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第二章 新たな生活
2 オブシディアン
しおりを挟む「……かわいそうに。こんなひどい目に遭わされていると知っていたら──」
青年は悔しげに唇を噛み、拳を震わせた。
だが少年には、なにがそんなに悔しいのかよくわからない。こんな性奴隷に落ちた呪われた犬の少年なんか、今まで誰も目もくれなかったではないか。どうしてこの青年だけは、こんな風に大事そうに自分を扱うのだろう。
「私が純粋な人間なんぞであったために、そなたほど鼻が利かず──こんなに待たせることになってしまった。まことに申し訳ない。どうか許してくれ」
「う、あうう……?」
(ぴゅお、なんだって……?)
少年はひたすらまごまごしてしまった。
いや、そんなことを言われて頭まで下げられても困る。なにがなんだかさっぱりだ。両手で包み込むみたいにぎゅっと握られた手が熱い。気のせいか、首や耳のあたりまで熱くなってきている気がする。
「ともかく、少しでもいいから食事をしよう。その後で治療をする」
「わう……?」
治療? 治療って、なにをするんだろう。
急に不安になっておどおどと見上げたら、青年は宥めるみたいな優しい目をして笑ってくれた。
「優秀な治癒師を呼んであるんだ。その耳も尻尾も爪も、それから歯も。それにあらゆる鞭の傷も。すべてきれいに治癒してもらう。わずかの傷も残さぬようにな」
「え……」
さっきからもう、びっくりすることばかりだ。ひたすら阿呆のように口をあけっぱなしになってしまう。
この男、何を言っているのだろう。そんなことが可能なのか? 自分の尻尾はトカゲのそれみたいに便利に生えかわってきたりしないもののはず。
なにも言えないのに、青年はふっと笑って少年の頭を優しく撫でた。
「心配いらない。さほど痛みもないはずだ。非常に腕のいい、信頼できる治癒師だからな。そなたの体はすべてきれいに、元通りになる。いや、もとよりずっと美しいものになる。……本来の姿に戻れるんだ」
「…………」
「うまく話せるようになったら、どうかこれまでのことを話してくれ。……そうそう、そなたの名前も知りたいな」
(名前……?)
少年は首をかしげた。
奴隷にそんな贅沢なモノはない。中には主人の気まぐれで名付けられている子もいたが、特に自分にはそんな立派なものはなかった。
ただ「黒」とか「ハナクソ」とか「ケシズミ」とか呼ばれていただけだ。それもその時々で変わったので、固定されたものではない。
青年が心配そうな目になった。
「もしかして、名前がない……のか?」
少年がこくんと頷くと、青年は「ふむ」と顎に手を当てた。
「ならば……私が名付けても構わないだろうか。やっとそなたと出会えた記念に。ああ、もちろん気にいらなければ断ってくれていいのだが」
「……?」
青年は少しの間、じっと少年を見つめながら考えているようだったが、やがて言った。
「『黒曜石』……というのは、どうだろう。縮めて呼ぶときは『シディ』とするのは?」
「…………」
「そなたのつややかな黒い瞳、黒いたてがみ。本来の美しいそなたは黒曜石のような輝きを持っているはずだから」
少年は目を丸くした。
なにを言ってるんだ、この男。
この自分をつかまえて「美しい」だと?
自分のどこをどう見て「美しい」なんて言っているんだ?
こんなにも、世界中のだれからも忌み嫌われる「呪われた仔」の自分の。
頭がどうかしてるんじゃないだろうか。
そんな感情がありありと表情に出ていたのかどうか、青年は急にしゅんとしてしまったみたいだった。
「ダメか? センスがないかな? 結構いい名だと思ったんだが──」
「ウルルッ」
少年は慌てて首を横にふった。
「シディ」。悪くない。いや、なかなかステキだ。
そもそも名無しだった自分に、そんなステキな名前をつけてもらえるだけで有難いと思わなければ。
それに、どうやらこの男、かなりの高い地位であるらしいし。もしも気分を損ねたりしたら、逆にどんな目に遭わされるかわかったものではない。ひどい目に遭わされれば逃げようと思うけれど、そうじゃないのなら言いなりになっておくのも手ではある。
このすてきな寝台、すてきな夜着、そして食事の心配をしなくていい環境。むざむざとそれらを手放すのはやっぱりもったいない気がした。
そうこうするうちに、この館の召使いらしい女たちがしずしずと少年のための食事を運んできてくれた。消化にいいものをということなのか、香りのいい粥など柔らかいものが中心だ。
同じ粥でも、売春宿のものとは雲泥の差である。なにより美味しいし、肉だってちゃんと入っている。これはたまらない。
少年の腹は途端にくるるっと鳴きたてた。
「あううっ……!」
勧められるまま匙を握り、夢中になってがっついてしまう。
(おいしい、おいしい、おいしい……!)
どれもこれも、頬と舌がとろけてしまいそうに美味い。
こんな美味いものを食べたのは初めてだった。
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