ルサルカ・プリンツ~人魚皇子は陸(おか)の王子に恋をする~

るなかふぇ

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第七章 変わりゆく帝国

5 トリフォノフ伯爵

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 アルネリオの帝都、クラスグレーブから早馬がきたのは、その夜遅くなってからのことだった。

 アルネリオ南部に広大な領地を持つ大貴族、トリフォノフ伯爵のやしきである。北と東は他の貴族の領地だが、西側にはアルネリオ傘下の小国のひとつ、ドリアステが存在する。南は海だ。
 かつてはあれこれと国境でいざこざも多かったらしいのだが、今はドリアステの宗主も年老いて、軍事的な圧力を加えてくることはない。そもそもアルネリオは、そんな小国が刃向かって勝てる相手ではあり得なかった。
 ベルトの上にでっぷりと乗った腹の肉をゆらしながら、トリフォノフは老執事の置いて行った書面を面倒臭そうにつまみあげた。銀の盆に載せられたそれが、さっきからどうにも嫌な感じを放散していたからである。
 磨き上げられた盆の表面に、つるりと禿げあがった自身の頭頂部が映り込んで、トリフォノフは顔をしかめた。
 どうも我が家出入りのあの薬屋の「ただいま庶民に大人気」だの「いま一番のおすすめ」だのいうお題目は胡散臭うさんくさい。

『この薬をおつむりにひと塗りなさいますれば、くろぐろとしたおぐしがあれよあれよと生え出てまいりまするぞ』──などと。

「ふん。下賤の者どもが愛用する育毛剤など、信用するのではなかったわ」

 たくさんのひだが折りたたまれた襟もとのレース飾りや、金のボタンや金糸銀糸の刺繍に彩られた豪華な衣装でどんなに飾り立ててみたところで、中身がでぶでぶと太った禿げの中年男であることは変わらないものだ。だがまあせめて、髪ぐらいは若々しかったあの頃に戻ってみたいものではないか。
 そう思って、ついまた無駄な金を使ってしまった。
 次にあの薬屋がこの屋敷にやってきたら、どんな「お仕置き」をしてやろうか。
 トリフォノフはぶふうと太い鼻息を吹き出すと、頬肉をぷるぷる震わせた。
 笑ったのだ。
 そうしてあらためて、つまんでいる書面に目を戻した。

(さてさて。此度こたびはいったい何をおぼし召されたことやら)

 これまで、帝都におられる皇帝ツァーリエラストが地方行政に細かく口を出すことは決して多くなかった。特にこの領地の当主には、西の小国ドリアステに目を光らせるという大きな任務が存在する。領地の内政については基本的に、トリフォノフに一任されてしかるべきだった。
 だからいまさら、なんであれ、あれこれと文句をつけられる筋合いはない。自分はこの領地から十分な税をしぼり取り、皇帝が要求するものを十分に献上する。それさえこなしていれば、領地内でなにをしようが自由であるはずだった。
 しかし。

「むう……?」
 書状を開いてみて、トリフォノフの顔色は変わった。
「な、なんだ……? これは」
 豪奢な織り地のソファから急いで立ち上がったつもりだったが、腹や尻の肉が邪魔をして、どすんと一度尻もちをついてしまう。
 それでも書状を片手に握って、どうにかよたよたと立ち上がった。
「た、たれかある! 誰かおらぬか、おい!」

 そう叫んだ時だった。
 先ほど書状を運んできた老齢の執事が、慌てた様子でやってきた。黒い執事服をまとった痩せた体をきしりと折って、トリフォノフに一礼する。

「旦那様。ご来賓にございます」
「来客だと? こんな夜分に、どういうことだ」
「は。それが……」

 真っ白の髪と髭をした枯れ木のような体躯の老執事は、完全に困った顔だ。
 だが、やっと来賓の名前を告げられて、トリフォノフも執事とまったく同じ顔になるほかはなかった。

(な、なんだと……!?)

 思わず手にした書状を見つめる。
 まさか。
 この書状が届いたのを見計らってから来たというのではあるまいな──。





「トリフォノフめ。斯様かように殿下をお待たせして、いったい何をやっているのか……!」
「まあまあ。落ち着いてくれ、ロマン」
「そうは申されますが──」

 そのころの、トリフォノフの邸の応接室。
 臣下の少年とそんな会話を交わしながら、突然の来訪者は豪奢なソファに座っていた。

 部屋の中には、これでもかとばかりにきらびやかな美しい調度が並んでいる。壁には歴代の伯爵家の当主や、その家族の肖像画。ひとつひとつが相当に高価だろうと思われる燭台やテーブル、ソファ、飾り棚。
 あまりに豪華さを意識しすぎているからなのか、どうも全体にごてごてとの感が否めない。もはや毒々しいと言ってもいいような塩梅だった。

 現在のアルネリオの王宮は、比較的趣味のいい父エラストの好みで仕上げられている。長年それに馴染んできたためか、ユーリの目にはこの部屋の趣味は相当品がないように感じられた。
 が、まあ結局は他人ひとの家のことだ。あまり考えないようにしようと思い、ユーリはソファに座り直した。
 そばにはいつものように、ロマンと黒鳶が控えている。
 いつまでもユーリを出迎えに来ないトリフォノフに苛立って、ロマンはすっかりおかんむりである。

「ほかならぬ帝国の第三王子殿下がわざわざお運びだというのに! これは帝国に対する重大な不敬行為に──」
「ロマン。いいから、少し静かにしておいてくれ。頼むよ」
「……はあ」

 ロマンが渋々、唇を尖らせて黙り込んだときだった。
 扉の外でどやどやと人々の気配がしたかと思うと、「主人あるじまかり越しましてございます」との声がかかり、派手な衣装に身を包んだ横幅の広い中年の御仁が、のしのしと現れた。

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