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第五章 滄海の過去
3 宵の訪問
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黒鳶を伴って部屋にやってきた玻璃は、やっぱり悠然とした姿だった。先日の正装からはうって変わって、ややくだけた装束に変わっている。時間帯のこともあってか、今宵の彼はいつもに輪をかけて男としての色気を漂わせていて、なんとなく目の毒な気がした。
つい二日ほど前に会ったばかりだというのに、ひどく懐かしいような気になって、ユーリは思わず目を細めた。
「玻璃、どの……」
「ユーリ殿。これはこれは、見違えたぞ」
にっこりと微笑んで、さりげなく黒鳶とロマンに退室を促している。ロマンと黒鳶が互いに目配せをし合い、一礼して出て行く姿を、ユーリは不思議な気持ちで見送った。
いつのまにかあのふたり、なにやら仲良くなっていないだろうか。
「すみません。正装するような時間帯ではないと、何度も申したのですが」
「ロマン殿の気合いが入りすぎたか。さもありなん」
玻璃は軽く苦笑すると、二人が出て行った扉のほうを意味ありげな目でちらっと見た。
「あなたがお籠りの間じゅう、かの少年はひどく気を揉んでおりましたゆえ」
「そ、そうでしたか。何かご迷惑をお掛けしてしまいましたか?」
「いや。さほどのことは何も」
玻璃はにっこりと笑ってそう言っただけだった。だが事実がそうでないことを、ユーリはかなり後になって知ることになる。
玻璃はそのまま、ユーリが座っているソファの隣にやってきた。
「お隣に座ってもよろしいか」
「は、はい。どうぞ……」
思わずきゅっと体を固くしたが、ユーリは断りはしなかった。
玻璃の方はごく自然体で、すっと隣に腰かけるとまっすぐにユーリを見つめてきた。
紫水晶の瞳が、ひたとこちらの目を覗き込んでいる。
ユーリは自分の胸がまたばくばくと音を立て、耳の奥でうるさくなり、身体が熱くなるのを覚えた。
この人がそばに来ると、どうにもこうにも落ち着かない。確かに嬉しいのだけれど、何も手につかないような気分になる。
「まずは、ユーリ殿下。先に、そなたにお知らせしておきたい事実があるのだが。お聞きいただいてもよろしいだろうか」
「え? はい。どうぞ……」
目を瞬いたら、玻璃はふっと目元を優しくした。
「黒鳶から、少し聞いた。あなた様とロマン殿は、なにやら我が国の内情について大いに誤解をなさっているようだ」
「えっ?」
「とりわけ、皇居、奥の宮の仕儀について。……あけすけに言ってしまえば、我が閨房の事情についてな」
「ケイボウ……? あの、それは」
ユーリはきっと、目をまんまるくしていただろう。
玻璃は自然なしぐさでユーリの手を取ると、自分の膝に引き寄せた。
「よくお聞きいただきたい。我が閨にはあなたのほか、余人の寝る隙などはございませぬぞ」
「え、ええっ……?」
「ここ数年の間、俺は自分の閨に男も女も入れた覚えはない、と申しているのです。まあ、とある事情があって、そういう気分になれなかったからなのですが」
「とある、事情……」
「それについてはおいおい話そう。ともかく、俺はそなた以外の誰ぞかを、己が褥には引き入れぬ。我が国は基本、ひとりがひとりとのみ番うと決まった国だ。こう申しては失礼にあたるかも知れぬが、そちらのお国の事情とはかなり異なっている」
「ひとりが、ひとり……」
そこでようやく、ユーリは玻璃の言の意味を理解した。
(な、なんてこと……!)
かあっと体が熱くなる。
そうか。この方は、わが国の王族とはまったく違う価値観で生きておられる方なのだ。
結婚は、飽くまでもひとり対ひとり。皇族とはいえ、ひとりの男子に何人もの女性や男を侍らせるようなことはしない。つまり、そうおっしゃっているのだろう。
「まあこれまでの皇室に、そういう淫蕩の質の者がいなかったわけではないが。だから正直に申せば、長い滄海の歴史の中で複数の妃をもった帝もあるにはあった。だが少なくとも俺は、そういう房事を忌む男だ。別に誇ることではないが」
「……そ、そうですか……」
もはや恥じ入る気持ちになって、ユーリはうつむいた。
なんということだろう。そうだとすれば、自分は勝手にこの人を蔑んで、勝手に傷つき、勝手に忌み嫌ってしまったことになる。
こちらを故国アルネリオの習俗と同じだと思い込み、玻璃殿下は側妃や愛妾をすでに山ほど抱え込んでおられるに違いないと、さっさと一人合点してしまっていたのだ!
