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第一章 予感
3 接近
しおりを挟むそれからひと月あまり。
ときおり少年はあの香りを嗅ぐことになった。
必死に仕事をしている最中は気づくことはなかったけれど、それ以外の時間にふっと、あの香りが鼻先を掠めていくのを感じたのだ。
気のせいかもしれなかったが、最初はとても遠かった微かな香りが毎日少しずつ少しずつ、近く、強く感じられるようになっていた。
少年は不思議に思いながらも、やっぱりあまり気に留めなかった。留める余裕がなかったからだとも言える。仕事をさせられている間は必死だし、それが終われば疲労困憊で、ただただ泥のように眠りたい。でなければ食事がしたい。あとは体を清めて用を足すぐらいだ。
それ以外のなんの欲望もなくなっている。ほかのなにもかもがどうでもいい。
息はしているがただの屍と同じことだ。代わるがわるやってくる客の男どもの欲望に応えるために存在するだけの、真っ黒な死体。それが自分だ。
その日、親方はいつものように売春街を出ると、下町の市場で商売を始めた。本来は様々な生活用品や食品を売る出店が並ぶ場所なのだが、少し奥まったところにいくとこうした色町の客引きが集まる場所があるのだ。
少年を含む売春奴隷の少年少女を鎖につなぎ、囚人を乗せるような木でできた檻の馬車に乗せて、親方と代表の子が客引きをする。客は檻の中の少年少女の中から気に入ったのを選び、案内役の者が親方の売春宿へ案内するという寸法だ。
「お客さん、今夜どう?」
「うちにはいい子がたくさんいるわよ」
「あそこから好きな子を選んでよ」
「たっぷりご奉仕させるから、お代ははずんでね」……
今日の「代表」は、この親方のところでいちばん見目のいい少女だ。彼女だけがひとり外に出されて、行きかう人々に声をかけ、腰をくねらせて流し目をして見せている。
少年には決して回ってこない役だった。あれができると、食事や寝床などの待遇がだいぶ良くなるのだ。この立場になれば程度のいい客だけをある程度選べるようになるし、妙なものを飲み食いして腹をくだす危険も少なくなる。少年少女でこれをやりたがらない子はいなかった。
とはいえ、どんなにやりたいと思っても少年にこの役は無理だった。なにしろ鼻が良すぎるのだ。
市場にはいろんな臭いが充満している。穀物のにおい、芋のにおい、各種の果物のにおい。香辛料ともなると強烈だった。集まる人々の匂いもさまざまで、個性の強いものが多い。それらが全部まざりあって、直接鼻に攻撃を仕掛けてくる。
汗やそのほかの体液の臭いはまだいいのだ。問題は、少し身分が高くてきつい薫香を衣に焚きしめている者たちだった。少年にとっては鼻が曲がりそうなほどの強い臭いで、そばに来られると吐き気をもよおすのだった。
もちろん、客たちにだって臭いのはいる。でも、荒くれ者や傭兵くずれの男たちは汗や精液や血や泥汚れのにおいがするぐらいだ。生き物のにおいとしてあたりまえなものであるそっちのほうが、よほどマシなぐらいだった。
少年を選んでくれる客はなかなか現れなかった。普段、この「呪われた仔」と呼ばれる黒い生き物を好きこのんで選ぶ変わり者がひとりやふたりは現れるものなのだが、今日に限ってなかなか現れない。
この「売り出し」の日に最後まで選ばれずに残ってしまうと、親方からきつい罰を食らう。もちろん食事は抜きだ。「働かざる者食うべからず」はこの親方の第一の信条なのである。
だから子どもたちはみんな必死だ。檻の中をのぞきこむ客がいれば、みんな自分が思う「自分のもっともよい姿」を見せようと躍起になる。ほかの子を押しのけて前へ出、「お客さあん」「可愛がってえ」と甘ったれた声を出して上目づかいをする。
実のところ、少年はそういうのが非常に苦手だった。媚びを売るのが商売の一部だということは骨の髄までしみこまされているというのに、やっぱり苦手なのだった。そういう不愛想なところがまたいい、と言う客もいるから構わないのだが。
そういう奴は大体、非常な嗜虐趣味を持っていた。要するに、そうした「ツンとした子ども」を虐げて泣かせるのが大好きな奴、ということだ。
ついに二人だけ残った子どものうちのひとりになるに至って、少年はどきどきしはじめた。
今日はあまり客の入りがよくない。親方がだんだんイライラしはじめているのが肌でわかる。
食事抜きはつらい。鞭はもっともっとつらい。
なんとかして「最後のひとり」にならないようにしなければ。
焦って檻にしがみついたちょうどその時、やってきた中年男が、あっさりと隣にいた少年を選んで連れて行った。
(ああ……)
全身から力が抜けた。
親方が血走った目でじろりとこっちを見る。途端に少年は身を竦ませた。
まだ少し時間はあるものの、このまま客がつかなければ、今夜の運命は決まったようなものだ。
(いやだ、いやだ、いやだ──)
鞭の痛みと空腹。しっかりと体に覚え込まされたあの感覚を反芻して眩暈がする。目の前が暗くなり、頭はぐらぐらし始めた。
──そのときだった。
(えっ……?)
あの匂い。
不思議に懐かしくて、心地のいい匂い。
なんともいえない幸せな気持ちに、ほとんど酩酊しそうになるほどの。
その匂いが急に大きく強く、こちらに近づいてくる気配がしたのだ。
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