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第五章 駆け引き
2 ミニトマト
しおりを挟むこうなると、大抵は《水槽》から玻璃の優しい声がした。
《ユーリ。いいではないか。俺はかまわんぞ。フランの側にいてやるといい》
「で、でも。玻璃どの──」
《よいから。そなたもその子の親なのだからな。さあ、俺に構わず行って参れ。フランと一緒に楽しんでくるがいい》
そんな会話が、これまでに何度も繰り返されている。
望みが叶ったフランはもちろん大喜びだった。「玻璃どの、ありがとう!」と、ごく自然に《水槽》の表面にキスすると、ユーリの手を引いて跳びはねるように部屋から出て行く。ユーリはいつも、後ろ髪を引かれる思いで部屋を後にしなくてはならなかった。
上機嫌で宇宙船の通路を歩いていくフランのふわふわ揺れる蜂蜜色の髪を見やりながら、ユーリは密かにため息をつく。
(一体、どうしたらいいんだろう)
フランはどんどん成長していく。親バカと言われればその通りだが、贔屓目に見てもかなり賢く優しく、性格に曲がったところのないとてもいい子だ。正直、ユーリ自身も可愛くてたまらない。
少年は、ユーリと玻璃、そしてアジュールの関係について、先日来二度と具体的な質問をしてこなかった。幼いなりに「これは大人たちに訊いてはいけないことなんだな」と察したのだろうと思う。見た目以上に聡い子なのだ。その分、ひどく哀れに思われた。
生まれて間もない子にこんな種類の精神的な負担をかけていることが、ユーリにはどうにも心苦しい。だからといって、事実を話して聞かせることは許されない。いつでもどこでも、あの《サム》が自分たちの会話を監視している。少しでも「まずい内容」を話して聞かせようとすると、そのずっと手前で《ユーリ様》と、あの穏やかな声が毅然と話を遮ってくるのだ。
畢竟、話題はごく無難なものが多くなる。
「ねえ、フラン。アジュールパパのことが好き?」
「うん! 大好き。ユーリパパのことも大好きだよっ!」
少年はぱっと振り向いて、すぐさまにこにこ笑って答える。
「……そう。アジュールパパは、君に優しい?」
「うん。ユーリパパみたいに昔話のお話しはしてくれないけど、僕が怖くて眠れないときは一緒に寝てくれるよ。『歌は苦手だからイヤだ』って言うけど、おねだりしたら小さな声で子守唄も歌ってくれるの。ちょっとだけだけど」
「そ、そうなんだ……?」
あまりに意外なことを聞いて目を丸くする。
あのアジュールが? この少年の寝床で、子守唄を……??
「確かにちょっと、音が変なときもあるけど。パパが歌ってくれたら、すっごく嬉しい。怖かったのが、すーって嘘みたいになくなるの」
「……そうなんだ」
そしてどうやら、いわゆる「音痴」でもあるらしい。意外すぎる。
ユーリは吹き出すまいと、かなり苦労しなくてはならなかった。
「っぷぷ」
「ふふ。面白いよね? でもこれ、アジュールパパには内緒だよ? 『ユーリとゴリラには絶対言うな』って、怖い顔で言われちゃったから」
「う、うん……。わかった」
だったらせめて、玻璃に教えるのだけはやめておいてあげよう。せめてもの「武士の情け」だ。とはいえユーリは、玻璃がたまに言うこの「武士」がどういうものかをよく知らないが。
船内中央部に近い場所に「栽培室」のセクションがある。そこには食用になる植物を中心に、様々なものが栽培されていた。
壁にずらりと並んだ栽培用の棚には、太陽光に近い人工灯が当たっている。これが地球上とほぼ同じサイクルで明るくなったり暗くなったりするということだった。
フランがこれを栽培するのは、学習上の理由が大きいらしい。本来なら《サム》が一手に引き受けている作業であり、人間の手はあまり必要としないのだ。
フランが教育プログラムの中で学んでいる内容は多岐にわたっている。その中に、植物の成長に関する学習が含まれているらしい。
栽培室に到着すると、さっそく作業用の手袋をした。収穫用の握り鋏のような器具を使い、二人で熟れたトマトを収穫していく。今日食べない分は冷凍するなどして備蓄するのだ。
蔕のすぐ上でぷちんと茎を切り取ると、こんな人工的な栽培なのに、青々とした野菜の香りが広がった。
「あ、これも熟れてるね。おいしそうでしょ? ユーリパパ」
「うん。綺麗な赤色だ。本当においしそう」
「でしょでしょ! 昨日ひとつだけ味見したけど、本当に甘いんだよ。あとでいっしょに食べようね!」
「うん。楽しみだ」
にっこり笑ってやったら、フランも本当に幸せそうに笑顔をはじけさせた。
だが、それは長くは続かなかった。ある程度作業が終了したところで、少年はふと視線をさげて、暗い表情になったのだ。
「ん? どうしたの? フラン」
「あの……。あのね」
フランは言いにくそうに言葉を濁した。ユーリに何か言いたげなのだが、かなり躊躇しているらしい。
「どうしたの。何か気になることがあるの?」
「うん……」
自分よりも背の低い少年に俯かれると、こちらからは表情が見えにくくなってしまう。ユーリは少し腰をかがめて彼の顔を覗き込んだ。
「何かあった? 僕が聞いていいことなら、聞くけれど」
「うん……」
少年はやっと顔を上げると、困った顔でユーリを見上げた。
「……最近ね。ちょっとパパ、おかしいんだ」
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