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第二章 囚われの王子
16 犬の生活
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《ダメだ。そう言って、朝の食事も摂らなかったではないか。そんなことでは身がもたぬぞ》
ユーリはおずおずと顔を上げた。《水槽》の中から玻璃が、温かくも心を痛める目をしてじっとこちらを見つめている。
彼の方は、《サム》が《水槽》の機能を通してあらゆる面倒を見てくれている。経口で食事を摂る必要もなければ、尾籠な話だが排泄のほうも完全管理されているらしい。
だが生身で外にいるユーリは、そういう訳にはいかなかった。生きている以上、食べなければならない。入浴し、眠り、最低限の身の回りのこともせねばならない。
髭はもともと薄いほうなのだけれど、玻璃にみっともない姿を見られるのはどうしてもいやで、洗面スペースで毎日きちんと剃っていた。一応《サム》に訊いたところ、それも《電子シャワー》の中の機能を使えば簡単だったのだ。
とある場所に顔をちょっと突っ込むだけで、洗顔から髭剃り、肌の手入れまですべて自動でやってくれる。しかも速い。ここまで痒いところに手が届くのでは、なんだか自分が人間としてどんどんダメになってしまいそうな気がするほどだ。
故国アルネリオでは、貴人に仕えてこうした身づくろいを手伝う使用人が何人もいたものだ。けれど、この船の中では彼らは全員失職するしかないのであろう。それはそれで、色々と心配になるユーリだった。
ちなみに玻璃は、相変わらず髭も髪も伸ばしっぱなしにしている。それで不潔な感じになるどころか、むしろ男としての色気が倍増しているように見えて、ユーリは毎回くらくらした。下穿きだけといういで立ちなのに堂々としているうえ、なにひとつ悪びれる様子もない。この方はこのままでも、すぐに海皇になれるほどの押し出しをお持ちなのだ。
まったく、目の毒とはこのことだった。貧弱な自分との差をまざまざと見せつけられたような気になって、実は心ひそかに凹んでもいる。どうして自分は、この方みたいに堂々と、王子としての威厳を持って存在していられないのだろうかと。
《俺のことなど気にするな。さあ、食事をとって参れ。この通りだから。な、ユーリ》
玻璃に頭まで下げられて何度も諫められ、ユーリはしぶしぶ食事を取りに行った。牛乳粥のようなものと紅茶のマークを選択し、金属ではなさそうな軽いトレーに載せて《水槽》に戻る。
容器やスプーンなどのカトラリーも、ここでは同じような材質の、軽くて丈夫なものが使われていた。玻璃は「プラスチックに似ているな」などと言っていたが、それが何なのかをユーリは知らない。
ユーリはこれまで、何をするにも基本的にずっと玻璃の隣でやってきた。この部屋にベッドのようなものはなかったけれど、《サム》に訊いたら寝具の場所を教えてくれたので、それを《水槽》のそばまで持ってきて、ずっとそこで寝起きしている。
戻って来たユーリの手もとを見た玻璃が、また心配そうに眉をひそめた。
《それっぽっちか。倒れてしまうぞ、ユーリ》
《……大丈夫です》
正直なことを言えば、あちらの部屋で食べたかった。自分ばかり、玻璃に見せびらかすようにして食事をするのはずっと気が引けていたからだ。
しかし玻璃が「どうしてもそばで摂れ」と言って聞かなかった。それだけユーリの身を案じてくれているのだろう。この人はきっと、放っておいたらユーリがずっと食事をしないままになることを恐れているのだ。
そしてそれは、あながち的外れな心配でもなかった。ここに捕らえられてからこっち、ユーリにはほとんど食欲らしい食欲がなかったからだ。
《食欲がないのは分かるが。食えるときに食っておかねば、いざというときに体が動かぬぞ。……どうか俺のためと思って、もう少し食ってくれぬか》
《…………》
優しい彼の思念を受けて、ユーリは胸が苦しくなった。
