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第六章 帰還
2 潮騒
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懐かしい音がする。
波が岩場を洗う潮騒の音だ。
鼻腔をくすぐる風がはこんでくるのも、心懐かしい潮の香にほかならない。
懐かしさのあまりに、胸に痛みを伴うほどだ。
周囲の様子をすぐにも伺いたかったが、ひどく頭痛がしてなかなか目が開けられなかった。
「……どの。はりどの」
だれかが心配そうな声で自分の名を呼んでいる。覚えのある優しい手のひらが、自分の頬を撫でているのがわかった。彼がずっと自分に寄り添ってくれていたことは知っていた。
彼の顔をすぐにもこの目で見たかった。だがそれでも、まるで糊をみっしりと塗りこめられたかのように自分の瞼は開かなかった。
声の主が軽く吐息を零した。ややがっかりした様子が伝わってくる。
(ユーリ……。ユーリ)
そこでようやく、玻璃はこれまでの自分の記憶を呼び起こした。
宇宙の彼方から飛来した巨大宇宙船。そこからやってきた、恐るべき人外の生き物。そいつはたまたま側にいた自分の身辺警護や側近の命をいともあっさりと奪ってのけ、自分の宇宙船へ連れて帰った。
囚われになった自分のところへ、何故か彼まで連れてこられ、奇妙な共同生活が始まったのだ。自分はあの不思議な筒の中で何十日ものあいだ飼われ、彼は犬のように首輪までされて、やっぱり飼われた。
やがて小さな赤子が卵から生まれてきて、見る見るうちに少年にまで成長した──。
(そうだ……フランは)
小さなあどけない少年の名と面影を思い起こす。
自分とはなんのつながりもない子ではあるが、愛する青年の子だと思えば憎く思うことは難しかった。一般的に、己が為さぬ子を忌み嫌うのは、滄海にあってもごく普通の話ではある。まして自分は皇太子だ。血縁でもない子をあまりに可愛がれば、宮廷内の混乱を呼ぶ。
「……どの。玻璃どの」
愛する人が、心細げなこえで懇願している。髪を撫で、頬を撫で、胸を撫でてずっと自分の名を呼んでくれている。
やがて、そっと温かなものが自分の唇を塞いだのが分かった。
(……目を、覚まさねば)
彼は王子だ。世に隠れもなき、陸の帝国アルネリオの第三王子。
王子殿下の愛のこもった口づけを受けておきながら、目を覚まさぬなどは一大事である。
玻璃は下腹に力を溜めると、ぐっと瞼に気を集中させた。
それでようやく、細い光がうっすらと這いこんでくるのを覚えた。
「は……り?」
ゆるゆると随分時間をかけて目をこじ開けると、すぐ目の前に、自分がよく知っている優しく青い瞳があった。大きく見開かれた目には、それがしばしばそうであるように、いっぱいの光るものが溜まっている。茶色の髪はくしゃくしゃだが、アルネリオの王子としての正装に身を包み、白いマントを流した姿だ。
「……リ」
喉も顔の筋肉も少しも言うことを聞かなかったが、玻璃はどうにか彼を呼び、口の端を引き上げて見せた。何キロの重りがついているのかと思うほど、ひどく腕が重く感じる。だがどうにかそれを持ち上げ、彼の柔らかな髪に触れた。懐かしい手触りがした。
すまぬ。
心配を掛けた。
そう泣くな。
俺は万事、障りなし──。
そう言いたかったが、うまく声にはならなかった。
それでも、彼は十分その意図を察してくれた。自分の頬に当てられた玻璃の手を握りしめ、ぼとぼとと涙を零している。
「よかった……。お気がつかれた」
ユーリが肩を貸してくれて、ゆっくりと上体を起き上がらせた。
見れば、そこは小さな岩だらけの島だった。比較的小ぶりの宇宙艇が傍に着水していて、自分はベッドの状態になったカプセルに寝かされている。カプセルの蓋は開いていた。これがここまで自分を運んできたらしい。
これは宙に浮いた状態で患者を運ぶこともできるもので、滄海の医療機関ではよく使われているものだ。
(ここは──)
玻璃はゆるゆると周囲を見回した。
この島には、見覚えがある。
かつて隣にいるユーリ王子が、船端から海に転落した日。水中から彼を引き上げて、初めて言葉を交わした場所だ。
