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第二章 新たな生活
1 目覚め
しおりを挟む覚醒し、目を開く前から少年には多くのことがわかっていた。
こういう時、嗅覚や聴覚で得られる情報は視覚よりも役にたつ。
まず、とても心地いい寝具に包まれて横になっていること。貴族たちが身辺によく飾るという花の香りがすること。非常に空気が清浄であること。
無音なわけではないが、少し離れた場所を歩き回っている人々が明らかに足音をしのばせているらしいこと。だれかがそっと、温かな手で自分の片手を握っていること。
そして何より重要なのは、周囲がすべてかの青年のすてきな香りに満ちていることだった。
そこまでの情報を得てからようやく、少年は目を開く努力を始めた。
が、それはなかなかうまくいかなかった。なぜか非常に体が重い。一応目覚めたはずなのに、体はまだ「休みたい、もう一度眠りたい」と激しく訴えてきている。
だが、起きなくては。
こんなことをしていたら、またあの親方に痛い鞭をもらうことになってしまう──
「ウウッ……」
ひとつ唸って、やっとのことで両目をこじ開けた。
途端、手を握っている力がぐっと強まり、だれかが立ち上がる気配がする。
「目覚めたか! よかった……」
安堵の吐息まじりに聞こえた声は、あの青年のものだった。顔をめぐらすと、自分の右手に青年が座っている。ぎょっとなって身を竦めた。青年が慌てたように少年の手にこめた力を緩める。緩めただけで放しはしないが。
「大丈夫だ。なにもしないよ。ここにいれば安全だ。安心してくれ」
大きな窓にたれた遮光の布をすかした朝の光を受けて、青年のお日さま色の髪がきらきら輝いている。
……きれいだ。とても。この世のものでないほどに。
この人はいったいなんなのだろう?
いったいどうして、自分なんかを助けてくれたのだろう。
「ウ……ウウ?」
「どうした? 水が欲しいのか」
青年の声はひどく優しい。そのまま、まるで羽根でも扱うようにしてそっと体を起こしてくれ、水差しから水を汲んでこちらへカップを差し出してくれる。少年がまだそれをうまく持てないらしいのに気づいて、彼はみずから少年の口にカップをあてがってくれた。
「んく、んくっ……」
喉を鳴らして何度も飲んだ。あんまり慌てて、顎の下へどんどん水がこぼれてしまうのにも気づかなかった。そうやって何杯か飲み、やっと人心地がついてくる。着せられている軽くて柔らかい夜着らしいものの胸元をかなり濡らしてしまった。
(あ。しまった……!)
どきりと胸が跳ね、思わず胸元をつまんでキョロキョロしてしまう。じりじりと寝台の上をいざって、青年から逃げるように反対側へと尻を動かす。しかし青年に咎める様子はまったくなかった。むしろなんとなく悲しそうな目になっている。
「そんなにおどおどしないでくれ……。大丈夫だから」
「あう……」
相変わらずの優しそうな表情に、少しほっとして体から力を抜く。
「これほどつらい目に遭わされたのだものな。恐れるのも無理はないが」
青年はまた少し目を伏せて眉根を寄せた。不快ななにかを思い出したらしい。
「あの売春宿の元締めと仲間どものことなら、もう心配することはない。二度とそなたを惨い目に遭わせたりはできぬゆえ」
「うう……?」
聞けば少年は、あれからかなり長いこと眠りつづけていたらしい。今日で五日目なのだそうだ。
その間に、親方と仲間の男たちへの沙汰はおりたのだという。
あの夜の約束どおり、一応は少年に傷をつけた客を探させ、見つからなかった客のぶんはすべて親方がその身に引き受けることになった。
つまり耳をちぎり、尻尾を半分の長さに切り取り、爪を剥ぎ、体じゅうに鞭打ちをおこない、男どもに散々に犯させた。
とはいえ親方の尻尾は服に隠れるほどの小さく細くくるんと巻いた形のものだったので、ほとんどすべて切り取ったに近かったらしいし、鞭うちも本来なら一千発うっても足りないほどだったのを、「それでは殺してしまうから」というので数十発に留めたということだ。
その後、親方はあらためて囚人奴隷として北方の開拓地へと送られたらしい。そこは少年の耳にさえ噂が届くほど厳しい環境で知られた開拓地だった。
本来なら死刑でもよかったらしいのだが、この青年が「それでは生ぬるい」と刑の変更を求めたらしい。一見減刑にも見えるけれども、実際はそうではなかった。いっときに殺して楽にしてしまうより、何十年もかけて厳しい開拓地でひどい苦しみを与えるほうがいい。そう判断したのだ。
あまりの罪の重さゆえ、あの親方が自由の身になることは今後死ぬまでないのだそうである。
少年はそれらの話をひたすらぽかんと聞いていた。
とても現実のこととは思えなかった。
青年は柔らかな手つきで、手の甲を少年の額にあてた。
「腹は減っていないか? 熱はどうやら引いたようだが……。食事はできそうだろうか」
「ウウ……ッ」
うん、腹は減ってます。
助けてくれてありがとう。
それで、あなたはだれなんですか──
言いたいことはいっぱいあったが、歯のない自分がみっともない発音しかできないことをすぐに思い出す。少年はがっかりし、黙りこんで身を固くした。
青年の宝石みたいな紫の瞳がさらに暗くなる。
「……かわいそうに。こんなひどい目に遭わされていると知っていたら──」
青年は悔しげに唇を噛み、拳を震わせた。
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