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第五章 滄海の過去
1 誤解
しおりを挟む《玻璃殿下。玻璃殿下……?》
玻璃の腕にはまった通信機器から可愛い人の声がしたのは、その日の深更のことだった。一日の政務を終え、自分の寝所にはいってから間もなくのことである。
相手はたった一人しかいない。
玻璃は一応周囲を確認し、姿を忍ばせているはずの護衛の者に下がるように申し付けると、寝台に座って腕輪のスイッチを入れた。
「ユーリ殿か。よくぞ連絡してくださったな。まずは感謝を申し上げる」
相手はそこからしばらく黙り込んだ。何を言ったものかと躊躇しているようである。
《あの……玻璃殿下。先日は、その……申し訳ありませんでした》
蚊の鳴くような声とはこのことだ。玻璃は腕輪をぐっと自分の耳に近づけた。
「なにを謝られることがある。礼を失したのは、こちらの方だ。こちらこそ、大変無礼なことを言った。ユーリ殿を傷つけるつもりは毛頭なかったが、心より謝意を申し上げる。大変申し訳なかった。許して欲しい」
相手にこちらの姿が見えていないことはわかっていたが、玻璃は深々と頭を下げた。
《ち、ちがいます。玻璃殿はなにも悪くはないのです……》
ユーリの声は、完全に慌てて恐縮しているようだった。
「あれから、ロマン殿からこっぴどく叱られた」
《え? ロマンが……?》
「そうだ。かの少年は、まことにあなたに心酔しておられるようだな。さもありなん。さすがはユーリ殿だと思う」
《そ、そんな。私なんて──》
「だが、俺は随分、あなたに無神経なことを申してしまったようだ。故意にしたことではないが、だから許されるとも思っておらぬ。幾重にもお詫びを申し上げる」
《いえ……。もう、本当に》
陸の王子の声は消え入りそうだ。きっと涙ぐんでいるのだろう。
玻璃は少し考えてから、なるべく穏やかな声を出すよう気遣いながら言った。
「もしあなたさえ良かったら、お心にあることを俺に教えて頂けまいか。なにか、互いに誤解もあるように思うしな。ご不安に思う事、不満に思っておられること。何でもよい。自分の伴侶にと望む人が苦しむ姿は、俺とて見てはいられぬゆえ」
《玻璃どの……》
そこでもう、王子は涙腺が決壊したらしかった。ぐすぐすと洟をすするような音がしばらく続く。
《ごっ、ごめんなさい……玻璃どの。わ、わたしは……》
それでようやく、玻璃もユーリの心の裡にあるものの一端を知ることになった。
美貌や才に恵まれた兄たちと、弟妹たち。どんなに努力しているつもりでも、自分だけがとりわけ見劣りがするという環境で、それでも自分なりに頑張ってきた。
しかし、すでに上には優秀な兄が二人もいる。天地がひっくり返っても、次代の皇帝になどなれないだろう。兄が即位した暁には、自分は野に下らされ、臣下の一人となる運命だ。
だからせめて、今後の父や兄たちの足手まといにならないようにと、地方の仕事などにも努め、様々なことを学んでもきた。
《この度、あなた様に好意を持って頂いたことも……最初は正直、半信半疑でした。なんでこんな平凡非才な者を、あなた様が選んでくださったのだろうかと》
「それは、いくらなんでもご自身を卑下しすぎだと思うがな。……だが、そうだったのか。よくわかった」
要するに、この王子は自己肯定感が低すぎるのだ。
彼自身、ひどく醜悪な見た目などでは決してない。皇帝の息子なのだから、今まで高い教育を受けてきたことは間違いないのだし、「無知蒙昧」だの「愚鈍」だのとは口が裂けても評せないはず。
しかし、彼の周囲は優秀な者ばかりがいる環境。彼はそこで、生まれてこの方ずっとその者たちと比べられ、自分を高く評価することができないままに育ってきたのだろう。玻璃にはそんな風に感じられた。
そしてそれは、とても残念なことに思われた。
(こんなにも、魅力的な御仁なのにな)
玻璃が愛したこの人の特質は、単純な器量の良さであるとか、学問に秀でているとかいったこととはあまり関係がない。そして人の本当の価値は、そういったものでは決まらない。
彼のなによりの良さと特質は、あのロマンも言った通りだ。
その謙虚さ、目下の者への優しい気遣い。そしてその素直さと純朴さであろうと思う。
他人から多くの才能を次々に見せつけられれば、多くの場合、人は疲弊する。暗い嫉妬心にとりつかれ、無闇に相手を傷つけたくてたまらなくなるものだ。相手がどうこう言う以前に、自分の心に巣食ったその魔物に、宿主自身が滅ぼされてしまうことすら、ままある話だ。
玻璃はこれまでそんな人々を、こちらの宮で様々に見聞きしてきた。
だが、ユーリにはそれがない。それは稀有なことなのだ。確かに目立たぬ特質なのかもしれないが、非常に貴重な精神のありようだと言える。
それは望んで身に着けられるものではない。愚者がやりがちなことではあるが、安易な演技でどうにかなることでもない。少なくとも、玻璃の目はそんな陳腐な演技には誤魔化されない。
彼が生まれながらに持っていて、ここまですり減らしたりもせず、守ってきてくれたものだ。
多くの大人は、次第にその価値を忘れてしまうものなのに。
彼のそういう良さに目を留め、評価する者がこれまでなかったのだとすれば。無礼を承知で言うならば、あちらの宮にはきちんと人を見る目のある御仁が不在だということではないか。それはユーリの責任ではない。
(だが……)
彼自身がそれを認識していないなら、どうして磨き、輝かせることができよう。
人は褒められ、認められてこそ輝くものだ。信頼できる人による高い評価に裏打ちされた、しっかりとした自信。そういうものがあってはじめて、人は大地に両足をつけて立ち、まっすぐに前を見て進むことができるもの。
気の毒に、この王子にはこれまで彼を褒め、勇気づけてくれる者があまりいなかったのだろう。恐らくあのロマン少年以外には。逆に彼を貶め、見下す人間ならば数えきれないほどいたのであろう。それは想像に難くなかった。
この王子の、生まれの不幸としか言いようがない。
彼がもし、最初から我が王宮に生まれていたら。
考えても詮ないことだが、玻璃はつい夢想した。
自分はきっと、彼の健やかな慈愛の心を最大限に褒めたたえ、励まし、伸ばしてやれただろうと思うのに。
人を育てようというときに、長所を認め、褒めずして一体どうするのか。ましてその人が幼いならば、まずは愛して、褒めてやらずしてなんとする?
そんなことを考えながら聞いているうち、玻璃はユーリのとある言葉にひっかかった。
《別に……私は、何人目だっていいのです。あの時、たまたま海に落ちてあなた様の目に留まった。それで、あなた様にとっての何番目かの愛妾の一人になる》
「……なんですと?」
《別にそれはいいんです。わかってるんです。お互いの国のためにも、それはもう心から感謝して、お受けすべきお話なんだって──》
「お待ちあれ、ユーリ殿」
玻璃はとうとう、ユーリの言葉に割ってはいった。
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