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第三章 宇宙の涯(はて)で
7 ノア計画
しおりを挟むそれから。
アジュールは赤子を連れてこの部屋を訪れるたび、ぽつぽつと少しずつこの船や過去に関する情報を教えてくれるようになった。
かつて、地球で言えばもう千年近くも昔の話。
科学技術が進んだ反面、地球の人間たちはあまりの人口増による、水や食料の不足に喘ぐようになっていた。限りある資源を巡って、人々は争い、奪いあい、果ては殺しあうようになる。貧富の差や地域格差が恐るべき早さで広がり、わずかの日照りや飢饉がもとで多くの人々が命を喪うことになった。
「人間にとって一見都合のいい環境」を作ることは、ともすれば環境をあまりに急激に変化させることにつながる。それが回り巡って人間の首を絞める結果になったのだ。まことに皮肉な話だったが、それがアジュールの意見だった。
「もちろん、当時もバカばかりだったわけじゃないんだろうさ。だが、人間は全体では愚かな生き物だと俺は思う。何百、何千年も積み重ねて来たデータが目の前にあってさえ、全体として過去に学ばず、感情や目先の利益に目がくらんでそちらを優先させる。そういうどうしようもない、本能的な欲求を抑えきれない生き物だ、という点でな」
腕の中ですやすや眠っている小さなフランを起こさないためだろうけれども、アジュールの声音は静かだった。だがだからこそ余計に、その言葉はユーリたちの胸を抉った。
「月や近隣の惑星の開発も進んではいたが、それではすぐに間に合わなくなった。それに、太陽系だっていつまでも存続できるわけじゃない。寿命が尽きるころには、どの惑星も膨張した恒星に飲み込まれて消滅する運命だ。種として生き残ろうと思えば工夫が要る。それで、当時のクソ虫どもが最初に計画したのがこの船と、俺たちだったというわけさ」
「この船と、あなたたち……?」
「そうだ。もちろん一隻のみじゃない。他に何百隻もあったということは分かってる。そこには俺たちと同じ《アジュールとフラン》が何体も積み込まれていたはずだ」
言ってアジュールは、一度ひたとユーリと玻璃を睨み据えた。
「当時、この計画は『NOAH計画』と呼ばれていた。大洪水で滅びかけた世界から、ごくわずかの人間と動物だけを救い出したという昔話かなにかが原典だと聞いてるが。そうなのか?」
《ああ……。まあ、そうなるだろうな》
返事をしたのは玻璃である。
《昔話というか、古くからある宗教の聖典に残されている記述だろう。そちらについては俺よりもユーリの方が詳しいだろうが》
「あ、はい。そうですね。アルネリオには、まだその聖典と教えを信じる者たちが存在しますし」
「ほう?」
アジュールは意外そうな目をユーリに向けた。
「大昔には、国教だったこともあったはずです。ただ、国々が海に沈み始めた頃、ちょうど宗教的な争いもあって人口がひどく減った時代があったとかで。今でも信仰することそのものは自由ですが、国政とは完全に分離されています」
「ふうん」
「そのほかの宗教も、信教の自由は保証されているものの、他人の権利を侵さない等々、法律の許す範囲内で、ということになっていますね。飽くまでも建て前上はというお話ですが……」
「へえ。なにかとややこしそうな話だな?」
男が少し苦笑すると、玻璃がひとつ頷いた。
《まあ大洪水そのものは、実際にあったことらしいがな》
《そうなのですか?》
驚いた。それは初耳だったのだ。
《ああ。文献によれば、その宗教を奉じる地域以外にも、同じような伝説が長く各地に残っていたそうだ》
「ほう」
そこでアジュールは目線を落とし、しばし黙った。フランの小さくて可愛らしい額をそっと指先で撫でている。その手つきがひどく優しいものに見えて、ユーリはなぜか胸が締め付けられるような気持ちになった。彼が誰のことを思い出しているのかは明らかだったからだ。
やがて男は、まるで独り言のように言った。
「俺とフランは、当時のクソ虫どもが造った『人造人間』だ。必ず一対、二人一緒に生み出されることになっている。奴らは俺たちを『人形』と呼んでいた」
「『ドール』……」
「そうだとも」
アジュールは顔を上げると、表情を一転させ、頬に皮肉な笑いをのぼせた。
「要は、お前ら人間の遺伝情報をめいっぱい詰めこまれた、単なる道具さ。俺の体にもフランの体にも、お前らのもとになるものが大量に仕込まれていた。都合のいい惑星が見つかれば、そこで初めて解凍され、人の形になるまではその《水槽》で培養される……」
《なに……?》
男がついと指さしたのは、玻璃が入れられている《水槽》だった。玻璃がぎょっとしたように自分の周囲に視線を走らせた。つまり、この容れ物が彼らを生み出した当の装置だというのだろう。
船は当初、アジュールとフラン自身も「受精卵」のような形のまま冷凍状態で積み込んで、宇宙へ射出されていった。同様の何百、何千もの船が、宇宙のどこかで人類の命をつなぐため、その希望として送り出されていったというのだ。
「ちょうど、タンポポが種を綿毛に積んで、風に飛ばすようなもんだ。そのごく一部でもいいから、ふさわしい土を見つけて芽吹くことができれば御の字。運悪く、育つことのできない土地に落ちたら枯れて死んでいくだけのこと。宇宙で言えば、巨大な重力をもつ星やブラックホールに捕まれば、そこで永久に朽ち果てる運命だということだ」
「そんな……」
ユーリは戦慄した。
いくらなんでも、そんなめちゃくちゃな「計画」があるだろうか?
滄海にもこんな諺がある。「下手な鉄砲も数撃てば」というような。それにしたって、これはあまりといえばあまりにひどすぎる計画なのではないだろうか。
いくら「人造人間」だとは言っても、命は命ではないか。ましてや彼らから生まれてくるのは本物の人間だ。
(つまり……それは)
ユーリは胸の底が冷えるように、しかし明確に理解した。
つまり、当時の権力者たちや科学者たちは、アジュールたち「人形」を人間だなんて思ってはいなかったのだ。人間として普通に持っているはずの権利なんて、何ひとつ認めてはいなかった。
こんな風に、わざわざ深い恨みや悲しみや、赤子を愛おしむ気持ちといった普通の人間としての感情を持つ存在として造りだしておきながら。
そして恐らくそれと同様に、彼らの体に積み込んだという人間になる前の精子や卵子にも、当然人権など認めていなかったということだろう。それらをこんなやり方で厳しい環境の宇宙に放り出しても、一抹の罪悪感も覚えなかったということなのだ。
(なんて、ことを──)
ユーリは唇を密かに噛んだ。
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