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第八章 過去と未来と
4 疑心暗鬼
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「で? 人払いまでしてしたい話というのはなんだ」
卓上に置かれていた茶器から茶を注いで瑠璃に勧めながら、玻璃兄がゆったりとした声で訊いた。瑠璃はそれを片手でさりげなく辞しながら、長い着物の袖の下で、一度ぎゅっと拳をにぎった。
「……兄上。取りやめていただくわけには参りませぬか」
「取りやめる? なにをだ」
「ですから……。この、婚儀を」
途端、兄がぐっと瑠璃の顔を凝視した。瑠璃はさらに緊張した。
「何を言い出すかと思えば、左様なことか」
「はい。左様なことです」
「だが、それは聞けぬ。この婚儀は、すでに二国間で取り決めた約定だ。いわば、もはや公的行事。いまさら翻すことなどできぬ。すでに国費も費やされ、準備も着々と進んでいるしな」
「それはわかっております。ですから敢えて申し上げているのです」
「埒もない──」
兄はふいと顔をそむけると、椅子から立ち上がった。ゆるりとした足取りで、板張りの縁のほうへ向かう。そこからは美しい庭が見渡せる。瑠璃は兄の後を追った。
「無茶なことを申し上げているのは、百も承知です。……でも、私は」
どうしても語尾が震えた。
玻璃は穏やかな目をしたまま、そっとこちらを振り向いて見下ろしている。
「私は……いや、なのです」
やっぱり玻璃は黙っていた。
瑠璃は、兄の袖の端をそっと指先で握りこんだ。
「だって……あの王子は、男です。お相手が男子でもいいなら、どうして……どうして」
つづく「私ではだめなのですか」という言葉は、口の中でもごもごと渦巻くだけで、兄には聞こえなかったかもしれなかった。だが玻璃は、はっきりと理解している様子だった。
「私だって……わたし、だって」
──兄上を、愛しているのに。
こんなにも……愛しているのに。
思った言葉は口からではなく、別のものになって両目から溢れだした。
兄はやっぱり、黙ってそんな弟の顔を見つめているだけだ。が、やがて兄の大きな手が、その袖をつかんでいる瑠璃の手をそっと放させた。
途端、瑠璃はぱっと兄の前に回って、思いきりその体に抱きついた。
「では……! では、私も」
兄は驚いた目をしたが、瑠璃を突き飛ばしたりはしなかった。しかし、抱きしめてくれるわけでもなかった。兄の両手は体の脇に下ろされたまま、拳の形に握られている。
「私も、兄上のものにしてくださいませ。別に、子などは要りませぬ。側室の立場なども、なんにも要りませぬゆえ……!」
「ならぬ」
兄の返事は簡潔だった。
決して冷たくはなかったが、それでも毅然とした声だった。
「なぜですっ。なぜ、わたくしではダメなのですかっ……!」
瑠璃の声はみっともなくひび割れて、部屋中に轟いた。
「瑠璃」
じっとこちらを見下ろした兄の目は、少し困ったようではあったが、やっぱり温かみのあるものだった。
「心を落ち着けて聞いて欲しいのだが。……いまのお前に、それはできるか」
瑠璃は一瞬、ぐっと言葉を飲み込んだ。
それから、零れ続けていた涙をぬぐい、兄の視線をまっすぐに受け止めてゆっくりと言った。
「もちろんですとも」
兄は頷くと、瑠璃の手を取って部屋に戻った。まるで、小さな子供の手を引くようだった。
部屋の隅の方に置かれた長椅子に瑠璃を座らせ、その隣に座ってくれる。
「瑠璃。俺はお前を愛している。これは本当だ。どうか疑わないで欲しいと思う」
「では」
「ただし」
顔を上げて言いかけた瑠璃に、玻璃はゆっくりと首を振って見せた。
「飽くまでも俺の弟としてだ。……これは分かるか」
「…………」
瑠璃は膝の上で両の拳を握りしめた。
今から始まる話のほとんどを、多分もう瑠璃はその時点でわかっていた。
「俺とお前が番うても、無駄に不幸な子を産むことになるだけやも知れぬ。もちろん結果はわからぬが、大きなリスクがあることはすでに明らかになっているからな。だが、そういう懸念があるのが事実でも、それとこれとは別の話だ」
「…………」
「俺はお前を、可愛い弟として以外の目では見られぬ。是非とも幸せにはなって欲しいが、それは自分の番として、この手で幸せにするという意味ではないのだ。……どうか、それをわかって欲しい」
膝の上の両手が、止めようとしてもどうしてもぶるぶると震えだした。
瑠璃はうつむいたまま、ただ兄の言葉を聞くしかなかった。だが、決して顎は引かなかった。
ただただ、体の芯が冷たい。体全部がどんどん冷たく硬く凝って、底知れぬ場所へ沈んでいくような感覚があった。目は硝子の玉になり、体は冷たい石に変わった。
まるで深い海の水を通したように、兄の声が非常に遠くから耳に届いているような感じがあった。
「実はな。お前のことでは臣下の皆も、あれこれと心配している」
「え……」
「お前があまりに、俺に執心しているということをな。そのゆえに、ユーリ王子を憎んでいるということも。皆がそれに、気づいていないと思っていたか?」
「…………」
瑠璃は何も言えずに膝頭を見ているしかできない。
「此度のユーリ殿との婚儀のことでも、お前の立場をどうするのかということをわざわざ伺いにくる者すらいる有り様だ」
「私の……立場?」
どういうことか分からずに、瑠璃はのろのろと顔を上げた。
すると、兄の美しい紫色の宝石みたいな瞳が、至極誠実な色を浮かべて自分を見ていることに気が付いた。瑠璃が大好きな兄の瞳だ。兄のこの澄んだ瞳にかつて、虚飾や利己心やねたみやそねみといった、濁った色が浮かびあがったことはない。
そういう兄だから、瑠璃はこの人が大好きだった。
ずっとずっと尊敬し、憧れて、あこがれて。
追いかけても追いかけても、届かなくて。
……それがやがて、もっと違う想いになった。
兄は少しばかり逡巡していたようだったが、遂にまた口を開いた。
「かつて、俺が深縹と添うたとき、お前はまだ子供だった。だが、それでも疑義をさしはさむ者はいた」
「疑義……?」
「つまり。お前が、あまりに俺を慕いすぎると。ゆえに、深縹を憎んでいるのではないのか、……とな」
「そんな──」
あまりのことに、瑠璃はまた言葉を失った。
卓上に置かれていた茶器から茶を注いで瑠璃に勧めながら、玻璃兄がゆったりとした声で訊いた。瑠璃はそれを片手でさりげなく辞しながら、長い着物の袖の下で、一度ぎゅっと拳をにぎった。
「……兄上。取りやめていただくわけには参りませぬか」
「取りやめる? なにをだ」
「ですから……。この、婚儀を」
途端、兄がぐっと瑠璃の顔を凝視した。瑠璃はさらに緊張した。
「何を言い出すかと思えば、左様なことか」
「はい。左様なことです」
「だが、それは聞けぬ。この婚儀は、すでに二国間で取り決めた約定だ。いわば、もはや公的行事。いまさら翻すことなどできぬ。すでに国費も費やされ、準備も着々と進んでいるしな」
「それはわかっております。ですから敢えて申し上げているのです」
「埒もない──」
兄はふいと顔をそむけると、椅子から立ち上がった。ゆるりとした足取りで、板張りの縁のほうへ向かう。そこからは美しい庭が見渡せる。瑠璃は兄の後を追った。
「無茶なことを申し上げているのは、百も承知です。……でも、私は」
どうしても語尾が震えた。
玻璃は穏やかな目をしたまま、そっとこちらを振り向いて見下ろしている。
「私は……いや、なのです」
やっぱり玻璃は黙っていた。
瑠璃は、兄の袖の端をそっと指先で握りこんだ。
「だって……あの王子は、男です。お相手が男子でもいいなら、どうして……どうして」
つづく「私ではだめなのですか」という言葉は、口の中でもごもごと渦巻くだけで、兄には聞こえなかったかもしれなかった。だが玻璃は、はっきりと理解している様子だった。
「私だって……わたし、だって」
──兄上を、愛しているのに。
こんなにも……愛しているのに。
思った言葉は口からではなく、別のものになって両目から溢れだした。
兄はやっぱり、黙ってそんな弟の顔を見つめているだけだ。が、やがて兄の大きな手が、その袖をつかんでいる瑠璃の手をそっと放させた。
途端、瑠璃はぱっと兄の前に回って、思いきりその体に抱きついた。
「では……! では、私も」
兄は驚いた目をしたが、瑠璃を突き飛ばしたりはしなかった。しかし、抱きしめてくれるわけでもなかった。兄の両手は体の脇に下ろされたまま、拳の形に握られている。
「私も、兄上のものにしてくださいませ。別に、子などは要りませぬ。側室の立場なども、なんにも要りませぬゆえ……!」
「ならぬ」
兄の返事は簡潔だった。
決して冷たくはなかったが、それでも毅然とした声だった。
「なぜですっ。なぜ、わたくしではダメなのですかっ……!」
瑠璃の声はみっともなくひび割れて、部屋中に轟いた。
「瑠璃」
じっとこちらを見下ろした兄の目は、少し困ったようではあったが、やっぱり温かみのあるものだった。
「心を落ち着けて聞いて欲しいのだが。……いまのお前に、それはできるか」
瑠璃は一瞬、ぐっと言葉を飲み込んだ。
それから、零れ続けていた涙をぬぐい、兄の視線をまっすぐに受け止めてゆっくりと言った。
「もちろんですとも」
兄は頷くと、瑠璃の手を取って部屋に戻った。まるで、小さな子供の手を引くようだった。
部屋の隅の方に置かれた長椅子に瑠璃を座らせ、その隣に座ってくれる。
「瑠璃。俺はお前を愛している。これは本当だ。どうか疑わないで欲しいと思う」
「では」
「ただし」
顔を上げて言いかけた瑠璃に、玻璃はゆっくりと首を振って見せた。
「飽くまでも俺の弟としてだ。……これは分かるか」
「…………」
瑠璃は膝の上で両の拳を握りしめた。
今から始まる話のほとんどを、多分もう瑠璃はその時点でわかっていた。
「俺とお前が番うても、無駄に不幸な子を産むことになるだけやも知れぬ。もちろん結果はわからぬが、大きなリスクがあることはすでに明らかになっているからな。だが、そういう懸念があるのが事実でも、それとこれとは別の話だ」
「…………」
「俺はお前を、可愛い弟として以外の目では見られぬ。是非とも幸せにはなって欲しいが、それは自分の番として、この手で幸せにするという意味ではないのだ。……どうか、それをわかって欲しい」
膝の上の両手が、止めようとしてもどうしてもぶるぶると震えだした。
瑠璃はうつむいたまま、ただ兄の言葉を聞くしかなかった。だが、決して顎は引かなかった。
ただただ、体の芯が冷たい。体全部がどんどん冷たく硬く凝って、底知れぬ場所へ沈んでいくような感覚があった。目は硝子の玉になり、体は冷たい石に変わった。
まるで深い海の水を通したように、兄の声が非常に遠くから耳に届いているような感じがあった。
「実はな。お前のことでは臣下の皆も、あれこれと心配している」
「え……」
「お前があまりに、俺に執心しているということをな。そのゆえに、ユーリ王子を憎んでいるということも。皆がそれに、気づいていないと思っていたか?」
「…………」
瑠璃は何も言えずに膝頭を見ているしかできない。
「此度のユーリ殿との婚儀のことでも、お前の立場をどうするのかということをわざわざ伺いにくる者すらいる有り様だ」
「私の……立場?」
どういうことか分からずに、瑠璃はのろのろと顔を上げた。
すると、兄の美しい紫色の宝石みたいな瞳が、至極誠実な色を浮かべて自分を見ていることに気が付いた。瑠璃が大好きな兄の瞳だ。兄のこの澄んだ瞳にかつて、虚飾や利己心やねたみやそねみといった、濁った色が浮かびあがったことはない。
そういう兄だから、瑠璃はこの人が大好きだった。
ずっとずっと尊敬し、憧れて、あこがれて。
追いかけても追いかけても、届かなくて。
……それがやがて、もっと違う想いになった。
兄は少しばかり逡巡していたようだったが、遂にまた口を開いた。
「かつて、俺が深縹と添うたとき、お前はまだ子供だった。だが、それでも疑義をさしはさむ者はいた」
「疑義……?」
「つまり。お前が、あまりに俺を慕いすぎると。ゆえに、深縹を憎んでいるのではないのか、……とな」
「そんな──」
あまりのことに、瑠璃はまた言葉を失った。
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