目だけで疑問を伝えると、ユーリはにっこりと笑ってくれた。
「覚えておいででしたか? そう。あの島ですよ」
せっかくあちらで親身な口の利き方に慣れてくれたはずなのに、口調がすっかりもとに戻っている。これはまた、しばらく時間を掛けて慣れてもらわねばならぬらしい。
「ここまでは、アジュールの《すてるす・しすてむ》とやらを利用して飛んできました。アジュールとフランは、とうに宇宙の果てへ戻ってゆきましてございます。こちらは先ほど、滄海の宇宙空軍へ通信を送ったところです。すぐに迎えが来るはずです」
なるほど、そういうことらしい。
「瑠璃どのが、それはそれはお喜びでしたよ。早く、兄上殿の元気なお顔を見せてさしあげてくださいませ」
そう説明していながらも、ユーリの目から次々に落ちるものは止まらない。
それを見つめて、玻璃はもう一度微笑んだ。先ほどよりはずいぶん上手く笑えたらしい。ユーリの表情から硬いものがどんどん剥がれ落ちていく。
(……愛している)
あの孤独で厳しい宇宙での生活で実感した。
この人は、自分をあまりに低く評価しすぎる人だ。しかしあの人外の男と、あの少年との関わり方を見ていて確信した。
「鐘と太鼓で探しても」などとはいうが、自分がこの人を己が伴侶に選べたことは、まさに僥倖と言うべきだった。
あの底知れぬ優しさ。裏表のない誠実さ。立場の低い者、幼い者に対するばかりではなく、自分を害した者に対してさえ向けられる温かな共感の情。それこそは、ひとの上に立つ者が、何よりもまず必ず持たねばならぬ資質ではないか。
この人であれば、必ず自分とともに粉骨砕身、人々のために働いてくれよう。とりわけ、窮状に立たされた力のない者たちの気持ちに寄り添い、彼らを支援もしてくれよう。そうやって、滄海とアルネリオの架け橋となってくれよう。
(愛している……我がユーリ)
彼は間違いなく、「三国一の」我が伴侶。
玻璃はゆっくりと重たい腕を上げると、優しく彼の濡れた頬を撫で、涙をぬぐった。そっと顎に手を掛ける。
近づいてきたユーリの瞼がおりる。
それを確かめてから、玻璃は己が愛する人の涙に濡れた唇を、自分のそれでそうっと塞いだ。
波が岩場を洗う潮騒の音だ。
鼻腔をくすぐる風がはこんでくるのも、心懐かしい潮の香にほかならない。
懐かしさのあまりに、胸に痛みを伴うほどだ。
周囲の様子をすぐにも伺いたかったが、ひどく頭痛がしてなかなか目が開けられなかった。
「……どの。はりどの」
だれかが心配そうな声で自分の名を呼んでいる。覚えのある優しい手のひらが、自分の頬を撫でているのがわかった。彼がずっと自分に寄り添ってくれていたことは知っていた。
彼の顔をすぐにもこの目で見たかった。だがそれでも、まるで糊をみっしりと塗りこめられたかのように自分の瞼は開かなかった。
声の主が軽く吐息を零した。ややがっかりした様子が伝わってくる。
(ユーリ……。ユーリ)
そこでようやく、玻璃はこれまでの自分の記憶を呼び起こした。
宇宙の彼方から飛来した巨大宇宙船。そこからやってきた、恐るべき人外の生き物。そいつはたまたま側にいた自分の身辺警護や側近の命をいともあっさりと奪ってのけ、自分の宇宙船へ連れて帰った。
囚われになった自分のところへ、何故か彼まで連れてこられ、奇妙な共同生活が始まったのだ。自分はあの不思議な筒の中で何十日ものあいだ飼われ、彼は犬のように首輪までされて、やっぱり飼われた。
やがて小さな赤子が卵から生まれてきて、見る見るうちに少年にまで成長した──。
(そうだ……フランは)
小さなあどけない少年の名と面影を思い起こす。
自分とはなんのつながりもない子ではあるが、愛する青年の子だと思えば憎く思うことは難しかった。一般的に、己が為さぬ子を忌み嫌うのは、滄海にあってもごく普通の話ではある。まして自分は皇太子だ。血縁でもない子をあまりに可愛がれば、宮廷内の混乱を呼ぶ。
「……どの。玻璃どの」
愛する人が、心細げなこえで懇願している。髪を撫で、頬を撫で、胸を撫でてずっと自分の名を呼んでくれている。
やがて、そっと温かなものが自分の唇を塞いだのが分かった。
(……目を、覚まさねば)
彼は王子だ。世に隠れもなき、陸の帝国アルネリオの第三王子。
王子殿下の愛のこもった口づけを受けておきながら、目を覚まさぬなどは一大事である。
玻璃は下腹に力を溜めると、ぐっと瞼に気を集中させた。
それでようやく、細い光がうっすらと這いこんでくるのを覚えた。
「は……り?」
ゆるゆると随分時間をかけて目をこじ開けると、すぐ目の前に、自分がよく知っている優しく青い瞳があった。大きく見開かれた目には、それがしばしばそうであるように、いっぱいの光るものが溜まっている。茶色の髪はくしゃくしゃだが、アルネリオの王子としての正装に身を包み、白いマントを流した姿だ。
「……リ」
喉も顔の筋肉も少しも言うことを聞かなかったが、玻璃はどうにか彼を呼び、口の端を引き上げて見せた。何キロの重りがついているのかと思うほど、ひどく腕が重く感じる。だがどうにかそれを持ち上げ、彼の柔らかな髪に触れた。懐かしい手触りがした。
すまぬ。
心配を掛けた。
そう泣くな。
俺は万事、障りなし──。
そう言いたかったが、うまく声にはならなかった。
それでも、彼は十分その意図を察してくれた。自分の頬に当てられた玻璃の手を握りしめ、ぼとぼとと涙を零している。
「よかった……。お気がつかれた」
ユーリが肩を貸してくれて、ゆっくりと上体を起き上がらせた。
見れば、そこは小さな岩だらけの島だった。比較的小ぶりの宇宙艇が傍に着水していて、自分はベッドの状態になったカプセルに寝かされている。カプセルの蓋は開いていた。これがここまで自分を運んできたらしい。
これは宙に浮いた状態で患者を運ぶこともできるもので、滄海の医療機関ではよく使われているものだ。
(ここは──)
玻璃はゆるゆると周囲を見回した。
この島には、見覚えがある。
かつて隣にいるユーリ王子が、船端から海に転落した日。水中から彼を引き上げて、初めて言葉を交わした場所だ。
目だけで疑問を伝えると、ユーリはにっこりと笑ってくれた。
「覚えておいででしたか? そう。あの島ですよ」
せっかくあちらで親身な口の利き方に慣れてくれたはずなのに、口調がすっかりもとに戻っている。これはまた、しばらく時間を掛けて慣れてもらわねばならぬらしい。
「ここまでは、アジュールの《すてるす・しすてむ》とやらを利用して飛んできました。アジュールとフランは、とうに宇宙の果てへ戻ってゆきましてございます。こちらは先ほど、滄海の宇宙空軍へ通信を送ったところです。すぐに迎えが来るはずです」
なるほど、そういうことらしい。
「瑠璃どのが、それはそれはお喜びでしたよ。早く、兄上殿の元気なお顔を見せてさしあげてくださいませ」
そう説明していながらも、ユーリの目から次々に落ちるものは止まらない。
それを見つめて、玻璃はもう一度微笑んだ。先ほどよりはずいぶん上手く笑えたらしい。ユーリの表情から硬いものがどんどん剥がれ落ちていく。
(……愛している)
あの孤独で厳しい宇宙での生活で実感した。
この人は、自分をあまりに低く評価しすぎる人だ。しかしあの人外の男と、あの少年との関わり方を見ていて確信した。
「鐘と太鼓で探しても」などとはいうが、自分がこの人を己が伴侶に選べたことは、まさに僥倖と言うべきだった。
あの底知れぬ優しさ。裏表のない誠実さ。立場の低い者、幼い者に対するばかりではなく、自分を害した者に対してさえ向けられる温かな共感の情。それこそは、ひとの上に立つ者が、何よりもまず必ず持たねばならぬ資質ではないか。
この人であれば、必ず自分とともに粉骨砕身、人々のために働いてくれよう。とりわけ、窮状に立たされた力のない者たちの気持ちに寄り添い、彼らを支援もしてくれよう。そうやって、滄海とアルネリオの架け橋となってくれよう。
(愛している……我がユーリ)
彼は間違いなく、「三国一の」我が伴侶。
玻璃はゆっくりと重たい腕を上げると、優しく彼の濡れた頬を撫で、涙をぬぐった。そっと顎に手を掛ける。
近づいてきたユーリの瞼がおりる。
それを確かめてから、玻璃は己が愛する人の涙に濡れた唇を、自分のそれでそうっと塞いだ。
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