18 / 209
第三章 離宮にて
3 武官と文官
しおりを挟む体が元気になるにつれて、少年の活動範囲は自然に増えていった。
というのも、長年あんな小さな売春宿に囲われていたとはいえ、もともと少年の形質を構成する犬は、屋外をたくさん歩くことが大好きな生きものだったからだ。
あの売春宿では夜の仕事があまりに過酷だったため、たとえそれが許されていたとしてもわざわざ外を歩き回ろうなんて思わなかっただけのこと。あの頃は傷が痛んだり体がつらすぎたりして、とてもではないがそんな元気はなかった。
というわけで、例の鹿医師──名をローロというらしい──の許可が出てからは、少年は時間のあるとき、離宮の中をよく散歩するようになった。
とはいえひとりではない。インテス様は少年の護衛にと、とある優秀な武官をひとりつけたからだ。青年がともにいられない時には必ず、この男が少年のあとをついてくる。
「オブシディアン様。本日はいずこまで」
「し、シディでいいって言ってるのに……」
「そういうわけには参りませぬ。他の者にも示しがつきませぬゆえ」
「でも、ティガリエさんっ……」
「オブシディアン様こそ」
男はなんとなく残念そうに眉を下げ、声をひそめた。大きな体を少し小さくしたように見えるが、気のせいかもしれない。
「最前から、自分のことは『ティガ』でよいと申しておりまするぞ」
「そっ、そそ、そんなわけにはいかないよっ……!」
「……左様にございますか」
彼は平民出身で、名をティガリエといった。虎という生きものの形質の濃い男で、顔も虎そのものだ。上背があって筋骨隆々。全身がしなやかでありながらも鋼のように丈夫な筋肉で包まれている。
首から肩までが三角形に盛り上がっていて、上腕の太さなど少年の胴ほどもあった。そこに革製の勇壮な鎧を着こみ、大きな剣を佩いている。いかにも「武官でござい」といった見た目だ。実際、胆力に優れた非常に腕のたつ武人であるらしい。
巨大な牙に、爛々と光る金色の目は迫力満点。少年など、初対面のときには震えあがったものだ。あんな目で殺気をこめて睨まれただけで、自分なんかあっという間に気を失ってしまうだろう。
だがこの男、見た目に反して性格は至って温厚、誠実なのだった。なによりインテス殿下に心からの忠誠を誓っている。以前、個人的に殿下から大きな恩を受けたことがあるらしい。そういうところもシディにとっては心強かった。
こんな感じの強面なのだが、ただ一点、耳だけは可愛い。まるっこくてほわほわした黄色い毛につつまれ、裏側にはトラに特有の黒いブチが入っている。
「年を数えるのは忘れましたが、恐らく三十と少しです」というのは、インテスから紹介を受けたときの本人の弁である。
以降、巨躯でありながらもネコ族らしくほとんど足音もさせないで、男は少年の行くところ、どこにでもついてくるようになった。
「して。此度はいずこまで」
「……ええっと。い、池のある中庭まで、いこうかなあ……と」
「承知つかまつりました」
男は気を取り直したように、低い声で答えてきりりと大きな頭を下げる。下げたところでシディの頭よりずっと高いところにあるので、わざわざ地面に片膝をついてくれるのがまた申し訳なさ倍増なのだった。
ところで、少年の側付きとして増えたのはこの男だけではなかった。日々の少年の勉強をこまやかに見てくれる人もまた、優秀で人品に優れた者が選ばれたのだ。
「さてもさても。オブシディアン様は生まれつき、優秀な頭脳をお持ちの御仁にござりまするなあ」
「そっ、そんなこと──」
羽ペンをにぎってシディは小さくなる。
こちらは小柄な老人で、リスの形質をもつ人だ。名をシュールス。
これまた謹厳実直を絵に描いたような人なのだが、なんとなく動きがちまちまと素早くて落ち着きがなく見える。書物を読む速度が恐ろしく速いらしくて、この国では速読でこの人の右に出る者はないそうだ。
リスの形質を持つだけあって、年配にもかかわらずそのふさふさの大きなしっぽは見事だった。寒い時には自分の体全体をつつんで眠ることも可能なほどの大きさなのである。
リス系の人々は季節の変化、特に秋になると急に食欲と知識欲が爆発するという特性を持っていて、その時期になると急に食べ物と知識を無尽蔵に詰め込みたいという激しい欲求に勝てなくなるらしい。そのためこの老人も、秋には特別に長期休暇をいただくのだという。
さらにはその後、冬になると長い冬眠に入ってしまう。そんな状態であるにもかかわらず、この人の知識量と優秀さはこの国一だというのだから驚きだ。世の中、いろいろな人がいるものである。
ともかくも秋ではない今、少年はこの人から非常に多くのことを学ぶことになった。
1
お気に入りに追加
185
あなたにおすすめの小説