この方をお助けするなんの手がかりもないままに、ただ犬のように飼われているだけの自分。そんな人間に、何を食べる資格があるのだろうか。
泣きそうな顔になったのだろうユーリを前に、玻璃は《水槽》の中で眉尻を下げたようだった。完全に困った顔だ。
《すまぬ。無理強いするつもりはないのだが……》
《……わかっております》
少し微笑んで見せてから、スプーンで粥を口に入れた。だが美味しく調理されているはずのそれは、まるで砂を噛むように、ほとんど味がしなかった。
◆
男がやってきたのは、そうやってユーリが数百時間も無為に過ごした後のことだった。ユーリは使ったスプーンを洗って置いておくことで一応の日数を数えていたのだったが、それによれば三日後のことである。
「ふむ。ちゃんと生きてるな」
男は入って来るなりじろりとユーリと玻璃を観察し、前のようにぐいとユーリのワイヤーを引っ張った。ユーリはおとなしくのろのろと立ち上がると、玻璃にそっと微笑みかけて頷いてから、男のあとに従った。
部屋の外に出たとたん、男はユーリの顎に手をかけて上を向かせた。そのまま無理やり、左へ、右へと顎を動かされる。
「お前。顔色が悪いじゃないか。ちゃんと食事はしてるのか」
「……一応は。玻璃どのが『食べておけ』とうるさいので」
ユーリは細い声でぽそぽそ答えた。
こんな精神状態でこんな生活をさせておいて、いまさら「不健康そうだ」と文句を言われても困る。そもそもどの口でそんなことを言っているのか。
そんなユーリの内面を察したのかどうか、男は皮肉げに口角を歪めて鼻を鳴らした。
「なんだよ。あいつはあんな筒の中で、えらく元気そうじゃないか。むしろ捕えてからこっちのほうが、よっぽど健康そうだ。むしろ前よりふてぶてしくなってるぐらいだぞ」
もちろんそれは、玻璃のことだ。
肝の据わったあの方と自分とを、そんな風に比べられても困る。
(どうせ……私なんて)
急にもやもやと胸の奥に冷たい暗雲が立ちこめて俯いたら、またぐいとワイヤーを引っ張られた。
「ま、いいか。来いよ」
今度はどこへ連れていこうというのだろう。
疲労で霧がかかったような脳内で、ユーリはぼんやりと考えた。
ユーリはおずおずと顔を上げた。《水槽》の中から玻璃が、温かくも心を痛める目をしてじっとこちらを見つめている。
彼の方は、《サム》が《水槽》の機能を通してあらゆる面倒を見てくれている。経口で食事を摂る必要もなければ、尾籠な話だが排泄のほうも完全管理されているらしい。
だが生身で外にいるユーリは、そういう訳にはいかなかった。生きている以上、食べなければならない。入浴し、眠り、最低限の身の回りのこともせねばならない。
髭はもともと薄いほうなのだけれど、玻璃にみっともない姿を見られるのはどうしてもいやで、洗面スペースで毎日きちんと剃っていた。一応《サム》に訊いたところ、それも《電子シャワー》の中の機能を使えば簡単だったのだ。
とある場所に顔をちょっと突っ込むだけで、洗顔から髭剃り、肌の手入れまですべて自動でやってくれる。しかも速い。ここまで痒いところに手が届くのでは、なんだか自分が人間としてどんどんダメになってしまいそうな気がするほどだ。
故国アルネリオでは、貴人に仕えてこうした身づくろいを手伝う使用人が何人もいたものだ。けれど、この船の中では彼らは全員失職するしかないのであろう。それはそれで、色々と心配になるユーリだった。
ちなみに玻璃は、相変わらず髭も髪も伸ばしっぱなしにしている。それで不潔な感じになるどころか、むしろ男としての色気が倍増しているように見えて、ユーリは毎回くらくらした。下穿きだけといういで立ちなのに堂々としているうえ、なにひとつ悪びれる様子もない。この方はこのままでも、すぐに海皇になれるほどの押し出しをお持ちなのだ。
まったく、目の毒とはこのことだった。貧弱な自分との差をまざまざと見せつけられたような気になって、実は心ひそかに凹んでもいる。どうして自分は、この方みたいに堂々と、王子としての威厳を持って存在していられないのだろうかと。
《俺のことなど気にするな。さあ、食事をとって参れ。この通りだから。な、ユーリ》
玻璃に頭まで下げられて何度も諫められ、ユーリはしぶしぶ食事を取りに行った。牛乳粥のようなものと紅茶のマークを選択し、金属ではなさそうな軽いトレーに載せて《水槽》に戻る。
容器やスプーンなどのカトラリーも、ここでは同じような材質の、軽くて丈夫なものが使われていた。玻璃は「プラスチックに似ているな」などと言っていたが、それが何なのかをユーリは知らない。
ユーリはこれまで、何をするにも基本的にずっと玻璃の隣でやってきた。この部屋にベッドのようなものはなかったけれど、《サム》に訊いたら寝具の場所を教えてくれたので、それを《水槽》のそばまで持ってきて、ずっとそこで寝起きしている。
戻って来たユーリの手もとを見た玻璃が、また心配そうに眉をひそめた。
《それっぽっちか。倒れてしまうぞ、ユーリ》
《……大丈夫です》
正直なことを言えば、あちらの部屋で食べたかった。自分ばかり、玻璃に見せびらかすようにして食事をするのはずっと気が引けていたからだ。
しかし玻璃が「どうしてもそばで摂れ」と言って聞かなかった。それだけユーリの身を案じてくれているのだろう。この人はきっと、放っておいたらユーリがずっと食事をしないままになることを恐れているのだ。
そしてそれは、あながち的外れな心配でもなかった。ここに捕らえられてからこっち、ユーリにはほとんど食欲らしい食欲がなかったからだ。
《食欲がないのは分かるが。食えるときに食っておかねば、いざというときに体が動かぬぞ。……どうか俺のためと思って、もう少し食ってくれぬか》
《…………》
優しい彼の思念を受けて、ユーリは胸が苦しくなった。
この方をお助けするなんの手がかりもないままに、ただ犬のように飼われているだけの自分。そんな人間に、何を食べる資格があるのだろうか。
泣きそうな顔になったのだろうユーリを前に、玻璃は《水槽》の中で眉尻を下げたようだった。完全に困った顔だ。
《すまぬ。無理強いするつもりはないのだが……》
《……わかっております》
少し微笑んで見せてから、スプーンで粥を口に入れた。だが美味しく調理されているはずのそれは、まるで砂を噛むように、ほとんど味がしなかった。
◆
男がやってきたのは、そうやってユーリが数百時間も無為に過ごした後のことだった。ユーリは使ったスプーンを洗って置いておくことで一応の日数を数えていたのだったが、それによれば三日後のことである。
「ふむ。ちゃんと生きてるな」
男は入って来るなりじろりとユーリと玻璃を観察し、前のようにぐいとユーリのワイヤーを引っ張った。ユーリはおとなしくのろのろと立ち上がると、玻璃にそっと微笑みかけて頷いてから、男のあとに従った。
部屋の外に出たとたん、男はユーリの顎に手をかけて上を向かせた。そのまま無理やり、左へ、右へと顎を動かされる。
「お前。顔色が悪いじゃないか。ちゃんと食事はしてるのか」
「……一応は。玻璃どのが『食べておけ』とうるさいので」
ユーリは細い声でぽそぽそ答えた。
こんな精神状態でこんな生活をさせておいて、いまさら「不健康そうだ」と文句を言われても困る。そもそもどの口でそんなことを言っているのか。
そんなユーリの内面を察したのかどうか、男は皮肉げに口角を歪めて鼻を鳴らした。
「なんだよ。あいつはあんな筒の中で、えらく元気そうじゃないか。むしろ捕えてからこっちのほうが、よっぽど健康そうだ。むしろ前よりふてぶてしくなってるぐらいだぞ」
もちろんそれは、玻璃のことだ。
肝の据わったあの方と自分とを、そんな風に比べられても困る。
(どうせ……私なんて)
急にもやもやと胸の奥に冷たい暗雲が立ちこめて俯いたら、またぐいとワイヤーを引っ張られた。
「ま、いいか。来いよ」
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