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第九章 初夜
1 湯殿 ※
しおりを挟む玻璃はユーリの手を引いて、東宮の奥へと歩いていった。招待された客人たちのさんざめきがひと足ごとに背後へ遠のいていくと、周囲は不思議なほどに森閑とした空気が満ちていった。まるで足もとから静かな波があがってきて、音もなく満潮を迎えたように。
ふたりの後ろからは少し離れて、ロマンが影のように足音をひそめてついてきている。姿こそ見えないが、恐らく近くに黒鳶もいるはずだった。
平屋建ての滄海式の邸は、分かれた棟がいくつかの渡殿でつながっている。それぞれの棟に面して季節に応じた庭があしらわれ、草花や樹木や庭石などが絶妙な配置で設えられて美々しい景観をつくりだしていた。
その近景の向こうでは、ここが海底であることを思い出させる「空」が広がっている。時折り大きな海の生き物が、青空のむこうにひょいと姿を現しては、雲の狭間に消えていく。
玻璃に握られた手が熱い。いや、手だけではなかった。そこからどんどん広がってくる熱が、ユーリの首を、胸を、腰を炙った。いまの自分は、きっと紅梅よりも赤い顔をしているだろう。耳と首まで、きっと同じ色のはずだった。
ばくばくうるさい胸の音が、握られた手を通して玻璃に伝わってしまいはしないか。そのことばかりが気になった。
「……緊張しておられるか」
ふと立ち止まり、低い声に訊ねられて見上げると、いつもの鷹揚で優しい紫水晶の瞳が深い色を湛えてこちらを見ていた。
「は……はい。いえ……」
ユーリは玻璃の手をより強く握りしめて、ぎゅっと目をつぶった。
「まあ、まずは食事と入浴だな。そなた、朝からろくに食べておらぬだろう」
「そ、そうだったでしょうか」
「先ほどの膳部も、ほとんど手をおつけではなかった。すきっ腹にくいくいと酒ばかり召されるものだから、少し心配していたぞ。すでに足もとが怪しいしな」
「え……そうですか?」
「ほら。自覚すらおありにならない」
その通りだった。玻璃の腕がほんの少し引き寄せただけで、ユーリの足元は簡単にゆらいでしまった。そのまま玻璃の胸元に抱きしめられる。
「あ……」
体温が一気に跳ねあがる。
「晴れてこうして、そなたを抱ける身分になった。……嬉しいぞ」
耳元に囁かれて、心音もさらに跳ねあがった。軽く口づけを施され、そのまま軽々と抱き上げられてしまう。
「さ、参ろう。あらためて膳部を運ばせる」
「いえ。あの……しょ、食事は」
けっこうです、という声は、ユーリの意に反して蚊の鳴くようなレベルになってしまう。玻璃が「ん?」と耳を寄せてきただけで、またどくんと心臓がはねた。
「要らぬのか?」
「はい……」
「そうか」
「の、喉を通りそうにも……なくて」
「……ふむ」
玻璃はちょっと考える風に眉を寄せたが、思い直したように「ではそれは、あとでゆっくりと召し上がっていただくとしよう」と笑っただけだった。
「さすれば、このまま湯殿へ参ろう。男子の場合、なにかと事前の準備も必要だからな」
「え? あの……玻璃どの」
事前準備とはなんぞや。
ユーリの湯だった脳内で、謎の単語がくるくる回る。
「こちらでは側付きの者にさせるのが一般的ではあるのだが。俺はとりあえずそなたの体を、誰か他の者に触れさせるつもりはないゆえ。……まあ、百歩譲ってロマン殿だけにはなんとか許すが」
「……そ、そうですか」
言われて玻璃の肩ごしにちらりと後ろを見たら、案の定というべきか、ロマンが真っ赤な顔で唇を引き結び、視線を足もとに落として固まっていた。
「あ……の。玻璃どの」
ロマンには明らかに刺激がきつい。この少年も、もう「子供」と呼べるほどには幼くはないが、それでもこれは間違いなく「大人の会話」だった。少なくとも、ここで彼に聞かせるような話ではない。
目線だけでそう咎めたら、玻璃はくふふ、と喉奥で笑い、徐に後ろを見返った。
「ロマン殿。ここまでの随従、ご苦労だった。ここよりは、我らのみの時間とさせてもらいたい。そろそろ下がって頂けまいか?」
「えっ? で、でも」
ロマンが頬を赤くしたまま、素早くユーリの表情を探る目になる。ユーリの一番の側付きとしては、玻璃の言葉だけで主人のそばから引き下がるわけにはいかないのだろう。
ユーリはあまりの羞恥で体じゅうが爆発しそうになりつつも、どうにか笑顔を作って言った。
「ロマン。どうか玻璃殿のおっしゃる通りにしてくれ。私は大丈夫だから。ね?」
「は……はい」
と、今度は何もない空間に向かって玻璃が言った。
「黒鳶もだ。なにかあれば必ず呼ぶゆえ」
「は」
こちらはすぐさま、低い男の声による応えがあった。
「で……では。ユーリ様」
ロマンは一度深々と頭を下げると、心配そうにこちらを振り返り振り返りしながら廊下の向こうへとさがっていった。
◆
湯殿の前に到着すると、湯殿づきの女官や侍従たちが頭を垂れて出迎えてくれた。ここで衣服の着脱から体を洗うことまで、なにやかやと貴人の手伝いをすることがこの者たちの仕事なのだ。
が、玻璃は先ほどの宣言どおり、かれらにもユーリに触れさせるつもりはないらしい。あっさりと「しばし下がっておれ。必要があらば呼ぶ」とだけ申しつけてユーリと二人で脱衣所らしい部屋に入った。
こちら側からそっと覗いてみると、湯殿は先日連れて行かれた別邸のものによく似ているようだった。ただし、ずっと荘重で豪華な雰囲気だ。全体の広さも木造りの湯舟も、あのときの倍ほどはある。
玻璃は手慣れた様子で自分の衣を脱ぎ、隅の棚にぽいぽいと放りこむと、ユーリの衣装に手を掛けた。
「あっ。じ、自分で……いたしますゆえ」
「なんの。まだ不慣れでいらっしゃるだろう」
ユーリが必死に固辞しても無駄だった。玻璃は軽く笑っただけで、するするとユーリの帯を解き、錦の上衣を取り除いてしまった。
「そちらのお国の装束も、まばゆいばかりに美しいが。こちらの装束にはこういう愉しみもあるわけだ。今までご存知なかっただろう?」
「えっ? ……うひゃ!」
言葉と同時に玻璃の手が、下に穿く衣──ハカマとかいうらしい──の隙間から差し入れられて飛び上がる。基本的に平たい布を縫い合わせただけの衣のためか、脇のあちらこちらに隙間があるのだ。
その下の着物の上から、玻璃の手がそっとユーリの足の間のものに触れた。
「あ! ……ん、や……あ」
やわやわと触れられているだけで、ユーリの腰は簡単に揺れだした。
「ん……ん、あ、はり……どの」
そうするうち、着物の肩をするりと落とされ、肩と胸が露わになる。
さすがのユーリにでもわかった。
いま、自分がどれだけ煽情的な姿になっているかが。
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