狂わせたのは君なのに
白兪
BL
ガベラは10歳の時に前世の記憶を思い出した。ここはゲームの世界で自分は悪役令息だということを。ゲームではガベラは主人公ランを悪漢を雇って襲わせ、そして断罪される。しかし、ガベラはそんなこと望んでいないし、罰せられるのも嫌である。なんとかしてこの運命を変えたい。その行動が彼を狂わすことになるとは知らずに。
完結保証
番外編あり
大嫌いだったアイツの子なんか絶対に身籠りません!
みづき
BL
国王の妾の子として、宮廷の片隅で母親とひっそりと暮らしていたユズハ。宮廷ではオメガの子だからと『下層の子』と蔑まれ、次期国王の子であるアサギからはしょっちゅういたずらをされていて、ユズハは大嫌いだった。
そんなある日、国王交代のタイミングで宮廷を追い出されたユズハ。娼館のスタッフとして働いていたが、十八歳になり、男娼となる。
初めての夜、客として現れたのは、幼い頃大嫌いだったアサギ、しかも「俺の子を孕め」なんて言ってきて――絶対に嫌! と思うユズハだが……
架空の近未来世界を舞台にした、再会から始まるオメガバースです。
悪役令息の七日間
リラックス@ピロー
BL
唐突に前世を思い出した俺、ユリシーズ=アディンソンは自分がスマホ配信アプリ"王宮の花〜神子は7色のバラに抱かれる〜"に登場する悪役だと気付く。しかし思い出すのが遅過ぎて、断罪イベントまで7日間しか残っていない。
気づいた時にはもう遅い、それでも足掻く悪役令息の話。【お知らせ:2024年1月18日書籍発売!】

親友と同時に死んで異世界転生したけど立場が違いすぎてお嫁さんにされちゃった話
gina
BL
親友と同時に死んで異世界転生したけど、
立場が違いすぎてお嫁さんにされちゃった話です。
タイトルそのままですみません。

異世界で8歳児になった僕は半獣さん達と仲良くスローライフを目ざします
み馬
BL
志望校に合格した春、桜の樹の下で意識を失った主人公・斗馬 亮介(とうま りょうすけ)は、気がついたとき、異世界で8歳児の姿にもどっていた。
わけもわからず放心していると、いきなり巨大な黒蛇に襲われるが、水の精霊〈ミュオン・リヒテル・リノアース〉と、半獣属の大熊〈ハイロ〉があらわれて……!?
これは、異世界へ転移した8歳児が、しゃべる動物たちとスローライフ?を目ざす、ファンタジーBLです。
おとなサイド(半獣×精霊)のカプありにつき、R15にしておきました。
※ 設定ゆるめ、造語、出産描写あり。幕開け(前置き)長め。第21話に登場人物紹介を載せましたので、ご参考ください。
★お試し読みは、第1部(第22〜27話あたり)がオススメです。物語の傾向がわかりやすいかと思います★
★第11回BL小説大賞エントリー作品★最終結果2773作品中/414位★応援ありがとうございました★

田舎育ちの天然令息、姉様の嫌がった婚約を押し付けられるも同性との婚約に困惑。その上性別は絶対バレちゃいけないのに、即行でバレた!?
下菊みこと
BL
髪色が呪われた黒であったことから両親から疎まれ、隠居した父方の祖父母のいる田舎で育ったアリスティア・ベレニス・カサンドル。カサンドル侯爵家のご令息として恥ずかしくない教養を祖父母の教えの元身につけた…のだが、農作業の手伝いの方が貴族として過ごすより好き。
そんなアリスティア十八歳に急な婚約が持ち上がった。アリスティアの双子の姉、アナイス・セレスト・カサンドル。アリスティアとは違い金の御髪の彼女は侯爵家で大変かわいがられていた。そんなアナイスに、とある同盟国の公爵家の当主との婚約が持ちかけられたのだが、アナイスは婿を取ってカサンドル家を継ぎたいからと男であるアリスティアに婚約を押し付けてしまう。アリスティアとアナイスは髪色以外は見た目がそっくりで、アリスティアは田舎に引っ込んでいたためいけてしまった。
アリスは自分の性別がバレたらどうなるか、また自分の呪われた黒を見て相手はどう思うかと心配になった。そして顔合わせすることになったが、なんと公爵家の執事長に性別が即行でバレた。
公爵家には公爵と歳の離れた腹違いの弟がいる。前公爵の正妻との唯一の子である。公爵は、正当な継承権を持つ正妻の息子があまりにも幼く家を継げないため、妾腹でありながら爵位を継承したのだ。なので公爵の後を継ぐのはこの弟と決まっている。そのため公爵に必要なのは同盟国の有力貴族との縁のみ。嫁が子供を産む必要はない。
アリスティアが男であることがバレたら捨てられると思いきや、公爵の弟に懐かれたアリスティアは公爵に「家同士の婚姻という事実だけがあれば良い」と言われてそのまま公爵家で暮らすことになる。
一方婚約者、二十五歳のクロヴィス・シリル・ドナシアンは嫁に来たのが男で困惑。しかし可愛い弟と仲良くなるのが早かったのと弟について黙って結婚しようとしていた負い目でアリスティアを追い出す気になれず婚約を結ぶことに。
これはそんなクロヴィスとアリスティアが少しずつ近づいていき、本物の夫婦になるまでの記録である。
小説家になろう様でも2023年 03月07日 15時11分から投稿しています。

宰相閣下の絢爛たる日常
猫宮乾
BL
クロックストーン王国の若き宰相フェルは、眉目秀麗で卓越した頭脳を持っている――と評判だったが、それは全て努力の結果だった! 完璧主義である僕は、魔術の腕も超一流。ということでそれなりに平穏だったはずが、王道勇者が召喚されたことで、大変な事態に……というファンタジーで、宰相総受け方向です。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる