120 / 195
第一章 彼方より来たりし者
14 海の父
しおりを挟む
青鈍、藍鼠と別れて、ユーリは改めて群青陛下の御座所へ回った。
先触れされた通り、水槽に入る前に尾鰭を装着する。若者は上半身に腕輪や首輪といったもの以外はつけないのが通例なのだが、不慣れなためなんだか恥ずかしい。いくらここでは普通でも、人前でこんな格好、アルネリオではありえないことなのだ。
どうしたものかともじもじしていたら、女官の一人が助け船を出してくれた。
「女人やご高齢の皆様は薄絹をつけられます。よろしければ、殿下もそうなさいますか」
すぐにそう提案してくれたのは、事前に予想されていたことだからなのだろう。もしかしたら、玻璃の指示なのかも知れなかった。鷹揚でありながらも目下の者への濃やかな気遣いを忘れないあの人のことを思い出して、ユーリの胸はまたちりちりと痛んだ。
用意されていた白い薄絹は、群青陛下がお召しのものとよく似ていた。触れてみると、こちらの昔話に出てくる天女の羽衣のように薄くて軽く、つややかな手触りがした。ユーリは尾鰭をつけてそれを羽織ると、ようやく水に入った。
以前は怖かった水が、不思議なほどに怖くない。以前やったとおり、鼻と口をつけてゆっくりと呼吸すると、自然と鰓が機能しはじめる。
女官たちに案内されて、ユーリはそのまま奥へ進んだ。後ろからロマンと黒鳶もついてくる。黒鳶は上半身裸だが、ロマンは側仕えの者がつける薄絹を羽織った姿だ。
(うわあ……すごいな)
水の中とはいえ、やっぱり御殿は御殿だった。紅く塗られた太い柱がずっと続く長い回廊。みなが水の中を泳ぎ回るためだからか、天井はずいぶん高い。それでも空気中と同じようにうつくしい甍が並び、海の植物による庭が設えられている。そのもとを尾鰭をつけた女官や男たちが優美な姿で泳ぎ回っていた。
なにもかも、目にしみるように美しい。
それはもしかしたら、ユーリ自身がこれを見納めと思っているからかもしれなかった。
《こちらです。陛下から、殿下おひとりでとうかがってございます》
水の中では声帯を使って言葉をやりとりするのが難しいので、みな耳の中に通信機をはめ込んでいる。音声はそこから聞こえて来た。こちらも同じものを着けている。以前、はじめて会ったときに玻璃が着けていたのと同じものだ。
言われた通りロマンと黒鳶を部屋の外に残して、ユーリは開かれた扉のなかに進んでいった。
陛下のお部屋は、さすがにご高齢の方らしく落ち着いた雰囲気だった。調度はすべて、水を通して入り込んでくる光の加減をじゅうぶんに加味した色合いでまとめられている。素材はなんだかわからなかったが、どうかするとゆらゆら、ちらちらと控えめに光る。一部は恐らく、螺鈿とよばれるものが使われているらしい。
部屋のいちばん奥に少し高くなった雛壇があり、その上に柔らかそうな滄海式の長椅子が据えられている。
群青陛下はそこにおられた。ほかには誰もいなかった。
いつ拝謁しても思うけれど、本当に神々しいまでの見事な白髪とお髭である。海の皇そのものといったお姿だ。
《おお。ユーリか》
こちらを見ると、陛下はもともと優しい瞳をさらに優しくして、ゆったりと両手を広げられ、ユーリをさし招いた。
《このような刻限に呼び立てて、まことにあいすまなかったな。……さあ、よければこちらへおいで》
《陛下……》
つい逡巡して俯いてしまったが、何度か優しい声音で誘われて、とうとうユーリは恐るおそるそちらに泳ぎ寄った。
泳ぎはやっぱり、下手くその極みである。よろよろと不格好に水をかくが、どうかするとすぐにくるりとあおむけになりそうになる。それでもどうにか陛下の足元の段下にたどりついて、改めて深々と頭を垂れた。
《ユ、ユーリ、参りましてございます……》
いや、それでは終わらなかった。頭を下げた拍子に尻が浮き上がって、非常に不格好なことになるのだ。慌ててわたわたしていたら、余計にどんどん変な姿勢になっていく。
群青陛下がくすくすとお笑いになったようだった。
《ほれほれ。そのようなつまらぬところではなく。遠慮などせぬがよい。さあさあ、余の隣へおいで。ここなら落ち着こうほどに》
《え、あの……。でも》
ユーリはもうへどもどし、目を白黒させている。
隣というのは、そのお椅子のお隣へということだろうか。
(群青陛下の……お隣へ?)
《いっ、いえ! いえいえいえ!》
そんなこと、とんでもない!
畏れ多すぎて、身が縮むなどというものではない。
まったくもって勘弁していただきたい。
《わ、わたくしはこちらで。どうか──》
《まあそう言わず。そのために、斯様に人払いをいたした。玻璃の配偶者となってくれたからには、そなたはもはや我が息子も同じ。だから、さあ、さあ……父のもとへおいで》
《お、畏れ多く……お許しを》
そこでちょっと陛下は黙った。じっとユーリを見つめて、やや悲しげな瞳になられたようだ。
《左様か。やはり、こんな爺いのそばなどつまらぬか》
《そっ、そそ、そういうことではなく! 全然なくっ……!》
両手を振り回してじたばたしすぎたせいで、ユーリはその場で今度こそ、体ごとぐるんと回ってしまった。水中なればこその大失態である。
(ひ、ひいっ……!)
