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第四章 宇宙のゆりかご
5 首の秘密
しおりを挟む男は、ぱっと椅子から立ち上がると、床をひと蹴りして跳びあがった。
と思った次の瞬間にはもう、ユーリの目の前に立っていた。
「ひ……!」
ユーリは思わず後ずさった。
人間では考えられないような跳躍力だ。
「なんだ? 『籠の虫』風情が、随分とうるさい口を利くようになったもんだな」
「そ、そういうつもりじゃ──」
「じゃあ、どういうつもりなんだ」
また一歩後ずさったユーリを追うようにして、男はずいずいと近づいてくる。
ユーリは大いに後悔したが、もう後の祭りだった。
「ちょ、ちょっと待って……あっ!」
どんどん追い詰められて、とうとう壁際まで来てしまう。背中が壁にぶちあたったところで、ユーリはもう絶望していた。どん、と顔の横で手を突かれる。男の冷たい美貌がぐいと目の前に迫って来た。
「長髪ゴリラがほざいていたな? 『自分の命に免じて地球の人間どもは許してやってほしい』と」
「…………」
ユーリの喉はもう恐怖で凍り付いている。ぶるぶると全身が震えてくる感覚しか分からない。
「見上げたものだ。クズどもの皇太子にしては、なかなかのもんさ。あの根性と度胸に免じて、奴の望み通りにしてやらんこともない。そう思っていたところなんだが」
「そ、そんな──」
そんなこと、承服できない。玻璃殿がそんな目にお遭いになるなら、自分も共にそうして貰わねば。間違っても自分だけ、無事に助かって地球に戻るなんてことはできない。したくない。
かたかた震えて何も言えないユーリの思考を、男は詳細に読み取っているようだった。気が付けば、男の片腕がいつのまにか音もなく変形し、鋭い刃になっている。刃先が電子画像の光を跳ね返して、ユーリの頬のすぐ脇できらりと光った。
「あのゴリラと一緒に殉死なんて、くだらんことは考えるな。お前はフランの『パパ』だろう」
「え……」
「お前が死んだら、フランが悲しむ。だからお前は殺さない。自死も許さん。もちろん、地球に戻しもしないが」
「…………」
呆然と見返すユーリの目のすぐ下を、つつう、と刃の腹が撫でている。
「……お前は、俺のモノになれ」
「な──」
ぞくっと背筋に寒気が走った。
「あの野郎は刻んで殺す。それがあいつの望みだからな。地球の虫どもはまあ、見逃してやらんこともない。言われてみれば確かに不合理だしな。千年も昔の、自分と関係のない奴らの罪を負わされるのも迷惑な話だろう」
「…………」
それは良かった。少しは救いがあるというものだ。
このまま、罪もない地球の人々が全滅させられるという最悪の悲劇だけは、どうにか免れられるのかもしれない。しかし。
(私が……この男のものに?)
いやだ。
だめだ。
そんなこと、許されるわけがない。
なにより、あの玻璃殿に申し訳がたたない。
左手の薬指に嵌まった銀色の指輪を指ごと握って、ユーリは呻いた。
「い……や。いやです」
「なんだと?」
やっと絞り出した言葉は激しくかすれて、聞き取りにくかったのかも知れない。男は少しこちらに耳を寄せた。
「いやですっ。わ、私は……わたしは、玻璃殿のものなんだから!」
叫んだ途端、凄まじい衝撃が頬に走った。
ユーリの体は吹っ飛ばされて壁に叩きつけられ、そのまま床に転がった。頬を張り飛ばされたのだと、そこでやっと理解した。
「そんな戯れ言が、いまさら俺に通用すると?」
いや、思わない。そんなことは百も承知だ。だが、だからといって「うん」と言うわけにはいかなかった。口の中に鉄の味が広がってくるのを覚えながら、ユーリは歯を食いしばった。
指が動いたのは、完全に無意識だった。ずっと鰓の中に潜ませている例の物を、そっと指の腹でさすったのだ。
そこには、瑠璃から渡された小さなカプセルが今もとどまっている。玻璃と心を通わせるための機能以外に、それには別の機能も付与されていた。
瑠璃はあの時、言ったのだ。
最後の最後、もうどうにもならぬと思ったときには、これを使えと。
あの時はユーリに向かって「兄のためなら命も操も捧げて見せろ」とまで言い放っておきながら、あの皇子も結局は優しい人だった。これが何よりの証だった。
もっともこれは、どうやっても玻璃の命を救うことが叶わぬと確定したらの話だけれど。
(瑠璃どの……)
地球で待っている、あの美しい玻璃の弟君の顔を思い出す。
彼もきっと、身も細る思いで兄の無事の帰りを待っていることだろう。だからこれを使うのは今ではないのだ。
ユーリは痛む頬を撫でながらのろのろと上体を起こした。
やっと立ち上がり、まっすぐにアジュールを見る。
「何度でも言うよ。玻璃殿の命を奪うというなら、僕も死ぬ。僕は玻璃殿のものだ。この指輪を頂いてからずっと。一から十まで、細胞の一個まで! 僕は、あの方のものなんだ!」
「貴様っ……!」
アジュールの目がかっと見開かれ、ユーリは襟元を掴まれて、再び床に引き倒された。
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