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第三章 宇宙の涯(はて)で
5 卵
しおりを挟む数日後。
男はひょっこりと現れた。前回この部屋で自分が何をやったかなんて、綺麗に忘れたような顔をして。
《水槽》の脇で膝を抱えて座り込んでいたユーリは、気配を感じてようやく、ぼんやりと目を上げた。玻璃もその大きな筒の中で不審そうな目をしてアジュールを睨んでいる。
男は二人の冷ややかな視線など毛ほども気にしない様子で、すたすたと近づいて来た。いつもと同じ格好、同じ風貌。涼しげで冷酷な美貌である。
しかし。
今回は、奇妙なことがひとつあった。
男は今回、両腕にひと抱えもありそうな白いボールのようなものを抱えていたのだ。
「やあ、お前ら。相変わらず辛気臭い顔だなあ」
誰のせいでこうなっているかなどすっかり棚に上げて、そんなことを嘯いている。妙に機嫌がよさそうだ。
「せっかく番でいさせてやってるんだ。少しは嬉しそうな顔をしろよ」
《…………》
この言い草には、さすがの玻璃も絶句である。ユーリももはや、どこに突っ込めばいいかもわからない。というか、もうそんな気力も体力も残ってはいなかった。
男が近づいてくるにつれ、ユーリは慌てて寝具をぐるぐるに身にまきつけて、出来るだけ距離を取ろうと後ずさった。
男は目ざとくそれを見つけると、鼻を鳴らして見下ろして来た。
「ああ、警戒しなくていいぞ。今回は、お前に指一本触るつもりはないからな」
「…………」
ユーリは恐らく真っ青なのだろう顔のまま、黙って男を見上げた。そう言われたからと言って、簡単に気を許すわけにはいかなかった。この男の外連の在りようについては、もう重々肝に銘じているからだ。
あらためて傍で見ると、大きなボールのように見えたものはどうやら卵にそっくりであることが分かった。色といい形といい、ちょうど鶏のそれに近い。大きさだけが、その何十倍もあるところを除いては。
奇妙なことに、男はそれをひどく大切そうに抱えていた。まるで本当に自分の卵でも世話するかのように。
まさか、そんなはずはないだろうけれど。
胡散臭そうな二人の視線などものともせずに、男はゆっくりと《水槽》の周りを歩き始めた。ユーリも玻璃も、ずっとその姿を目で追う。
「そろそろかなと、思ったのさ」
「な、……なにが……?」
「中からごそごそ音がするし。こつこつ叩いてるようだしな」
「ええ……?」
男はこちらの質問など完全に無視して目を細め、卵の表面を軽く撫でて悦に入っているようだ。そのままぐるりと一周まわり終えて、ユーリの前に立つ。
「ほら。聞こえないか? 中でなにか言ってるぞ」
「…………」
本格的に背筋が冷えこんで、ユーリは掛け布で体を覆ったまま、ワイヤーが許すぎりぎりまで男から離れようとまた尻を動かした。首輪が首筋に食い込んでぎちぎちと音を立て、皮膚に痛みが走る。
と、その時だった。
──かつ。
(えっ……)
ユーリは目を剥いた。玻璃と一瞬目を見かわす。
なんだろう。音がしている。無機物ではなく、あきらかに生き物がたてるような不規則な音が、こつんこつんと。
……やがて。
──こつん、こつん……ぱきん。
「う、わわあっ……!?」
今度こそ、本当にユーリは飛び上がった。
男が手にしている《卵》の尖った頂点のところに、鶏の卵と寸分違わぬ皹が入っている。ちょうど、王宮で朝食によく出されていた茹で卵の頂点に、フォークで穴を開けたときのように。
それが見るみるうちにめりめりと大きくなっていく。
──と。
「ひゃああっ!」
ユーリは情けない悲鳴をあげた。
ひび割れた卵の殻の間から、ぬっと小さな「手」が現れたのだ。
肉付きの良い、まるっこくて小さな手。やや赤味が強く、ぎゅっと握りしめられた小さな拳。
間違いない。それは、人のものだった。
ユーリは危うく失禁しそうになるのをどうにか堪えながら、もうぴったりと《水槽》に身を寄せて震えている。それでも《卵》から目を離すことだけはできなかった。
そうするうちにも、ぱきぱきと小さな音を立てて《卵》からその存在が現れてくる。
アジュールはこれまで見たこともないような穏やかな目をして、それをじっと見つめていた。驚いたことには、時々、不要になった卵の殻をそっと取りのけてさえやっている。それがぱらぱらと男の足元に落とされていくのを、ユーリは呆然と見つめていた。
「あ、……あ、あう、あっ……」
もう、すっかり腰が抜けていた。体に力が入らない。
(まさか……。まさか、そんなことが)
卵の中から現れたのは、玉のような赤ん坊だった。卵よりひとまわり小さくて、まさに生まれたての人間の赤ん坊そのものだ。目は閉じているものの、うっすらと生えた頭髪は金色に見える。小さな可愛らしい唇をもぐもぐ動かして、「ぐう」とか「あぶう」とか、なにかぶつぶつ言っているようだった。
一般的な赤子のように、生まれたてでも火が付いたように泣いたりはしないらしい。ユーリはなぜかホッとしていた。もしも赤ん坊がうるさく泣きわめいてこの男の逆鱗に触れでもしたら、この子は即座に八つ裂きにされるかもしれない。そう考えずにはいられなかったからだ。
「に……人間、なのですか」
気が付いたら、口が勝手にそう訊ねていた。これは後で気づいたが、つい敬語を外すのを忘れるほどには動転していた。
男はにやりと片頬を歪めると、すっかり殻をとりのけて裸になった赤ん坊を抱いたまま、皮肉めいた目でユーリを見下ろした。
「そうだとも。……まあ、『第一世代』だからな。成長だけはやたら速いが」
「ええっ……?」
一体なにを言っているのか。
男の言葉の半分も理解できないままに、ユーリは呆然とまた玻璃と目を見合わせた。
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