26 / 209
第四章 皇帝と魔塔
5 深淵の怪
しおりを挟む
体じゅうがガクガク震えている。
しっぽはもちろんのこと、体じゅうのありとあらゆる細かい毛まで全部逆立っている感覚がした。
怖くて怖くてたまらず、物陰のさらに奥の、荷物が積んであるところのすみっこに尻を突っこむようにしてもぐりこんだ。しっぽで体をなるべく隠し、蓋をするみたいにして小さくなる。
(消えろ、消えろ、消えろ……!)
しかしシディの望みは虚しかった。
頭の中に響く声は、さっきよりもどんどん明瞭になっている。
《クロイコ……ドウシタノ》
《オカエリ、ゲンキ……ナイノ?》
《オイデヨ、オイデヨ……》
(うわああああっ!)
もう、怖いなんてもんじゃない。どうしたらいいのか分からない。恐怖のあまりに勝手に涙が出てきて、しゃくりあげそうになるのを必死に堪える。
ここにいるのもきっと危ない。やっぱり戻ろう。同じ隠れるにしても、せめて船室の奥に逃げたほうがいいだろう。
それに。
(インテス様……!)
もしもこのまま大変なことになるとしても、最後はあの方のそばにいたい。
もうほとんどすすり泣くみたいなみっともない顔をして、シディはそろりそろりと隠れ場所から這いだした。周囲の船員たちはぐうすか寝こけたままだ。その表情はどこまでも平和そのもので、なんだか恨みがましい気持ちになった。
物陰から自分の体ひとつぶんほどやっと這い出したところで、またあの音。
ここお……ん
こお……ん──
(うううっ……!)
明らかに音は大きく、明瞭になっている。
無我夢中で耳を塞ぎ、目をつぶって船倉への入り口を目指す。
が、なにほども進めないうち、少年はそこで固まらざるを得なくなった。
「ひっ……?」
それが現れたのは、本当にだしぬけだった。
月のある晩だとはいえ、海上は暗い。なのに、船の周囲をふわふわと何やら光るものが取り巻いているのだ。薄い靄のようにも、絹を流したようにも見えるそれは、ゆらりゆらりと船のまわりで揺蕩っていた。
と見る間にも、光の帯が少しずつ集まって、甲板の上で一つの形を成そうとしているようだ。
(な……なな、なんだようっ……)
もう泣きそう、というよりもう完全にべそをかいて、少年は太い帆柱のひとつにしがみついた。奥歯がかちかち鳴っている。それでもまだどうにか粗相はしていないが、それだけでも褒めてほしいぐらいだった。
光はどんどん集まっていき、やがてぼんやりと光る人のような影を作りだした。
と、その時だった。
「シディ!」
聞きなれた声がしたのと同時に、船倉の入り口からぱっと飛び出して来た人が、シディめがけて駆け寄ってきた。
「イ、……イイイ」
インテス様、と言おうとする声が掠れて形にもなってくれない。喉がからからなのだ。インテス様は構わずしゃがみこみ、シディの体を抱きしめてくれた。
「よかった、目が覚めたらそなたがいないものだから。心配したぞ」
「う、うううっ……」
インテス様の腕も胸も、ひどく温かい。
きゅうにどっと安堵が押し寄せてきて、喉がつまった。
そうこうするうちにも、目の前の光の形はどんどんはっきりしたものに変貌していく。
《クロイ……コ》
《コワクナイ、ヨ》
「……え?」
声が「怖くない」と言ったように聞こえて、不思議な気分になる。
怖くて何も考えられなかったけれど、そういえばこの光たちからはあまり敵意を感じないことにやっと気づいた。
《ワスレチャッタノ……? クロイコ》
頭の中に響く声は、なんとなく寂しそうな雰囲気に聞こえる。
