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第八章 過去と未来と
6 白百合
しおりを挟む詰まった襟元が気になって、ユーリは先ほどからずっとそのあたりを弄っている。
控えの間に据えられた大きな姿見には、婚礼用の白い式服に身を包み、真っ白なマントを流した自分の姿が映し出されていた。
品がありながらも豪奢な織り地の式服は、どんなにきれいに髪をなでつけてみてもユーリに「着られて」はくれなかった。姿見の中の自分は、どこからどう見ても完全に衣装に負けている。
(ああ……本当に)
これから始まることを思うと、どうしても体が震えてくる。
アルネリオ宮で行われる式典は、飽くまでも国内向けの儀式に過ぎない。本番の婚礼は、あちら滄海の宮であらためて行われることが決まっていた。
ユーリの胸元、襟のフラワー・ホールに真っ白な百合の花をさしながら、ロマンがそっと見上げてくる。
「いよいよにございますね、殿下。どうか、あまり緊張なさいませんように」
「う、うん。わかってる」
そう言う声すら、すでに細かく震えている。王子を励ましているはずのロマンですら、上気した頬がこわばってうまく笑顔を作れていないようだ。緊張がまったく隠せていない。
百合の花言葉は「純潔」。そして「威厳」だ。
純潔のほうはともかく、自分にはあの方の配偶者となるべきふさわしい威厳が備わっているだろうか。
(いや。そんなわけ……ないよなあ)
ちらりとそんなことを考えるだけで、すぐにため息が漏れそうになる。
黒鳶は一連の大騒ぎには基本的に関わらず、さっきから部屋の隅で控えたまま、ロマンや侍従たちの仕事を見つめているだけである。
「大丈夫にございますよ。万が一何かあっても、これからはお隣に玻璃殿下がおられます。すぐにお助けくださいますでしょう」
「う、うん」
そこは大いに信用している。たとえユーリが何もないところでつまずいたとしても、あの大きな腕がすぐに隣から助けてくれるに違いなかった。
ユーリは鏡の中の自分を見て、一度目を閉じ、大きく深呼吸をした。
実はこの日を迎える数週間前、玻璃は一度だけこの王宮を訪ねてくれた。もちろん、父に正式に結婚の許諾を頂くためにだ。国同士のことでもあり、最初は書簡のみでのやりとりだったが、遂に玻璃が直接父と話をするために訪れてくれたのである。
その時にはもう、アルネリオの王侯貴族たちの意見はほぼ一致を見ていた。最初のうちあれこれと反対していた者たちの不満の声も、不思議と次第に小さくなっていったのだ。
いや、実は「不思議」でもなんでもなかったはずである。それは恐らく、玻璃側から裏であれこれと手を回し、貴族たちに対して大なり小なりの交渉があったためだろう。ユーリはそう見ていたし、父や兄たちもまったく同意見だった。
『いやはや。なかなかのやり手でいらっしゃるな、玻璃殿は』
『まあ、そうでなくては未来の海皇は務まるまいが』
『あのお年で、なにやら酸いも甘いも嚙み分けたような御仁よなあ』
『まったくだ。私とさして年も違わぬはずなのだがな』
兄たちのそんな言葉を聞いて、父は楽しげに笑ったものだった。
『そなたらの申す通りだとも。存分に見習うがよかろうぞ』
『はい、父上』
そんな感じで父や兄たちは苦笑しながらも感心し、玻璃を高く評価してくれたようだった。
海底皇国がそれぞれの貴族に対してどんな権益を約束したかは定かでない。しかしその後、帝国内から海底皇国へ行くことを希望する庶民の数は一気に増えた。難病や障害を抱えた者、老年の者や幼児たちばかりではない。中には貧しくて食い詰めた農家の三男坊や四男坊といった者も多いと聞く。
滄海は彼らのことも両手を広げて迎える用意があるのだという。これまでは貧しさのために学ぶ機会がなかった彼らに、読み書きや計算など基礎的な学問を授け、移住を希望する者は受け入れていくそうだ。移住を希望した者には、さらなる高等教育を受ける権利が与えられる。
海底皇国では、すでにAI技術によって多くの仕事が肩代わりされている。特に単純作業はほとんどAIの担当分野になっている。
人間はそのAIを動かしたり、より高次のシステムに進化させるための研究や、対人間の重要な仕事を受け持つことが多いようだ。教育や保育、看護や介護、医療や心理カウンセラーといった職種には、人間が担当するものが多いそうである。そうしてそのためにはもちろん、非常に高い教育を受けている必要があるのだった。
ユーリにはまだ詳しいことはわからないが、思考と発想、対人コミュニケーション技術や読解力、さらに高い科学技術に関する理解に特化した教育であるらしい。少なくとも、現在アルネリオ帝国で行われているような単純な記憶や計算といった学問よりももっと進んだものであることは間違いない。
問題の婚姻に関しては、移民たちがあちらの人々とそうするかどうかはまったく個人の自由意思に任されている。けれども、やがてはそうなっていくだろうとユーリは見ている。階級制度が相当に取り払われ、全体に差別的な意識が薄く、個人の努力には正当に、かつ大いに報いてくれる国。
こちらの国では身分の低かった者が多い彼らにとって、海底皇国滄海こそは、まさに新天地に思えるはずだった。
いやもちろん、玻璃は「まだまだ完璧にはほど遠い」と謙虚にお笑いになるだけなのだったが。
(やっぱり、すごいな……。玻璃殿は)
先日アルネリオ宮を訪れた玻璃を、初対面ではない兄たちは至ってなごやかに迎えてくれた。父も最初こそ緊張した面持ちだったが、ひと目玻璃を見た途端、「ああ」とばかりに安堵したのがはっきりとわかった。そしてその後は、ごく親しげに彼と言葉を交わし、食事を共にしてくれた。
その後玻璃は、父や臣下の貴族たちが心配している移民の数の制限や待遇などの細かな点について、御前会議の面々も交えてじっくりと話し合ってくれたようである。そうして概ね、彼らの賛意を得たようだ。
その後、取り決めは細かく書面に起こされ、互いの国の印璽を捺されて承認された。
後日、父はこっそりとユーリに語ってくれた。
『なかなかに立派な御仁だったな。高潔な人品骨柄、そしてひろやかで豊かなご仁徳。なによりも、あの押し出しと見事な政治手腕。いずれをとっても申し分なし。あれなら私も、安心してお前を任せられよう。よき人の好意を得たな、ユーリ』と。
感極まって、ユーリは危うく涙するところだった。
『ありがとうございます、父上……!』
父の人柄を見抜く目が優れていることは、ユーリもよく知っている。だからとても嬉しく思った。最初のうちこそ激怒した父だったけれども、玻璃は晴れて、そのお眼鏡にかなったのだ。これ以上の喜びはなかった。
「さあ、殿下。そろそろ刻限です。参りましょう」
「う、……うん」
ロマンが緊張を隠しながら促す言葉に、ユーリはぎこちなく微笑み返した。そうしてゆっくりと扉に向かった。
ロマンや黒鳶、そのほかの侍従たちを引き連れて大廊下を行く。
そうして父と兄たち、そして宮廷内の貴族たちが居並ぶ大広間へと、まっすぐに歩いて行った。
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