ルサルカ・プリンツ~人魚皇子は陸(おか)の王子に恋をする~

るなかふぇ

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第五章 駆け引き

14 異変

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「は……玻璃どの……!」

 ユーリは思わず、《水槽》の表面にはりついた。
 見る間に玻璃の髪が乾いていき、内側に残っていた水滴も消えて、彼の逆三角形をした見事な体躯がはっきりと見えるようになった。
 続いて、ユーリが触れていた壁面がするすると下方へ動き始める。外側の筒が、静かに円形の床面に向かって吸い込まれているのだ。

「玻璃……。玻璃っ……!」

 下がってきた筒の上部に手を掛けて、ユーリはもう夢中で中の人に向かって手をのばした。いつものように泰然とした微笑みと、優しい光を湛えた紫水晶アミェチーストの瞳が受け止めてくれる。
 筒が完全に下まで下がりきるのも待てず、ユーリはそこを跨ぎ越して台の上に駆けのぼった。

「玻璃いいっ……!」
「ゆ……り」

 玻璃はもちろんユーリの名を呼ぼうとしてくれたらしかった。だが、長く使っていない声帯は思うように機能してくれないようだ。喉に苦薬にがぐすりを流し込まれた人のように、がさがさに掠れた声が、やっと耳に届くぐらいである。
 それでもユーリは爆発するような喜びが抑えられない。

「玻璃……玻璃っ!」

 彼の太い首に両腕でしがみついて咽び泣くと、玻璃が背中をゆっくりと抱きしめてくれるのがわかった。ユーリは夢中で彼の頬を両手ではさみこんだ。あの忌々しい筒を介さず、至近距離で彼の目を見、体に触れるのは本当に久しぶりだった。
 そのままできれば彼の唇に吸い付きたかったが、さすがに子供の目の前では憚られる気がして、ユーリはなんとか思いとどまった。
 が、喜びはほんのつかの間だった。

「う……ぐっ」

 玻璃の眉間につらそうな皺が刻まれたと思ったら、彼は急に苦しそうに呻きはじめ、両手で顔を覆ったのだ。そのままがくりと膝をつく。

「玻璃っ? どうしたの、玻璃……!?」

 しゅうしゅうと妙な音がする。何かと思ったら、頭と言わず背中と言わず、玻璃の体全体から奇妙な蒸気みたいなものが煙のように噴き出しているのだった。

「なに? どうなってるんだ、アジュールっ……!」

 振り向いて叫ぶ。アジュールは冷ややかな目をして腕組みをし、二人を見つめているだけだ。隣にいる少年はすっかり度肝を抜かれた顔で呆然としている。

「が……あああッ!」

 玻璃が遂に咆哮をあげた。苦痛の限界に達したのだ。
 全身の血管が皮膚の上に色を滲みださせている。皮膚はあちこち変色して、赤黒くなったり紫色になったりしていた。肩や肘などの皮膚は裂けてめくれ上がり、醜い花弁のような姿を晒している。
 いま、彼の体じゅうの細胞という細胞が悲鳴を上げているのに違いなかった。
 
(玻璃……!)

 ユーリは愕然と彼を見つめた。
 いまや、玻璃の全身の皮膚が急速に張りとつやを失っていっている。枯れ木の表面のように瑞々しさを失い、ひびわれて、干し柿のように変色しつつあるのだった。玻璃は顔を覆ったまま蹲っている。あれほど大きな体躯が、急にしぼんで小さくなっていくように見えた。
 ユーリは必死で彼の体に覆いかぶさり、めちゃくちゃに叫び声を上げた。

「どうなってるの!? これ、どうなってるんだよっ! たすけて、アジュール。たすけてよ……!」
 ユーリの叫びに、フランがようやくぴくっと反応した。
「そ……、そうだよ! パパ! 何やってるの」
 すぐに男の腕にとりついて叫びだす。
「助けてあげて。玻璃どのを助けてあげてよっ! はやくっ、はやくう!」
「やれやれ。そいつも大したことはなかったな」

 男は相変わらず冷笑を口の端に浮かべたまま、さも面倒臭そうに首の後ろを撫でている。
 手に触れる玻璃の肌が、もはや完全に枯れ木のそれになっている。すでに玻璃の体は硬くなり、ぴくりとも動かなくなっていた。顔を覆って蹲った姿勢で、そのまま大きな石にでもなっていくように見えた。

「諦めろ。その中にいた期間が長すぎた。運が悪かったのさ」
「そ……そんな」

 下腹から全身へ、冷たいものが広がっていく。ユーリはぱくぱくと無意味に口を動かした。手の中にある玻璃の体から、生気とでも言うべきものがどんどん抜けていくのがはっきりわかる。

「い……や。いやだ」

 乾ききって口蓋に張りついた舌がやっと動いて、そんな言葉を紡いでいる。
 それが自分のやっていることだとは、やっぱりしばらくわからなかった。
 ユーリはゆるゆると首を横に振ると、玻璃の体にむしゃぶりついた。懸命に揺すってみる。だが、反応は何もなかった。

「いやっ……いやだ! 玻璃、玻璃いいいっ!」

 水気をすっかり失った玻璃の肌に、ぽたぽたと水滴の痕がつく。それが自分の流している涙だということに、ユーリは気づいていなかった。ただただ必死で、少しでももとに戻るようにと彼の皮膚を優しく撫で続ける。
 玻璃の体はもう、こそりとも動かない。熱い雫に視界を奪われながら、それでもユーリは必死で彼の顔の近くに耳を寄せた。
 かすかな吐息すら聞こえない。
 背中に耳をあててみても、ことりとも音がしなかった。
 あの聞くだけで安心できた、温かな彼の心音が。

「ああ……あああ……ああああああっ!!」

 だれかが絶叫している。喉も裂けよと。
 もちろんそれは、自分だった。
 おのが髪を掻きむしり、玻璃の体を抱きしめて、ユーリは大声で泣きわめいた。

 うそだ。
 うそだ。
 絶対に信じない。

 まさか、あなたがこんなことになるなんて──。
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