不思議な気がして、シディはそろそろと目を開けた。インテス様はとっくに目を見開いて、じっと相手を凝視している。片腕でシディの体を抱いたまま、持ってきた剣の鞘をはらって光に向けておられる。
光がゆらり、とかしいだ。
人ならちょうど、首をかしげたような感じで。
《ソチラハ……シロイ、コ?》
《デハ、アエタノ? クロイコ》
《ヨカッタネ》
《ヨカッタネ》
「ええっ……?」
「どういうことだ? シディ。どうやら先ほどからこの者たちは、そなたを親しく呼んでいるようだが」
「しっ、知りません。わかりませんっ……」
シディは必死で首をぶんぶん左右に振った。
なにも知らない。わからない。物心ついた時から、あの売春宿の親方の所にいた自分だ。それ以前のことは記憶にない。
光の影がまた、ゆらり、と揺れた。
(えっ……)
次の瞬間。
目の前にぶわっとまぶしい光の渦が出現した。
と思ったら、その中につぎつぎと不思議な映像が浮かび始めた。
しっぽはもちろんのこと、体じゅうのありとあらゆる細かい毛まで全部逆立っている感覚がした。
怖くて怖くてたまらず、物陰のさらに奥の、荷物が積んであるところのすみっこに尻を突っこむようにしてもぐりこんだ。しっぽで体をなるべく隠し、蓋をするみたいにして小さくなる。
(消えろ、消えろ、消えろ……!)
しかしシディの望みは虚しかった。
頭の中に響く声は、さっきよりもどんどん明瞭になっている。
《クロイコ……ドウシタノ》
《オカエリ、ゲンキ……ナイノ?》
《オイデヨ、オイデヨ……》
(うわああああっ!)
もう、怖いなんてもんじゃない。どうしたらいいのか分からない。恐怖のあまりに勝手に涙が出てきて、しゃくりあげそうになるのを必死に堪える。
ここにいるのもきっと危ない。やっぱり戻ろう。同じ隠れるにしても、せめて船室の奥に逃げたほうがいいだろう。
それに。
(インテス様……!)
もしもこのまま大変なことになるとしても、最後はあの方のそばにいたい。
もうほとんどすすり泣くみたいなみっともない顔をして、シディはそろりそろりと隠れ場所から這いだした。周囲の船員たちはぐうすか寝こけたままだ。その表情はどこまでも平和そのもので、なんだか恨みがましい気持ちになった。
物陰から自分の体ひとつぶんほどやっと這い出したところで、またあの音。
ここお……ん
こお……ん──
(うううっ……!)
明らかに音は大きく、明瞭になっている。
無我夢中で耳を塞ぎ、目をつぶって船倉への入り口を目指す。
が、なにほども進めないうち、少年はそこで固まらざるを得なくなった。
「ひっ……?」
それが現れたのは、本当にだしぬけだった。
月のある晩だとはいえ、海上は暗い。なのに、船の周囲をふわふわと何やら光るものが取り巻いているのだ。薄い靄のようにも、絹を流したようにも見えるそれは、ゆらりゆらりと船のまわりで揺蕩っていた。
と見る間にも、光の帯が少しずつ集まって、甲板の上で一つの形を成そうとしているようだ。
(な……なな、なんだようっ……)
もう泣きそう、というよりもう完全にべそをかいて、少年は太い帆柱のひとつにしがみついた。奥歯がかちかち鳴っている。それでもまだどうにか粗相はしていないが、それだけでも褒めてほしいぐらいだった。
光はどんどん集まっていき、やがてぼんやりと光る人のような影を作りだした。
と、その時だった。
「シディ!」
聞きなれた声がしたのと同時に、船倉の入り口からぱっと飛び出して来た人が、シディめがけて駆け寄ってきた。
「イ、……イイイ」
インテス様、と言おうとする声が掠れて形にもなってくれない。喉がからからなのだ。インテス様は構わずしゃがみこみ、シディの体を抱きしめてくれた。