余計にばたばたすればするほど、体のバランスが崩れてぐるぐる回るばかりで、さらに変な格好になっていく。真っ赤になって慌てていたら、大きな手がぐいと腕を掴んで引っ張ってきた。
気が付いたらもう、すとんと群青の隣に座らされていた。
《まあまあ、落ち着かれよ。すまぬな、急に呼び立てたゆえよなあ》
(ひいいいっ……!)
ユーリの脳は、完全に真っ白になった。
先触れされた通り、水槽に入る前に尾鰭を装着する。若者は上半身に腕輪や首輪といったもの以外はつけないのが通例なのだが、不慣れなためなんだか恥ずかしい。いくらここでは普通でも、人前でこんな格好、アルネリオではありえないことなのだ。
どうしたものかともじもじしていたら、女官の一人が助け船を出してくれた。
「女人やご高齢の皆様は薄絹をつけられます。よろしければ、殿下もそうなさいますか」
すぐにそう提案してくれたのは、事前に予想されていたことだからなのだろう。もしかしたら、玻璃の指示なのかも知れなかった。鷹揚でありながらも目下の者への濃やかな気遣いを忘れないあの人のことを思い出して、ユーリの胸はまたちりちりと痛んだ。
用意されていた白い薄絹は、群青陛下がお召しのものとよく似ていた。触れてみると、こちらの昔話に出てくる天女の羽衣のように薄くて軽く、つややかな手触りがした。ユーリは尾鰭をつけてそれを羽織ると、ようやく水に入った。
以前は怖かった水が、不思議なほどに怖くない。以前やったとおり、鼻と口をつけてゆっくりと呼吸すると、自然と鰓が機能しはじめる。
女官たちに案内されて、ユーリはそのまま奥へ進んだ。後ろからロマンと黒鳶もついてくる。黒鳶は上半身裸だが、ロマンは側仕えの者がつける薄絹を羽織った姿だ。
(うわあ……すごいな)
水の中とはいえ、やっぱり御殿は御殿だった。紅く塗られた太い柱がずっと続く長い回廊。みなが水の中を泳ぎ回るためだからか、天井はずいぶん高い。それでも空気中と同じようにうつくしい甍が並び、海の植物による庭が設えられている。そのもとを尾鰭をつけた女官や男たちが優美な姿で泳ぎ回っていた。
なにもかも、目にしみるように美しい。
それはもしかしたら、ユーリ自身がこれを見納めと思っているからかもしれなかった。
《こちらです。陛下から、殿下おひとりでとうかがってございます》
水の中では声帯を使って言葉をやりとりするのが難しいので、みな耳の中に通信機をはめ込んでいる。音声はそこから聞こえて来た。こちらも同じものを着けている。以前、はじめて会ったときに玻璃が着けていたのと同じものだ。
言われた通りロマンと黒鳶を部屋の外に残して、ユーリは開かれた扉のなかに進んでいった。
陛下のお部屋は、さすがにご高齢の方らしく落ち着いた雰囲気だった。調度はすべて、水を通して入り込んでくる光の加減をじゅうぶんに加味した色合いでまとめられている。素材はなんだかわからなかったが、どうかするとゆらゆら、ちらちらと控えめに光る。一部は恐らく、螺鈿とよばれるものが使われているらしい。
部屋のいちばん奥に少し高くなった雛壇があり、その上に柔らかそうな滄海式の長椅子が据えられている。
群青陛下はそこにおられた。ほかには誰もいなかった。
いつ拝謁しても思うけれど、本当に神々しいまでの見事な白髪とお髭である。海の皇そのものといったお姿だ。
《おお。ユーリか》
こちらを見ると、陛下はもともと優しい瞳をさらに優しくして、ゆったりと両手を広げられ、ユーリをさし招いた。
《このような刻限に呼び立てて、まことにあいすまなかったな。……さあ、よければこちらへおいで》
《陛下……》
つい逡巡して俯いてしまったが、何度か優しい声音で誘われて、とうとうユーリは恐るおそるそちらに泳ぎ寄った。
泳ぎはやっぱり、下手くその極みである。よろよろと不格好に水をかくが、どうかするとすぐにくるりとあおむけになりそうになる。それでもどうにか陛下の足元の段下にたどりついて、改めて深々と頭を垂れた。
《ユ、ユーリ、参りましてございます……》
いや、それでは終わらなかった。頭を下げた拍子に尻が浮き上がって、非常に不格好なことになるのだ。慌ててわたわたしていたら、余計にどんどん変な姿勢になっていく。
群青陛下がくすくすとお笑いになったようだった。
《ほれほれ。そのようなつまらぬところではなく。遠慮などせぬがよい。さあさあ、余の隣へおいで。ここなら落ち着こうほどに》
《え、あの……。でも》
ユーリはもうへどもどし、目を白黒させている。
隣というのは、そのお椅子のお隣へということだろうか。
(群青陛下の……お隣へ?)
