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第八章 過去と未来と
5 兄の心
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あまりのことに、瑠璃はまた言葉を失った。
覚えがないわけではなかったが、当時はそこまで知恵が回ったわけでもなければ、精神的に大人びていたわけでもなかった。ただなんとなく寂しいと、つらいと思っていただけだ。兄から自分に与えられていたはずのものが、あの女性のために大きく損なわれたことは感じていたから。
「だから今回のことでも、皆はあれこれと心配している。本来であれば、俺とてお前に頼みたいところだった。故国を離れて寂しい思いをしているだろうユーリを、王の子という似た立場の者として励まし、力づけてやってくれ、とな。だが、今のお前にそれを頼むのはよいことではないと、皆は心配しているわけだ」
「…………」
「むしろ『決して近づけるな』と、声を大にして主張する臣下さえいる。……この意味がわかるか?」
それは、つまり。
臣下らは恐れているということか。自分があの青年に、不埒な手出しをすまいかと。
それも、単にぐちぐちと口や態度で虐めるような程度のことではなく。最悪、かの青年に毒でも盛るなどして、命を狙うのではないのかと……?
本人はあんな風でも、ユーリは痩せても枯れても帝国アルネリオの王子だ。能力はさほどではないながら、皇帝エラストは彼を大変可愛がっていると聞く。
万が一にも瑠璃皇子が、愚かで不穏な動機をもってユーリを害するようなことあらば、せっかく端緒についたばかりの両国の友好関係は一気に崩れることにもなろう。そうすれば、この婚儀に懸けて来たわが国の希望も瞬時に断たれることになる。互いの民の交流や婚姻が、無に帰することになってしまう。そうなってはまずいのだ。
(そんなこと──)
「自分がするはずがない」と言いかけて、瑠璃はぐっと言葉を飲んだ。
つい先ほど、自分は考えてしまったではないか。
「あんな奴、どうかして死んでしまえばいいのに」と。ちらりとでもあんな風に思ってしまった自分が、この兄から信頼されるはずがあるだろうか……?
暗い顔になってしまった弟を、玻璃はしばらく隣からじっと見つめる様子だった。が、やがてひとつ頭をさげて「すまぬ」と言った。
「え、兄上……」
瑠璃はどぎまぎしてしまう。なぜ自分が、兄に謝られることがあるのだろうか。
「まったくもって、勝手な話だとは思う。もとはと言えばこれはみな、俺の我欲から出たことだからな」
「我欲……ですか?」
「そうだ。お前に対しても、ユーリ殿に対してもだ」
やっぱりごく優しい声ではあったが、兄は心から申し訳なさそうだった。
「特にユーリ殿には、此度のことはさぞやいい迷惑だったであろう」
「え?」
「そうであろうが」
言って兄は、珍しく自嘲するように苦笑した。
「かの王子殿下が海に転落なさった日。あの時、俺は確かに彼を助けた。だが、彼が意識を取り戻す前に、黙って去ることもできたのだ。それを、わざわざ彼にこの顔を晒し、剰え一方的な好意を抱いた。そしてしまいに、『我が伴侶になってくれ』とまで強引に迫ったわけだ──」
「…………」
瑠璃は目を瞬かせた。
そうだったのか。実は自分は、その時の顛末を詳しく知らない。海に落ちたあの王子を兄が助け、そこで恋に落ちたのだという以外のことは。
だから、瑠璃はこれまで勝手に決めつけているところがあった。つまり、あの王子が兄にあれこれと色目でも使って、するりと懐に入り込んだのではないかと。
だが、事実はそうではなかったらしい。
「彼に身分があるのをいいことに、結局はこうして国同士の問題に巻き込んだ。要は、彼の肩にかかる責務を、大いに増やしてしまったということだ。あまりストレスに強いタイプの方でないということは知っていたにも係わらずな。……それも、すべて俺と俺の国の、身勝手な事情と希求のゆえにだ」
「…………」
「言ってみればかの王子は、俺の欲に巻き込まれただけのお方だ。あのとき俺に会いさえしていなければ、今も何もご存知なく、アルネリオの一王子として、平穏に暮らしておられたはずなのだ」
「…………」
「俺が『欲しい』と言い、こちらの国の問題を解決するため、あの方にご協力を仰いだ。あの方のお優しさに付けこんだのだと言ってもいい。いや、間違いなくそうだと思う」
「左様なことは──」
言いかける瑠璃に、玻璃はゆっくりと首を振って見せた。
「こちらの国の困窮と、あちらの国の庶民の貧窮を教えれば、決して断られることはないと踏んでのことでもあった。それは事実だ。それを『優しさに付けこんだ』と言わずしてなんと言おう。……あの方は、決してそのようなことはおっしゃるまいが」
それゆえ、と言って、兄はまたじっと瑠璃の瞳を覗き込んだ。
「俺は、ユーリを裏切ることは決してしない。あの方の人生を大いに狂わせた張本人として。あの方ご自身が俺に飽きたとか、もう愛せぬとかおっしゃるならば話は別だがな。その場合は決してあの方を引き留めず、故国に戻っていただく所存だ」
「…………」
「だが、少なくとも俺からは、決してあの方を不必要に苦しめたり、泣かせたりはせぬつもりだ。……そこは、お前にも分かっていてもらいたい」
「兄上……」
それは、つまり。
たとえどんなことがあろうとも、兄がユーリ王子以外の者を閨に引き入れたりはせぬということだろう。
この海底皇国では、一応は一夫一婦制が敷かれている。同性同士の場合ももちろん、一人は一人と番うことになっている。
が、もちろん内情は様々だ。表向きはどうあれ、実際は他の者にこっそりと体を許すといった真似をする者がいないわけではない。もちろん瑠璃自身は、唾棄すべき行為だと思っているが。
だが、この兄に関してだけは、瑠璃もそういう「不貞」をつい願ってしまう。
つまり、ユーリを配偶者として迎えても、一方で自分を……という願いを。
そのことを、兄はやんわりと戒めようとしているわけだ。
「では……。どうしても?」
掠れる声でそう訊いたら、兄はゆっくりと、だがしっかりと頷いた。
「すまぬ。瑠璃」
だが、決して「許せよ」とはおっしゃらない。
「そんなに……あの王子が、お好きですか」
瑠璃の声は、どんなに抑えようとしても震えてしまった。
玻璃は答えなかった。だがその代わり、ただ黙って、ふっとその瞳の力を緩ませた。
◆
皇太子、玻璃殿下が大股にその部屋を去っていくのを、黒ずくめの男はいつものように空気の中に姿を忍ばせて見送った。
そうしていつもするように、部屋の中に残ったお方の護衛に戻ろうとした。
が、男はそこでぴたりと止まった。
中からその方の押し殺した嗚咽が漏れ聞こえていた。
男は物音を立てずに、ほんのわずかに戸を開いて中を隙見した。
殿下は椅子の上に両膝を持ち上げて座り込み、両手で顔を覆って背中を丸めているようだった。
その両手の指の間から、なにかがぽとぽとと垂れ落ちている。
必死でこらえようとすればするほど、彼の形のよい唇の間からせつない声が漏れ出てしまっているようだった。
男は、普段ほとんど感情の乗らない黒い瞳をほんのわずかに揺らした。敵が見れば恐れおののくことのほうが圧倒的に多い、冷徹そのものの三白眼である。
だが今の男のそれは、まるで主人をなくした飼い犬のように、途方に暮れた色を乗せていた。
覚えがないわけではなかったが、当時はそこまで知恵が回ったわけでもなければ、精神的に大人びていたわけでもなかった。ただなんとなく寂しいと、つらいと思っていただけだ。兄から自分に与えられていたはずのものが、あの女性のために大きく損なわれたことは感じていたから。
「だから今回のことでも、皆はあれこれと心配している。本来であれば、俺とてお前に頼みたいところだった。故国を離れて寂しい思いをしているだろうユーリを、王の子という似た立場の者として励まし、力づけてやってくれ、とな。だが、今のお前にそれを頼むのはよいことではないと、皆は心配しているわけだ」
「…………」
「むしろ『決して近づけるな』と、声を大にして主張する臣下さえいる。……この意味がわかるか?」
それは、つまり。
臣下らは恐れているということか。自分があの青年に、不埒な手出しをすまいかと。
それも、単にぐちぐちと口や態度で虐めるような程度のことではなく。最悪、かの青年に毒でも盛るなどして、命を狙うのではないのかと……?
本人はあんな風でも、ユーリは痩せても枯れても帝国アルネリオの王子だ。能力はさほどではないながら、皇帝エラストは彼を大変可愛がっていると聞く。
万が一にも瑠璃皇子が、愚かで不穏な動機をもってユーリを害するようなことあらば、せっかく端緒についたばかりの両国の友好関係は一気に崩れることにもなろう。そうすれば、この婚儀に懸けて来たわが国の希望も瞬時に断たれることになる。互いの民の交流や婚姻が、無に帰することになってしまう。そうなってはまずいのだ。
(そんなこと──)
「自分がするはずがない」と言いかけて、瑠璃はぐっと言葉を飲んだ。
つい先ほど、自分は考えてしまったではないか。
「あんな奴、どうかして死んでしまえばいいのに」と。ちらりとでもあんな風に思ってしまった自分が、この兄から信頼されるはずがあるだろうか……?
暗い顔になってしまった弟を、玻璃はしばらく隣からじっと見つめる様子だった。が、やがてひとつ頭をさげて「すまぬ」と言った。
「え、兄上……」
瑠璃はどぎまぎしてしまう。なぜ自分が、兄に謝られることがあるのだろうか。
「まったくもって、勝手な話だとは思う。もとはと言えばこれはみな、俺の我欲から出たことだからな」
「我欲……ですか?」
「そうだ。お前に対しても、ユーリ殿に対してもだ」
やっぱりごく優しい声ではあったが、兄は心から申し訳なさそうだった。
「特にユーリ殿には、此度のことはさぞやいい迷惑だったであろう」
「え?」
「そうであろうが」
言って兄は、珍しく自嘲するように苦笑した。
「かの王子殿下が海に転落なさった日。あの時、俺は確かに彼を助けた。だが、彼が意識を取り戻す前に、黙って去ることもできたのだ。それを、わざわざ彼にこの顔を晒し、剰え一方的な好意を抱いた。そしてしまいに、『我が伴侶になってくれ』とまで強引に迫ったわけだ──」
「…………」
瑠璃は目を瞬かせた。
そうだったのか。実は自分は、その時の顛末を詳しく知らない。海に落ちたあの王子を兄が助け、そこで恋に落ちたのだという以外のことは。
だから、瑠璃はこれまで勝手に決めつけているところがあった。つまり、あの王子が兄にあれこれと色目でも使って、するりと懐に入り込んだのではないかと。
だが、事実はそうではなかったらしい。
「彼に身分があるのをいいことに、結局はこうして国同士の問題に巻き込んだ。要は、彼の肩にかかる責務を、大いに増やしてしまったということだ。あまりストレスに強いタイプの方でないということは知っていたにも係わらずな。……それも、すべて俺と俺の国の、身勝手な事情と希求のゆえにだ」
「…………」
「言ってみればかの王子は、俺の欲に巻き込まれただけのお方だ。あのとき俺に会いさえしていなければ、今も何もご存知なく、アルネリオの一王子として、平穏に暮らしておられたはずなのだ」
「…………」
「俺が『欲しい』と言い、こちらの国の問題を解決するため、あの方にご協力を仰いだ。あの方のお優しさに付けこんだのだと言ってもいい。いや、間違いなくそうだと思う」
「左様なことは──」
言いかける瑠璃に、玻璃はゆっくりと首を振って見せた。
「こちらの国の困窮と、あちらの国の庶民の貧窮を教えれば、決して断られることはないと踏んでのことでもあった。それは事実だ。それを『優しさに付けこんだ』と言わずしてなんと言おう。……あの方は、決してそのようなことはおっしゃるまいが」
それゆえ、と言って、兄はまたじっと瑠璃の瞳を覗き込んだ。
「俺は、ユーリを裏切ることは決してしない。あの方の人生を大いに狂わせた張本人として。あの方ご自身が俺に飽きたとか、もう愛せぬとかおっしゃるならば話は別だがな。その場合は決してあの方を引き留めず、故国に戻っていただく所存だ」
「…………」
「だが、少なくとも俺からは、決してあの方を不必要に苦しめたり、泣かせたりはせぬつもりだ。……そこは、お前にも分かっていてもらいたい」
「兄上……」
それは、つまり。
たとえどんなことがあろうとも、兄がユーリ王子以外の者を閨に引き入れたりはせぬということだろう。
この海底皇国では、一応は一夫一婦制が敷かれている。同性同士の場合ももちろん、一人は一人と番うことになっている。
が、もちろん内情は様々だ。表向きはどうあれ、実際は他の者にこっそりと体を許すといった真似をする者がいないわけではない。もちろん瑠璃自身は、唾棄すべき行為だと思っているが。
だが、この兄に関してだけは、瑠璃もそういう「不貞」をつい願ってしまう。
つまり、ユーリを配偶者として迎えても、一方で自分を……という願いを。
そのことを、兄はやんわりと戒めようとしているわけだ。
「では……。どうしても?」
掠れる声でそう訊いたら、兄はゆっくりと、だがしっかりと頷いた。
「すまぬ。瑠璃」
だが、決して「許せよ」とはおっしゃらない。
「そんなに……あの王子が、お好きですか」
瑠璃の声は、どんなに抑えようとしても震えてしまった。
玻璃は答えなかった。だがその代わり、ただ黙って、ふっとその瞳の力を緩ませた。
◆
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そうしていつもするように、部屋の中に残ったお方の護衛に戻ろうとした。
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殿下は椅子の上に両膝を持ち上げて座り込み、両手で顔を覆って背中を丸めているようだった。
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男は、普段ほとんど感情の乗らない黒い瞳をほんのわずかに揺らした。敵が見れば恐れおののくことのほうが圧倒的に多い、冷徹そのものの三白眼である。
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