「よかった、目が覚めたらそなたがいないものだから。心配したぞ」
「う、うううっ……」
インテス様の腕も胸も、ひどく温かい。
きゅうにどっと安堵が押し寄せてきて、喉がつまった。
そうこうするうちにも、目の前の光の形はどんどんはっきりしたものに変貌していく。
《クロイ……コ》
《コワクナイ、ヨ》
「……え?」
声が「怖くない」と言ったように聞こえて、不思議な気分になる。
怖くて何も考えられなかったけれど、そういえばこの光たちからはあまり敵意を感じないことにやっと気づいた。
《ワスレチャッタノ……? クロイコ》
頭の中に響く声は、なんとなく寂しそうな雰囲気に聞こえる。
不思議な気がして、シディはそろそろと目を開けた。インテス様はとっくに目を見開いて、じっと相手を凝視している。片腕でシディの体を抱いたまま、持ってきた剣の鞘をはらって光に向けておられる。
光がゆらり、とかしいだ。
人ならちょうど、首をかしげたような感じで。
《ソチラハ……シロイ、コ?》
《デハ、アエタノ? クロイコ》
《ヨカッタネ》
《ヨカッタネ》
「ええっ……?」
「どういうことだ? シディ。どうやら先ほどからこの者たちは、そなたを親しく呼んでいるようだが」
「しっ、知りません。わかりませんっ……」
シディは必死で首をぶんぶん左右に振った。
なにも知らない。わからない。物心ついた時から、あの売春宿の親方の所にいた自分だ。それ以前のことは記憶にない。
光の影がまた、ゆらり、と揺れた。
(えっ……)
次の瞬間。
目の前にぶわっとまぶしい光の渦が出現した。
と思ったら、その中につぎつぎと不思議な映像が浮かび始めた。
1
お気に入りに追加
185
あなたにおすすめの小説

狂わせたのは君なのに
白兪
BL
ガベラは10歳の時に前世の記憶を思い出した。ここはゲームの世界で自分は悪役令息だということを。ゲームではガベラは主人公ランを悪漢を雇って襲わせ、そして断罪される。しかし、ガベラはそんなこと望んでいないし、罰せられるのも嫌である。なんとかしてこの運命を変えたい。その行動が彼を狂わすことになるとは知らずに。
完結保証
番外編あり

転生貧乏貴族は王子様のお気に入り!実はフリだったってわかったのでもう放してください!
音無野ウサギ
BL
ある日僕は前世を思い出した。下級貴族とはいえ王子様のお気に入りとして毎日楽しく過ごしてたのに。前世の記憶が僕のことを駄目だしする。わがまま駄目貴族だなんて気づきたくなかった。王子様が優しくしてくれてたのも実は裏があったなんて気づきたくなかった。品行方正になるぞって思ったのに!
え?王子様なんでそんなに優しくしてくるんですか?ちょっとパーソナルスペース!!
調子に乗ってた貧乏貴族の主人公が慎ましくても確実な幸せを手に入れようとジタバタするお話です。
大嫌いだったアイツの子なんか絶対に身籠りません!
みづき
BL
国王の妾の子として、宮廷の片隅で母親とひっそりと暮らしていたユズハ。宮廷ではオメガの子だからと『下層の子』と蔑まれ、次期国王の子であるアサギからはしょっちゅういたずらをされていて、ユズハは大嫌いだった。
そんなある日、国王交代のタイミングで宮廷を追い出されたユズハ。娼館のスタッフとして働いていたが、十八歳になり、男娼となる。
初めての夜、客として現れたのは、幼い頃大嫌いだったアサギ、しかも「俺の子を孕め」なんて言ってきて――絶対に嫌! と思うユズハだが……
架空の近未来世界を舞台にした、再会から始まるオメガバースです。

男子高校に入学したらハーレムでした!
はやしかわともえ
BL
閲覧ありがとうございます。
ゆっくり書いていきます。
毎日19時更新です。
よろしくお願い致します。
2022.04.28
お気に入り、栞ありがとうございます。
とても励みになります。
引き続き宜しくお願いします。
2022.05.01
近々番外編SSをあげます。
よければ覗いてみてください。
2022.05.10
お気に入りしてくれてる方、閲覧くださってる方、ありがとうございます。
精一杯書いていきます。
2022.05.15
閲覧、お気に入り、ありがとうございます。
読んでいただけてとても嬉しいです。
近々番外編をあげます。
良ければ覗いてみてください。
2022.05.28
今日で完結です。閲覧、お気に入り本当にありがとうございました。
次作も頑張って書きます。
よろしくおねがいします。
悪役令息の七日間
リラックス@ピロー
BL
唐突に前世を思い出した俺、ユリシーズ=アディンソンは自分がスマホ配信アプリ"王宮の花〜神子は7色のバラに抱かれる〜"に登場する悪役だと気付く。しかし思い出すのが遅過ぎて、断罪イベントまで7日間しか残っていない。
気づいた時にはもう遅い、それでも足掻く悪役令息の話。【お知らせ:2024年1月18日書籍発売!】

親友と同時に死んで異世界転生したけど立場が違いすぎてお嫁さんにされちゃった話
gina
BL
親友と同時に死んで異世界転生したけど、
立場が違いすぎてお嫁さんにされちゃった話です。
タイトルそのままですみません。


田舎育ちの天然令息、姉様の嫌がった婚約を押し付けられるも同性との婚約に困惑。その上性別は絶対バレちゃいけないのに、即行でバレた!?
下菊みこと
BL
髪色が呪われた黒であったことから両親から疎まれ、隠居した父方の祖父母のいる田舎で育ったアリスティア・ベレニス・カサンドル。カサンドル侯爵家のご令息として恥ずかしくない教養を祖父母の教えの元身につけた…のだが、農作業の手伝いの方が貴族として過ごすより好き。
そんなアリスティア十八歳に急な婚約が持ち上がった。アリスティアの双子の姉、アナイス・セレスト・カサンドル。アリスティアとは違い金の御髪の彼女は侯爵家で大変かわいがられていた。そんなアナイスに、とある同盟国の公爵家の当主との婚約が持ちかけられたのだが、アナイスは婿を取ってカサンドル家を継ぎたいからと男であるアリスティアに婚約を押し付けてしまう。アリスティアとアナイスは髪色以外は見た目がそっくりで、アリスティアは田舎に引っ込んでいたためいけてしまった。
アリスは自分の性別がバレたらどうなるか、また自分の呪われた黒を見て相手はどう思うかと心配になった。そして顔合わせすることになったが、なんと公爵家の執事長に性別が即行でバレた。
公爵家には公爵と歳の離れた腹違いの弟がいる。前公爵の正妻との唯一の子である。公爵は、正当な継承権を持つ正妻の息子があまりにも幼く家を継げないため、妾腹でありながら爵位を継承したのだ。なので公爵の後を継ぐのはこの弟と決まっている。そのため公爵に必要なのは同盟国の有力貴族との縁のみ。嫁が子供を産む必要はない。
アリスティアが男であることがバレたら捨てられると思いきや、公爵の弟に懐かれたアリスティアは公爵に「家同士の婚姻という事実だけがあれば良い」と言われてそのまま公爵家で暮らすことになる。
一方婚約者、二十五歳のクロヴィス・シリル・ドナシアンは嫁に来たのが男で困惑。しかし可愛い弟と仲良くなるのが早かったのと弟について黙って結婚しようとしていた負い目でアリスティアを追い出す気になれず婚約を結ぶことに。
これはそんなクロヴィスとアリスティアが少しずつ近づいていき、本物の夫婦になるまでの記録である。
小説家になろう様でも2023年 03月07日 15時11分から投稿しています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる