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第七章 変わりゆく帝国
3 フリエーブ
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少年は突然、なにもかもが虚しくなって俯いた。
全身から力が抜けてしまったようだった。なんだか、急に馬鹿になってしまったみたいに。
胸にぼかりと大きな穴があいて、ひゅうひゅうと砂だらけの風が通っていく。ちょうど、そんな感じだった。
妹を助けるだなんて。守ろうなんて。
オレみたいなチビに、何ができるってわけでもないのに。
どこにも、行くあてなんかないっていうのに──。
膝の上でぎゅっと拳を握りしめて黙りこんだら、男の人が困ったようにこちらを覗き込むのがわかった。
「……うちには、帰りたくないんだね?」
「…………」
返事もできず下を向いたままでいたら、青年は考え込むようにちょっと言葉を切った。
「だったら、どうかな。私たちと一緒にくるかい?」
「え……?」
「もともと、この先の村に向かうはずだったんだけどね。君たちはそこの子でしょう?」
「う、……うん」
びっくりして、思わず正直に頷いてしまった。
この人は、どうしてそんなことを知っているのだろう。一体なにが目的で、オレたちの村に来ようなんて思ったんだ……?
青年は相変わらずの穏やかな目の色で、じっと兄妹を見つめていたが、やがてゆっくりとこう訊いてきた。
「妹さんは、目が見えないんだね。生まれてからずっと……?」
少年はまた、こくりと頷く。
「そうか。じゃあ、私たちが探していたのはこの子だよ」
「えっ……?」
少年はびっくりして顔をあげた。
妹を、探していた? この人たちが……?
青年は穏やかな笑みを崩さず、優しい声で話を続けた。
「このあたりに、生まれつき目の見えない小さな子がいるって聞いてね。この地域では、今年は作物が不作だったとも聞いていたし。冬を越すのが難しい家族が増えるだろうってね。……だから、もしかしてと思って」
「え、ど、どうして……」
少年はわけがわからず、ついきょときょとしてしまう。
と、青年の後ろに立っていた少年が、不意につかつかと近づいてきた。
「お前。いい加減にしろよ」
やや尖った声だった。少年は思わず妹をかばい、身を固くして少しだけあとずさった。
「こちらは帝国アルネリオの第三王子、ユーリ・エラストヴィチ・アレクセイエフ殿下であらせられる。子供とはいえ、きちんと礼を尽くすように。頭が高いぞ」
(えっ……!?)
少年はびっくりしてとびすさった。慌てふためきながら妹の頭を後ろから押さえつけ、地面に座り込んで、自分も額を地面にこすりつける。
「すっ、すみません……! オレ、オレ……知らなくて!」
そんな「えらい人」に会ったのは初めてだった。膝こぞうがガクガク震えてきて、急に下腹がせつなくなり、小便がしたいようなしたくないような、へんな気持ちになる。
だって、「えらい人」にはろくな奴がいないのだ。ときどき村にやってくる官吏や地主たちだって、道端でちょっと機嫌を損ねるだけで変な言いがかりをつけてくる。ひどい時には、目についた娘を「うちで養ってやるからな」とせせら笑いながらそのまま連れて行ってしまったりする。この国にはそんな官吏たちが、掃いて捨てるほどいるのだから。
まさかこんな、目の見えない小さな妹にまでそんなことはされないだろうけれど、しっかりと謝っておくに越したことはないのだった。
少年は平身低頭、必死で謝り続けた。
「ごめんなさい。すみません! 本当に知らなくて。い、妹は目も見えないから、なんにも分かってないから、だから……ゆるしてくださいっ!」
「や、やめてやめて。大丈夫だよ!」
青年は非常に慌てた様子で、すぐに片手を上げてそれを制した。
「いいんだよ、ロマン。お堅いことは言いっこなし。私の身分なんてどうだっていい。相手はこんな子供なんだから」
「で、でも……殿下」
「さあさあ、君たちもそんなことはやめてくれ。それより、お腹が空いているんじゃないのかな? ロマン、持ってきているパンと、飲み物を彼らに」
「は、はい……」
ロマンと呼ばれた少年がまだちょっと不服そうに、持っていた布袋から大きな丸いパンを取り出した。それに、水の入っているらしい革袋もだ。そのまま押し付けるようにして少年に持たせてくれる。
(うわ……)
パンは、村で口にできるようなものとはぜんぜん違っていた。とても大きくて、香ばしい匂いがしている。
その匂いをちょっと嗅ぐだけで、めいっぱい口の中につばが溜まってきてしまう。現金なもので、途端に少年の腹の虫が、ぐぐうと恥ずかしい音をたてた。
ロマン少年はそのまま後ろに数歩さがって、臣下として控える姿勢に戻った。
妹の顎の力では表面の少し硬い部分が噛みちぎれないので、少年はパンを少し手でちぎって妹の手に握らせてやった。妹は歓声をあげ、さっそくかぶりついている。
青年をそれをにこにこ笑って見つめている。本当にうれしそうな顔だった。やがて少年の方に向き直ると、青年は言った。
「さあ。どうか安心して、私に話を聞かせてくれないかな? いったい何があったのか。君も、食べながらで構わないから。さあ、遠慮しないで」
(やっぱり、テンシ……なのかな。この人)
青年の優しい瞳をまじまじと見て、少年はぼんやりと思った。
村のはずれにある、小さな古い教会でちょっと聞いたことがある。
天には「カミサマ」って人がいて、そのお使いを「テンシ」と言うのだと。
お使いは困っている人たちを助けてくれるためにいる。それも、特に「正直な人たち」の味方なんだとそこで聞いた。
……まあ、そんなものはどこにもいなかったけれど。
青年に促されるまま、自分もパンをちぎっては口に入れながら、少年はこれまでのことをぽつりぽつりと、やっと話し始めた。
そのうちパンがだんだんしょっぱくなってきたけれど、少年には分かっていた。
それが自分の両目から、ぼとぼと落ちているものの味だなんていうことは。
全身から力が抜けてしまったようだった。なんだか、急に馬鹿になってしまったみたいに。
胸にぼかりと大きな穴があいて、ひゅうひゅうと砂だらけの風が通っていく。ちょうど、そんな感じだった。
妹を助けるだなんて。守ろうなんて。
オレみたいなチビに、何ができるってわけでもないのに。
どこにも、行くあてなんかないっていうのに──。
膝の上でぎゅっと拳を握りしめて黙りこんだら、男の人が困ったようにこちらを覗き込むのがわかった。
「……うちには、帰りたくないんだね?」
「…………」
返事もできず下を向いたままでいたら、青年は考え込むようにちょっと言葉を切った。
「だったら、どうかな。私たちと一緒にくるかい?」
「え……?」
「もともと、この先の村に向かうはずだったんだけどね。君たちはそこの子でしょう?」
「う、……うん」
びっくりして、思わず正直に頷いてしまった。
この人は、どうしてそんなことを知っているのだろう。一体なにが目的で、オレたちの村に来ようなんて思ったんだ……?
青年は相変わらずの穏やかな目の色で、じっと兄妹を見つめていたが、やがてゆっくりとこう訊いてきた。
「妹さんは、目が見えないんだね。生まれてからずっと……?」
少年はまた、こくりと頷く。
「そうか。じゃあ、私たちが探していたのはこの子だよ」
「えっ……?」
少年はびっくりして顔をあげた。
妹を、探していた? この人たちが……?
青年は穏やかな笑みを崩さず、優しい声で話を続けた。
「このあたりに、生まれつき目の見えない小さな子がいるって聞いてね。この地域では、今年は作物が不作だったとも聞いていたし。冬を越すのが難しい家族が増えるだろうってね。……だから、もしかしてと思って」
「え、ど、どうして……」
少年はわけがわからず、ついきょときょとしてしまう。
と、青年の後ろに立っていた少年が、不意につかつかと近づいてきた。
「お前。いい加減にしろよ」
やや尖った声だった。少年は思わず妹をかばい、身を固くして少しだけあとずさった。
「こちらは帝国アルネリオの第三王子、ユーリ・エラストヴィチ・アレクセイエフ殿下であらせられる。子供とはいえ、きちんと礼を尽くすように。頭が高いぞ」
(えっ……!?)
少年はびっくりしてとびすさった。慌てふためきながら妹の頭を後ろから押さえつけ、地面に座り込んで、自分も額を地面にこすりつける。
「すっ、すみません……! オレ、オレ……知らなくて!」
そんな「えらい人」に会ったのは初めてだった。膝こぞうがガクガク震えてきて、急に下腹がせつなくなり、小便がしたいようなしたくないような、へんな気持ちになる。
だって、「えらい人」にはろくな奴がいないのだ。ときどき村にやってくる官吏や地主たちだって、道端でちょっと機嫌を損ねるだけで変な言いがかりをつけてくる。ひどい時には、目についた娘を「うちで養ってやるからな」とせせら笑いながらそのまま連れて行ってしまったりする。この国にはそんな官吏たちが、掃いて捨てるほどいるのだから。
まさかこんな、目の見えない小さな妹にまでそんなことはされないだろうけれど、しっかりと謝っておくに越したことはないのだった。
少年は平身低頭、必死で謝り続けた。
「ごめんなさい。すみません! 本当に知らなくて。い、妹は目も見えないから、なんにも分かってないから、だから……ゆるしてくださいっ!」
「や、やめてやめて。大丈夫だよ!」
青年は非常に慌てた様子で、すぐに片手を上げてそれを制した。
「いいんだよ、ロマン。お堅いことは言いっこなし。私の身分なんてどうだっていい。相手はこんな子供なんだから」
「で、でも……殿下」
「さあさあ、君たちもそんなことはやめてくれ。それより、お腹が空いているんじゃないのかな? ロマン、持ってきているパンと、飲み物を彼らに」
「は、はい……」
ロマンと呼ばれた少年がまだちょっと不服そうに、持っていた布袋から大きな丸いパンを取り出した。それに、水の入っているらしい革袋もだ。そのまま押し付けるようにして少年に持たせてくれる。
(うわ……)
パンは、村で口にできるようなものとはぜんぜん違っていた。とても大きくて、香ばしい匂いがしている。
その匂いをちょっと嗅ぐだけで、めいっぱい口の中につばが溜まってきてしまう。現金なもので、途端に少年の腹の虫が、ぐぐうと恥ずかしい音をたてた。
ロマン少年はそのまま後ろに数歩さがって、臣下として控える姿勢に戻った。
妹の顎の力では表面の少し硬い部分が噛みちぎれないので、少年はパンを少し手でちぎって妹の手に握らせてやった。妹は歓声をあげ、さっそくかぶりついている。
青年をそれをにこにこ笑って見つめている。本当にうれしそうな顔だった。やがて少年の方に向き直ると、青年は言った。
「さあ。どうか安心して、私に話を聞かせてくれないかな? いったい何があったのか。君も、食べながらで構わないから。さあ、遠慮しないで」
(やっぱり、テンシ……なのかな。この人)
青年の優しい瞳をまじまじと見て、少年はぼんやりと思った。
村のはずれにある、小さな古い教会でちょっと聞いたことがある。
天には「カミサマ」って人がいて、そのお使いを「テンシ」と言うのだと。
お使いは困っている人たちを助けてくれるためにいる。それも、特に「正直な人たち」の味方なんだとそこで聞いた。
……まあ、そんなものはどこにもいなかったけれど。
青年に促されるまま、自分もパンをちぎっては口に入れながら、少年はこれまでのことをぽつりぽつりと、やっと話し始めた。
そのうちパンがだんだんしょっぱくなってきたけれど、少年には分かっていた。
それが自分の両目から、ぼとぼと落ちているものの味だなんていうことは。
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