《いっ、いえ! いえいえいえ!》
そんなこと、とんでもない!
畏れ多すぎて、身が縮むなどというものではない。
まったくもって勘弁していただきたい。
《わ、わたくしはこちらで。どうか──》
《まあそう言わず。そのために、斯様に人払いをいたした。玻璃の配偶者となってくれたからには、そなたはもはや我が息子も同じ。だから、さあ、さあ……父のもとへおいで》
《お、畏れ多く……お許しを》
そこでちょっと陛下は黙った。じっとユーリを見つめて、やや悲しげな瞳になられたようだ。
《左様か。やはり、こんな爺いのそばなどつまらぬか》
《そっ、そそ、そういうことではなく! 全然なくっ……!》
両手を振り回してじたばたしすぎたせいで、ユーリはその場で今度こそ、体ごとぐるんと回ってしまった。水中なればこその大失態である。
(ひ、ひいっ……!)
余計にばたばたすればするほど、体のバランスが崩れてぐるぐる回るばかりで、さらに変な格好になっていく。真っ赤になって慌てていたら、大きな手がぐいと腕を掴んで引っ張ってきた。
気が付いたらもう、すとんと群青の隣に座らされていた。
《まあまあ、落ち着かれよ。すまぬな、急に呼び立てたゆえよなあ》
(ひいいいっ……!)
ユーリの脳は、完全に真っ白になった。
0
お気に入りに追加
104
あなたにおすすめの小説

新しい道を歩み始めた貴方へ
mahiro
BL
今から14年前、関係を秘密にしていた恋人が俺の存在を忘れた。
そのことにショックを受けたが、彼の家族や友人たちが集まりかけている中で、いつまでもその場に居座り続けるわけにはいかず去ることにした。
その後、恋人は訳あってその地を離れることとなり、俺のことを忘れたまま去って行った。
あれから恋人とは一度も会っておらず、月日が経っていた。
あるとき、いつものように仕事場に向かっているといきなり真上に明るい光が降ってきて……?
※沢山のお気に入り登録ありがとうございます。深く感謝申し上げます。
ハルとアキ
花町 シュガー
BL
『嗚呼、秘密よ。どうかもう少しだけ一緒に居させて……』
双子の兄、ハルの婚約者がどんな奴かを探るため、ハルのふりをして学園に入学するアキ。
しかし、その婚約者はとんでもない奴だった!?
「あんたにならハルをまかせてもいいかなって、そう思えたんだ。
だから、さよならが来るその時までは……偽りでいい。
〝俺〟を愛してーー
どうか気づいて。お願い、気づかないで」
----------------------------------------
【目次】
・本編(アキ編)〈俺様 × 訳あり〉
・各キャラクターの今後について
・中編(イロハ編)〈包容力 × 元気〉
・リクエスト編
・番外編
・中編(ハル編)〈ヤンデレ × ツンデレ〉
・番外編
----------------------------------------
*表紙絵:たまみたま様(@l0x0lm69) *
※ 笑いあり友情あり甘々ありの、切なめです。
※心理描写を大切に書いてます。
※イラスト・コメントお気軽にどうぞ♪

【完結】ぎゅって抱っこして
かずえ
BL
幼児教育学科の短大に通う村瀬一太。訳あって普通の高校に通えなかったため、働いて貯めたお金で二年間だけでもと大学に入学してみたが、学費と生活費を稼ぎつつ学校に通うのは、考えていたよりも厳しい……。
でも、頼れる者は誰もいない。
自分で頑張らなきゃ。
本気なら何でもできるはず。
でも、ある日、金持ちの坊っちゃんと心の中で呼んでいた松島晃に苦手なピアノの課題で助けてもらってから、どうにも自分の心がコントロールできなくなって……。

心からの愛してる
マツユキ
BL
転入生が来た事により一人になってしまった結良。仕事に追われる日々が続く中、ついに体力の限界で倒れてしまう。過労がたたり数日入院している間にリコールされてしまい、あろうことか仕事をしていなかったのは結良だと噂で学園中に広まってしまっていた。
全寮制男子校
嫌われから固定で溺愛目指して頑張ります
※話の内容は全てフィクションになります。現実世界ではありえない設定等ありますのでご了承ください

転生貧乏貴族は王子様のお気に入り!実はフリだったってわかったのでもう放してください!
音無野ウサギ
BL
ある日僕は前世を思い出した。下級貴族とはいえ王子様のお気に入りとして毎日楽しく過ごしてたのに。前世の記憶が僕のことを駄目だしする。わがまま駄目貴族だなんて気づきたくなかった。王子様が優しくしてくれてたのも実は裏があったなんて気づきたくなかった。品行方正になるぞって思ったのに!
え?王子様なんでそんなに優しくしてくるんですか?ちょっとパーソナルスペース!!
調子に乗ってた貧乏貴族の主人公が慎ましくても確実な幸せを手に入れようとジタバタするお話です。
サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。
トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる