人に近い生きものではあるが、自由自在に獣と人との姿を行き来できる。より精霊に近しい存在だったとも」
「…………」
そういえば、あの映像の中の父は人型から獣型へと自在に姿を変えていたことを思い出す。
「ゆえにあの時、海の精霊たちはそなたの母の祈りに応えた。『我が子をどうか守ってほしい』という、己が命を懸けた願いに」
(じゃあ……やっぱり)
シディはぐっと奥歯を噛みしめた。
それではやはり、あれは自分の父と、母だったというのか。
記憶に残る二人の姿を、もう一度必死に追いかけてみる。この記憶だけは絶対に失うまいと心に誓う。
「そなたと私とは、互いに《救国の半身》だと言った。基本的に半身は同年、同時期に生まれてくるものとされている。それなのに、そなたはどう見ても私より年少だ。不思議に思っていたが、どうやらそういうことだったらしいな」
「そういう、ことって……」
「つまり。海の中にそなたを隠す間、精霊たちはそなたを眠らせたのだそうだ。ちょうど、半分死んだような状態にしてな。要するにそなたの時を止めた。そうしなければ、例の悪霊に存在を知られてしまう恐れがあったからだろう」
「…………」
「だから数年間、かれらはそなたを眠らせて海中で保護していた。やがてほとぼりが冷めた頃に、そっと人の世界へと帰してやったと言っていた──」
「そ……うなんですか」
いや、帰してくれたのは嬉しいが。
どうしてそこで、あの酷薄な売春宿の親父なんかの手に身柄が渡ってしまったのだろう。
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