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第六章 帰還
8 遊泳
しおりを挟む《そら、あちらを見よ。ユーリ》
耳の中で、優しくも泰然とした声がする。
水中では互いの声が届かないため、普通はこうして耳の中に小さな通信装置を仕込むのだ。
《わあっ。ええっと……『くじら』ですよね?》
《そうだ。あれも親子連れのようだな》
玻璃の言うとおりだった。大きな姿で悠然と泳いでいく母鯨の腹のあたりに、体長三分の一ほどの小さな子供の鯨が、ぴたりとくっつくようにして泳いでいる。
《ああ、やっぱり子供、可愛いですねえ……》
《そうだな。驚かさぬよう、少し遠くから眺めることにしよう》
海底皇国から見た《天井》とは、すなわち陸上の人々の言う海面のことだ。今日は尾鰭を装着して、玻璃とその間際まで散策にきていた。もちろん、滄海からここまで直接泳いできたのではない。近くまで飛行艇兼潜水艇になる皇族御用達の乗り物を使用してきている。
ロマンや黒鳶も少し離れたところをついて来ている。他にも護衛の忍びたちが付いてきているはずだったが、彼らは普段、皇族の目につくところに現れることはほとんどないのだそうだ。どうやら黒鳶や藍鉄がかなり特殊な存在だっただけのようである。
玻璃は、初めてじかに見たユーリの桃色と橙色の尾鰭姿に、いたくご満悦の様子だった。
「なんと愛らしい」だの「やはり俺の見立てに狂いはなかった」だのとあまりに嬉しそうに手放しで連呼するものだから、しまいにユーリはつい非礼も忘れて、両手で玻璃の口を塞いでしまったものだ。
最初のうちはどうにも恥ずかしくて、ユーリは上半身に薄絹の衣を着ることが多かった。だが、ああしたものは水中で着ると袖などがもたついて、非常に邪魔になる。それで、最近では玻璃と同じように最低限のアクセサリーをつける以外、上半身は裸のままでいることが多くなっていた。
玻璃はユーリの肌を人目に晒すことはあまり歓迎しないらしく、こうした私的な時間以外で彼を泳ぎに誘うことはほとんどなかった。
実際、夜ごと彼が熱く愛してくれている証として、ユーリの肌のあちこちには見事なまでに赤い花弁が散っている。これは別に玻璃ならずとも、あまり人目には晒したくない状態だった。
泳ぎそのものは、まだかなり物慣れない。玻璃が丁寧に教えてくれて、かなり見られるようにはなってきたとはいえ、ちょっと気を抜くと上下がひっくりかえり、溺れかけの金魚のような悲惨な状態になる。
そうならぬようにと落ち着いてバランスをとり、尾鰭で水をかいていきながら、ユーリはちらりと背後を盗み見た。
(やっぱり、仲良くなってる……よね? あの二人)
宇宙から戻ったときにも少し感じたが、側近のあの二人、どうやらかなり仲良くなってしまっているらしい。ユーリのことを玻璃がサポートしてくれるのと同じように、泳ぎに慣れないロマンのことを黒鳶がさりげなく補助しているのがよく分かる。
時折り、こちらの目を盗むようにして腰に腕など回している。いくらなんでも、あれではふたりしてどんなに惚けても無駄だと思う。
ふたりとも、玻璃やユーリには勘づかれまいと頑張っているようなのだが、黒鳶はともかくロマンの方はまったく成功していなかった。純粋な少年従者は、ユーリがちょっとつつくだけですぐに耳まで真っ赤になってしまうのだ。
《ああ。去ってゆくな》
玻璃が言うのに目をやれば、先ほどの鯨の母と子がゆったりと尾鰭を動かしながら藍色の水のヴェールの向こうへ姿を消していくところだった。
《……大丈夫か。ユーリ》
やや心配そうな声が耳に響いた。
仲睦まじい親子の姿は、どうしてもユーリの胸の奥に、とある鋭い感情を呼び起こす。それが誰を思い出してのことなのかを、玻璃は十分に理解してくれているはずだった。
ユーリは愛する人に、にっこりと笑って見せた。
《大丈夫ですとも。もう、ご心配はいりませぬ》
するすると泳ぎ寄って彼の広い胸元に滑り込むと、いつものように太い腕が優しく抱きしめてくれた。この場所にいると、どうしてこうまで穏やかな心持ちになれるのだろう。
玻璃はしばらく目を細め、水に揺れるユーリの髪を指で梳いていたが、やがて耳に、頬にと口づけを落として囁いた。
《……我らも、そろそろ考えないか?》
《えっ?》
目を上げると、海の水を透かして下りてくる日光が、ゆらゆらと玻璃の瞳をいつもよりも明るく照らしているのがわかった。
《つまり。フランの弟か妹のことを》
《あ……》
知らず、体の奥がぽっと火照った。
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