23 / 209
第四章 皇帝と魔塔
2 治癒と病
しおりを挟む
「殿下。殿下っ……」
「落ち着け、シディ。まずはしっかり呼吸するんだ」
シディがこの謁見のあらゆる不快さからやっと逃れられたのは、帰りの馬車に逃げ込むようにして飛びこんだ時だった。それでやっと、シディは胸いっぱいに息を吸って、吐くことができた。
すぐに気になっていたことを殿下に訴えようとしたのだが、息が苦しくてなかなかうまくいかない。殿下はすぐに馬車を出発させ、ぜいぜいと荒い呼吸を繰り返しているシディの背中をしばらく優しくさすってくれた。
「大丈夫か、シディ。すまなかったな。敏感で鼻のいいそなたには、さぞやつらい時間だったろう」
「いえ。それは……」
いいんですけど、と言いながら殿下の袖をつかむ。
「それより、殿下。皇帝陛下は、その……」
「ん?」
思わずキョロキョロしてしまい、「失礼します」と殿下の隣に座りなおして耳に口を寄せる。こんな話、だれか耳のいい人に聞かれでもしたら大変だ。いま近くにいるのは御者と、そばで馬で歩ませているティガリエだけだとはわかっていても。
なるべく声を落とし、ぼそぼそと殿下の耳に囁く。すると、なぜか殿下が少しだけ頬を染めたみたいに見えた。
「陛下、もしかして……重い病じゃないですか? その、ニオイが……」
「ああ。やっぱりそなたにはわかったか」
殿下は意外にもあっさりそう言って笑っただけだった。そのままシディの背中を抱き寄せ、頭を軽く撫でてくださる。「よしよし」とするみたいに。
「実は皇族の一部と、侍医、政府の高官らもすでに知っている。あの男の先はもう長くない」
「ええっ……」
まだ老衰で死ぬほどの年齢とは見えなかったから、やっぱり病気なのだろう。それもかなり重い、不治の病。
「でもあの、キュレイトー様とか──」
この国には優秀な治癒師がたくさんいるはず。そういう人にも治せない病なのだろうか?
そう訊ねたら、殿下は「ああ」と首を上下させた。
「もう優秀なご典医でも、治癒師でも治しきれない。口にこそ出さぬが、あのキュレイトーなどとっくに匙を投げている。理由は簡単。なによりあの男のあの邪悪さが、けがれなく優れた治癒師の力を跳ね返してしまうのよ。……自業自得、というやつだな」
「ええっ」
そんなことがあるのか? 初耳だ。
「先日も言ったとおりだ。魔法はその者の本質と切っても切れぬ関係にある。治癒というのは究極の良心、他者への憐れみの心あってこそ有効な発動をするもの。キュレイトーを見ていればわかるだろう?」
「あ──」
「あの皇帝には、もはやその良い力を受け入れる素地すら残っておらぬ。あの魑魅魍魎が住まう皇宮で、ありとあらゆる陰謀と悪行に手を染めてきた御仁よ。あまりといえばあまりに、穢れにまみれた人生を送ってきてしまったものでな」
「…………」
そうなのか。
でも、この人はそれでちっとも悲しそうでもなんでもなさそうだ。多少困ったような、諦めたようなお顔をされているだけで。一応、実の父親なのだろうに。
不思議そうなシディの視線に気付いたのか、殿下は軽く苦笑した。
「すまぬ。さぞや薄情な息子と思うだろうな」
「いっ、いえ」
的確に言い当てられてどぎまぎしてしまった。
「が、どうしても私にはあの男に対して、息子としての親密な情を抱くことができなくてな」
「…………」
「あの男が死んだところで、皇太子である長兄が後を継ぐだけのこと。第五皇子にすぎぬ私の名など、そもそも候補にも挙がらぬ。この《救国の半身》としての義務があるために、多少ほかの皇子より大事にされてはいるがな」
インテス殿下は、なにか非常に薄汚いもののことを敢えて口にしているかのように不快そうな顔と声だった。匂いもそうだ。いつも爽やかでひたすらに魅力的な彼の匂いが、今ばかりはすこし曇った湿っぽいものに変化している。
(いったい、何があったんだろう)
なんとなく気が塞ぐような気分になって「くうん」と殿下の肩に顔を寄せたら、「あっ」と殿下が慌てたように笑みを作った。シディを心配させまいとしているのは明らかだった。
「すまぬ。そなたには直接関係のないことよな。不快な思いをさせて申し訳なかった。許してくれ、シディ」
「いっ、いえ!」
「そんな顔をしないでくれ。さあ、とにかくもう、これであの男への挨拶は済んだのだ。義務は果たした。そなたは何も気にする必要はない。あとは今日一日、心楽しく過ごそうではないか」
「殿下……」
「そうだ。部屋で勉強ばかりしているのも退屈だろう? 社会勉強がてら、今から一緒に出掛けるのはどうだ?」
「えっ」
「魔塔の者らも、そなたの顔をひと目みたいとずっと手紙を送って来ているのだ。まだそなたが新しい環境に慣れないゆえ、ずっと断っていたのだが。そなたさえいいなら、魔塔のある島へ出かけるのも一興だろう」
「魔塔の……島? ですか?」
「ああ、そうだ。飛翔の魔法を使えばひとっ飛びだが、船旅もまた楽しいぞ」
「ふ、船!?」
船なんて、ほとんど見たこともない。乗ったことなんてもちろん一度もなかった。あの売春宿の親父は、奴隷の少年少女をつれて国の外へ出たことがなかったからだ。みんなのために船賃を払うのを渋ったのだろう。
(インテス様と、船旅……)
なんだかわくわくする。
さっきまでぺしょんと下がっていた少年の耳はぴんと立って、しっぽはぴしぴしと馬車の壁を打ちはじめた。……まったく、感情が隠せなくて困ってしまう。
「落ち着け、シディ。まずはしっかり呼吸するんだ」
シディがこの謁見のあらゆる不快さからやっと逃れられたのは、帰りの馬車に逃げ込むようにして飛びこんだ時だった。それでやっと、シディは胸いっぱいに息を吸って、吐くことができた。
すぐに気になっていたことを殿下に訴えようとしたのだが、息が苦しくてなかなかうまくいかない。殿下はすぐに馬車を出発させ、ぜいぜいと荒い呼吸を繰り返しているシディの背中をしばらく優しくさすってくれた。
「大丈夫か、シディ。すまなかったな。敏感で鼻のいいそなたには、さぞやつらい時間だったろう」
「いえ。それは……」
いいんですけど、と言いながら殿下の袖をつかむ。
「それより、殿下。皇帝陛下は、その……」
「ん?」
思わずキョロキョロしてしまい、「失礼します」と殿下の隣に座りなおして耳に口を寄せる。こんな話、だれか耳のいい人に聞かれでもしたら大変だ。いま近くにいるのは御者と、そばで馬で歩ませているティガリエだけだとはわかっていても。
なるべく声を落とし、ぼそぼそと殿下の耳に囁く。すると、なぜか殿下が少しだけ頬を染めたみたいに見えた。
「陛下、もしかして……重い病じゃないですか? その、ニオイが……」
「ああ。やっぱりそなたにはわかったか」
殿下は意外にもあっさりそう言って笑っただけだった。そのままシディの背中を抱き寄せ、頭を軽く撫でてくださる。「よしよし」とするみたいに。
「実は皇族の一部と、侍医、政府の高官らもすでに知っている。あの男の先はもう長くない」
「ええっ……」
まだ老衰で死ぬほどの年齢とは見えなかったから、やっぱり病気なのだろう。それもかなり重い、不治の病。
「でもあの、キュレイトー様とか──」
この国には優秀な治癒師がたくさんいるはず。そういう人にも治せない病なのだろうか?