「も、申し訳ありません……。殿下のことを、左様に勝手に──」
震える声でそう言ったら、玻璃はくはは、と軽く笑った。
「なに。お国のご事情を鑑みれば無理からぬ話であった。むしろこちらが、早々にご説明申し上げればよかっただけのこと。気遣いが足りず、こちらこそ申し訳ない」
「いえ! とんでもない……!」
ぶんぶん首を横に振ったら、こちらの手を握る手に力がこもった。
「しかし。左様なことでそこまでお心が傷ついたということは、自分は少しばかりは己惚れてもよい、ということかな? ユーリ殿」
「えっ……?」
「俺があなた以外のだれかを好き放題に閨に引き入れることが、さほどまでお嫌だったのでしょう。それはなぜです。その点を、お考えにはならなかったか」
「あ、あのう……」
気が付けば玻璃は、ぐっと体をユーリに近づけてきている。重ねていた手を持ち上げられ、またその甲に軽く口づけられてしまった。
触れられた場所にぽっと灯がともり、そこからじわじわと熱が全身へ広がっていく。
「……あ」
もじもじしているうちに、太い両腕があっというまにユーリの体を抱きこんでいた。
指の甲から始まった熱のうねりを、ユーリはしばし持て余した。じいんと体全体が痺れていく。抱きしめられると、鼓動ははねあがるのに、どうしようもなく安堵してしまう。玻璃の胸の音が聞こえると、まるで母に抱かれた赤子のような心持ちになった。
玻璃はじっとユーリの反応を見ていたようだったが、優しくその髪をなで、静かに体を離した。
「教えてください。なぜお嫌だった? ユーリ殿」
「そ、……それは」
どくんどくんと胸の鼓動が早くなる。
(いや……わかってる)
そうだ。
もうとっくに分かっている。
玻璃の形式的な「伴侶」となって、両国の架け橋にされることが、どうしてあんなにいやだったのか。玻璃のまわりに、彼が本当に愛する女性や男子がいるにも関わらず、自分がその傍に上がらされることが。
「わたし……は」
「うん」
玻璃の瞳は相変わらず、穏やかで優しい光に満ちている。
それに吸い込まれるような気になって、ユーリは無意識に彼に顔を寄せた。
口の中がからからに乾いている。さっき、ロマンにたっぷりとお茶や白湯を飲ませてもらったのに。
「……お、慕い……しているのです。あなたを──」
つい二日ほど前に会ったばかりだというのに、ひどく懐かしいような気になって、ユーリは思わず目を細めた。
「玻璃、どの……」
「ユーリ殿。これはこれは、見違えたぞ」
にっこりと微笑んで、さりげなく黒鳶とロマンに退室を促している。ロマンと黒鳶が互いに目配せをし合い、一礼して出て行く姿を、ユーリは不思議な気持ちで見送った。
いつのまにかあのふたり、なにやら仲良くなっていないだろうか。
「すみません。正装するような時間帯ではないと、何度も申したのですが」
「ロマン殿の気合いが入りすぎたか。さもありなん」
玻璃は軽く苦笑すると、二人が出て行った扉のほうを意味ありげな目でちらっと見た。
「あなたがお籠りの間じゅう、かの少年はひどく気を揉んでおりましたゆえ」
「そ、そうでしたか。何かご迷惑をお掛けしてしまいましたか?」
「いや。さほどのことは何も」
玻璃はにっこりと笑ってそう言っただけだった。だが事実がそうでないことを、ユーリはかなり後になって知ることになる。
玻璃はそのまま、ユーリが座っているソファの隣にやってきた。
「お隣に座ってもよろしいか」
「は、はい。どうぞ……」
思わずきゅっと体を固くしたが、ユーリは断りはしなかった。
玻璃の方はごく自然体で、すっと隣に腰かけるとまっすぐにユーリを見つめてきた。
紫水晶の瞳が、ひたとこちらの目を覗き込んでいる。
ユーリは自分の胸がまたばくばくと音を立て、耳の奥でうるさくなり、身体が熱くなるのを覚えた。
この人がそばに来ると、どうにもこうにも落ち着かない。確かに嬉しいのだけれど、何も手につかないような気分になる。
「まずは、ユーリ殿下。先に、そなたにお知らせしておきたい事実があるのだが。お聞きいただいてもよろしいだろうか」
「え? はい。どうぞ……」
目を瞬いたら、玻璃はふっと目元を優しくした。
「黒鳶から、少し聞いた。あなた様とロマン殿は、なにやら我が国の内情について大いに誤解をなさっているようだ」
「えっ?」
「とりわけ、皇居、奥の宮の仕儀について。……あけすけに言ってしまえば、我が閨房の事情についてな」
「ケイボウ……? あの、それは」
ユーリはきっと、目をまんまるくしていただろう。
玻璃は自然なしぐさでユーリの手を取ると、自分の膝に引き寄せた。
「よくお聞きいただきたい。我が閨にはあなたのほか、余人の寝る隙などはございませぬぞ」
「え、ええっ……?」
「ここ数年の間、俺は自分の閨に男も女も入れた覚えはない、と申しているのです。まあ、とある事情があって、そういう気分になれなかったからなのですが」
「とある、事情……」
「それについてはおいおい話そう。ともかく、俺はそなた以外の誰ぞかを、己が褥には引き入れぬ。我が国は基本、ひとりがひとりとのみ番うと決まった国だ。こう申しては失礼にあたるかも知れぬが、そちらのお国の事情とはかなり異なっている」
「ひとりが、ひとり……」
そこでようやく、ユーリは玻璃の言の意味を理解した。
(な、なんてこと……!)
かあっと体が熱くなる。
そうか。この方は、わが国の王族とはまったく違う価値観で生きておられる方なのだ。
結婚は、飽くまでもひとり対ひとり。皇族とはいえ、ひとりの男子に何人もの女性や男を侍らせるようなことはしない。つまり、そうおっしゃっているのだろう。
「まあこれまでの皇室に、そういう淫蕩の質の者がいなかったわけではないが。だから正直に申せば、長い滄海の歴史の中で複数の妃をもった帝もあるにはあった。だが少なくとも俺は、そういう房事を忌む男だ。別に誇ることではないが」
「……そ、そうですか……」
もはや恥じ入る気持ちになって、ユーリはうつむいた。
なんということだろう。そうだとすれば、自分は勝手にこの人を蔑んで、勝手に傷つき、勝手に忌み嫌ってしまったことになる。
こちらを故国アルネリオの習俗と同じだと思い込み、玻璃殿下は側妃や愛妾をすでに山ほど抱え込んでおられるに違いないと、さっさと一人合点してしまっていたのだ!
「も、申し訳ありません……。殿下のことを、左様に勝手に──」
震える声でそう言ったら、玻璃はくはは、と軽く笑った。
「なに。お国のご事情を鑑みれば無理からぬ話であった。むしろこちらが、早々にご説明申し上げればよかっただけのこと。気遣いが足りず、こちらこそ申し訳ない」
「いえ! とんでもない……!」
ぶんぶん首を横に振ったら、こちらの手を握る手に力がこもった。
「しかし。左様なことでそこまでお心が傷ついたということは、自分は少しばかりは己惚れてもよい、ということかな? ユーリ殿」
「えっ……?」
「俺があなた以外のだれかを好き放題に閨に引き入れることが、さほどまでお嫌だったのでしょう。それはなぜです。その点を、お考えにはならなかったか」
「あ、あのう……」
気が付けば玻璃は、ぐっと体をユーリに近づけてきている。重ねていた手を持ち上げられ、またその甲に軽く口づけられてしまった。
触れられた場所にぽっと灯がともり、そこからじわじわと熱が全身へ広がっていく。
「……あ」
もじもじしているうちに、太い両腕があっというまにユーリの体を抱きこんでいた。
指の甲から始まった熱のうねりを、ユーリはしばし持て余した。じいんと体全体が痺れていく。抱きしめられると、鼓動ははねあがるのに、どうしようもなく安堵してしまう。玻璃の胸の音が聞こえると、まるで母に抱かれた赤子のような心持ちになった。
玻璃はじっとユーリの反応を見ていたようだったが、優しくその髪をなで、静かに体を離した。
「教えてください。なぜお嫌だった? ユーリ殿」
「そ、……それは」
どくんどくんと胸の鼓動が早くなる。
(いや……わかってる)
そうだ。
もうとっくに分かっている。
玻璃の形式的な「伴侶」となって、両国の架け橋にされることが、どうしてあんなにいやだったのか。玻璃のまわりに、彼が本当に愛する女性や男子がいるにも関わらず、自分がその傍に上がらされることが。
「わたし……は」
「うん」
玻璃の瞳は相変わらず、穏やかで優しい光に満ちている。
それに吸い込まれるような気になって、ユーリは無意識に彼に顔を寄せた。
口の中がからからに乾いている。さっき、ロマンにたっぷりとお茶や白湯を飲ませてもらったのに。
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