そう訊ねたら、殿下は「ああ」と首を上下させた。
「もう優秀なご典医でも、治癒師でも治しきれない。口にこそ出さぬが、あのキュレイトーなどとっくに匙を投げている。理由は簡単。なによりあの男のあの邪悪さが、けがれなく優れた治癒師の力を跳ね返してしまうのよ。……自業自得、というやつだな」
「ええっ」
そんなことがあるのか? 初耳だ。
「先日も言ったとおりだ。魔法はその者の本質と切っても切れぬ関係にある。治癒というのは究極の良心、他者への憐れみの心あってこそ有効な発動をするもの。キュレイトーを見ていればわかるだろう?」
「あ──」
「あの皇帝には、もはやその良い力を受け入れる素地すら残っておらぬ。あの魑魅魍魎が住まう皇宮で、ありとあらゆる陰謀と悪行に手を染めてきた御仁よ。あまりといえばあまりに、穢れにまみれた人生を送ってきてしまったものでな」
「…………」
そうなのか。
でも、この人はそれでちっとも悲しそうでもなんでもなさそうだ。多少困ったような、諦めたようなお顔をされているだけで。一応、実の父親なのだろうに。
不思議そうなシディの視線に気付いたのか、殿下は軽く苦笑した。
「すまぬ。さぞや薄情な息子と思うだろうな」
「いっ、いえ」
的確に言い当てられてどぎまぎしてしまった。
「が、どうしても私にはあの男に対して、息子としての親密な情を抱くことができなくてな」
「…………」
「あの男が死んだところで、皇太子である長兄が後を継ぐだけのこと。第五皇子にすぎぬ私の名など、そもそも候補にも挙がらぬ。この《救国の半身》としての義務があるために、多少ほかの皇子より大事にされてはいるがな」
インテス殿下は、なにか非常に薄汚いもののことを敢えて口にしているかのように不快そうな顔と声だった。匂いもそうだ。いつも爽やかでひたすらに魅力的な彼の匂いが、今ばかりはすこし曇った湿っぽいものに変化している。
(いったい、何があったんだろう)
なんとなく気が塞ぐような気分になって「くうん」と殿下の肩に顔を寄せたら、「あっ」と殿下が慌てたように笑みを作った。シディを心配させまいとしているのは明らかだった。
「すまぬ。そなたには直接関係のないことよな。不快な思いをさせて申し訳なかった。許してくれ、シディ」
「いっ、いえ!」
「そんな顔をしないでくれ。さあ、とにかくもう、これであの男への挨拶は済んだのだ。義務は果たした。そなたは何も気にする必要はない。あとは今日一日、心楽しく過ごそうではないか」
「殿下……」
「そうだ。部屋で勉強ばかりしているのも退屈だろう? 社会勉強がてら、今から一緒に出掛けるのはどうだ?」
「えっ」
「魔塔の者らも、そなたの顔をひと目みたいとずっと手紙を送って来ているのだ。まだそなたが新しい環境に慣れないゆえ、ずっと断っていたのだが。そなたさえいいなら、魔塔のある島へ出かけるのも一興だろう」
「魔塔の……島? ですか?」
「ああ、そうだ。飛翔の魔法を使えばひとっ飛びだが、船旅もまた楽しいぞ」
「ふ、船!?」
船なんて、ほとんど見たこともない。乗ったことなんてもちろん一度もなかった。あの売春宿の親父は、奴隷の少年少女をつれて国の外へ出たことがなかったからだ。みんなのために船賃を払うのを渋ったのだろう。
(インテス様と、船旅……)
なんだかわくわくする。
さっきまでぺしょんと下がっていた少年の耳はぴんと立って、しっぽはぴしぴしと馬車の壁を打ちはじめた。……まったく、感情が隠せなくて困ってしまう。
1
お気に入りに追加
185
あなたにおすすめの小説

狂わせたのは君なのに
白兪
BL
ガベラは10歳の時に前世の記憶を思い出した。ここはゲームの世界で自分は悪役令息だということを。ゲームではガベラは主人公ランを悪漢を雇って襲わせ、そして断罪される。しかし、ガベラはそんなこと望んでいないし、罰せられるのも嫌である。なんとかしてこの運命を変えたい。その行動が彼を狂わすことになるとは知らずに。
完結保証
番外編あり
大嫌いだったアイツの子なんか絶対に身籠りません!
みづき
BL
国王の妾の子として、宮廷の片隅で母親とひっそりと暮らしていたユズハ。宮廷ではオメガの子だからと『下層の子』と蔑まれ、次期国王の子であるアサギからはしょっちゅういたずらをされていて、ユズハは大嫌いだった。
そんなある日、国王交代のタイミングで宮廷を追い出されたユズハ。娼館のスタッフとして働いていたが、十八歳になり、男娼となる。
初めての夜、客として現れたのは、幼い頃大嫌いだったアサギ、しかも「俺の子を孕め」なんて言ってきて――絶対に嫌! と思うユズハだが……
架空の近未来世界を舞台にした、再会から始まるオメガバースです。

男子高校に入学したらハーレムでした!
はやしかわともえ
BL
閲覧ありがとうございます。
ゆっくり書いていきます。
毎日19時更新です。
よろしくお願い致します。
2022.04.28
お気に入り、栞ありがとうございます。
とても励みになります。
引き続き宜しくお願いします。
2022.05.01
近々番外編SSをあげます。
よければ覗いてみてください。
2022.05.10
お気に入りしてくれてる方、閲覧くださってる方、ありがとうございます。
精一杯書いていきます。
2022.05.15
閲覧、お気に入り、ありがとうございます。
読んでいただけてとても嬉しいです。
近々番外編をあげます。
良ければ覗いてみてください。
2022.05.28
今日で完結です。閲覧、お気に入り本当にありがとうございました。
次作も頑張って書きます。
よろしくおねがいします。
悪役令息の七日間
リラックス@ピロー
BL
唐突に前世を思い出した俺、ユリシーズ=アディンソンは自分がスマホ配信アプリ"王宮の花〜神子は7色のバラに抱かれる〜"に登場する悪役だと気付く。しかし思い出すのが遅過ぎて、断罪イベントまで7日間しか残っていない。
気づいた時にはもう遅い、それでも足掻く悪役令息の話。【お知らせ:2024年1月18日書籍発売!】

親友と同時に死んで異世界転生したけど立場が違いすぎてお嫁さんにされちゃった話
gina
BL
親友と同時に死んで異世界転生したけど、
立場が違いすぎてお嫁さんにされちゃった話です。
タイトルそのままですみません。

異世界で8歳児になった僕は半獣さん達と仲良くスローライフを目ざします
み馬
BL
志望校に合格した春、桜の樹の下で意識を失った主人公・斗馬 亮介(とうま りょうすけ)は、気がついたとき、異世界で8歳児の姿にもどっていた。
わけもわからず放心していると、いきなり巨大な黒蛇に襲われるが、水の精霊〈ミュオン・リヒテル・リノアース〉と、半獣属の大熊〈ハイロ〉があらわれて……!?
これは、異世界へ転移した8歳児が、しゃべる動物たちとスローライフ?を目ざす、ファンタジーBLです。
おとなサイド(半獣×精霊)のカプありにつき、R15にしておきました。
※ 設定ゆるめ、造語、出産描写あり。幕開け(前置き)長め。第21話に登場人物紹介を載せましたので、ご参考ください。
★お試し読みは、第1部(第22〜27話あたり)がオススメです。物語の傾向がわかりやすいかと思います★
★第11回BL小説大賞エントリー作品★最終結果2773作品中/414位★応援ありがとうございました★

田舎育ちの天然令息、姉様の嫌がった婚約を押し付けられるも同性との婚約に困惑。その上性別は絶対バレちゃいけないのに、即行でバレた!?
下菊みこと
BL
髪色が呪われた黒であったことから両親から疎まれ、隠居した父方の祖父母のいる田舎で育ったアリスティア・ベレニス・カサンドル。カサンドル侯爵家のご令息として恥ずかしくない教養を祖父母の教えの元身につけた…のだが、農作業の手伝いの方が貴族として過ごすより好き。
そんなアリスティア十八歳に急な婚約が持ち上がった。アリスティアの双子の姉、アナイス・セレスト・カサンドル。アリスティアとは違い金の御髪の彼女は侯爵家で大変かわいがられていた。そんなアナイスに、とある同盟国の公爵家の当主との婚約が持ちかけられたのだが、アナイスは婿を取ってカサンドル家を継ぎたいからと男であるアリスティアに婚約を押し付けてしまう。アリスティアとアナイスは髪色以外は見た目がそっくりで、アリスティアは田舎に引っ込んでいたためいけてしまった。
アリスは自分の性別がバレたらどうなるか、また自分の呪われた黒を見て相手はどう思うかと心配になった。そして顔合わせすることになったが、なんと公爵家の執事長に性別が即行でバレた。
公爵家には公爵と歳の離れた腹違いの弟がいる。前公爵の正妻との唯一の子である。公爵は、正当な継承権を持つ正妻の息子があまりにも幼く家を継げないため、妾腹でありながら爵位を継承したのだ。なので公爵の後を継ぐのはこの弟と決まっている。そのため公爵に必要なのは同盟国の有力貴族との縁のみ。嫁が子供を産む必要はない。
アリスティアが男であることがバレたら捨てられると思いきや、公爵の弟に懐かれたアリスティアは公爵に「家同士の婚姻という事実だけがあれば良い」と言われてそのまま公爵家で暮らすことになる。
一方婚約者、二十五歳のクロヴィス・シリル・ドナシアンは嫁に来たのが男で困惑。しかし可愛い弟と仲良くなるのが早かったのと弟について黙って結婚しようとしていた負い目でアリスティアを追い出す気になれず婚約を結ぶことに。
これはそんなクロヴィスとアリスティアが少しずつ近づいていき、本物の夫婦になるまでの記録である。
小説家になろう様でも2023年 03月07日 15時11分から投稿しています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる