44 / 195
第四章 親善交流
12 煩悶
しおりを挟む
「え……? ち、違うのですか」
そこで黒鳶は、ごく控えめに息を吸い込んだようだった。その目には「やはり」という感じがありありと見えた。
「違います。まったく違う。……我ら滄海の民はみな、基本的には一夫一婦制。まあ、ご存知のとおり同性で番う者もおりますので、厳密にはこの言葉はおかしゅうございますが」
「ええっ……!?」
「ともかくも。相手は常に、ひとりです。余程の事情でもない限り、この国では自分と相手、ふたりだけで添うものと決まっております」
「そ、そうなのですか……」
黒鳶の説明は、大体こんな感じだった。
もしも結婚関係にある者が他のだれかに懸想するなら、そもそも婚姻関係を継続する意味がない。その場合は法に照らして関係を解消するのが普通である。
婚姻とはそもそも、法的な契約関係。当然ながら、それを反故にした者には程度に応じた量刑、つまりペナルティが科せられる。
具体的には相手への慰謝料、子供がいるならその養育のための費用そのほか、もろもろを支払うことが完全に義務付けられているのだという。これに関しては、もはや死にでもしない限り免除されることはあり得ない。
普段、言葉の少ない黒鳶がこれだけのことを説明するには、相当に時間がかかった。
「これらのことをユーリ殿下がご存知なかったのだとすれば。今回の殿下のご反応も、納得がいくというものです。ロマン殿には是非とも、その点をユーリ殿下にご説明して差し上げてもらいたい。きっとご安心いただけるかと」
「…………」
「玻璃殿下は、ご自身の閨にユーリ殿下以外の者を侍らせたりはなさいませぬ。……かつて一度だけ、添うたお方はありますが。今そのお方は、はるかニライカナイにお住まいですし」
「ニライカナイ……。えっ? そ、それって」
「ニライカナイ」とは、アルネリオで言うところの「天国」にあたる場所だと聞いている。つまり、そのお方はすでにこの世の人ではないのだ。
(玻璃殿下は……一度、伴侶をお亡くしなのか)
瞬きもせずに大きな目で自分を見下ろすロマンに、黒鳶はすっと頭を下げた。
「詳しいお話は、自分ごときがこのような所で申せることではありませぬ。そちらはぜひ、ユーリ殿下がご自身で、玻璃殿下からお聞きになっていただきたく」
「……そ、そうですね」
「今はもう少し、ユーリ殿下のお気持ちが落ち着くのをお待ちいたしましょう。臣下たる我らにできるのは、そのぐらいのことにございます」
最後にそう言ってもう一度頭を垂れると、黒鳶はすっと立ち上がり、瞬く間に空気の中に姿を消した。
ワゴンのそばで立ち尽くし、ロマンはしばらくぼうっとしていた。
なぜか不思議にあたたかなものが、自分の胸に湧きだしはじめているのを覚えながら。
◆
(わかってる……。わかってるんだ)
自分にあてがわれた寝台の中にもぐりこんだまま、ユーリは鬱々と時を過ごしている。
ここに閉じこもってしまってから、ほとんど丸一日が過ぎていた。
幸い、部屋には手洗い場が隣接しているし、いつも新鮮な水を供給してくれる設備も整っている。飲料用の水については、壁際のプレートをちょっと触るだけで、清潔なグラスに注がれたものがいつでも飲めるようになっているのだ。冷たいもの、温かいもの。さらに、この国ではごく一般的な緑茶が出てくるようにもなっている。これは正直、ありがたかった。
つまり、幸か不幸か一定期間「籠城」するには、もってこいの環境が整っていたわけである。
(ああ……。でもなあ)
一度こういうことを始めてしまうと、今度はやめどきというものが難しい。最初は「蛮勇」で済むものが、やめる段になったら恐ろしい覚悟と勇気が必要になってくる。
大体、どんな顔をして皆に会えばいいのか。
あれからあんまり泣きすぎて、壁の楕円形の姿見の中にはいつも、恐ろしいほど目の周りを赤く腫らしたみっともない顔の青年が映るばかりだ。髪はくしゃくしゃ、服はよれよれ。
とてもではないが、こんな姿をあの玻璃殿下には見せられない。
「自分はこんな男に惚れたのか」と、余計にがっかりされるに決まっている。それだけは、やっぱりユーリとて嫌だった。
そうでなくとも、玻璃皇子はお忙しい身の上なのだ。自分ごときつまらない外国の第三王子風情のために、貴重な時間を割けるようなお体ではない。今回の自分の訪問を歓迎するにあたって、殿下はきっと様々に他の仕事の都合をつけてくださったに違いないのに。
今のところ、ロマンが「ユーリ殿下は体調不良」ということで押し通してくれているようだったが、そんなものはいつまでも通じまい。早晩、こちらの親善使節の面々にも事実は知れてしまうだろう。
第三王子が奇妙なことで臍を曲げ、私室に籠城しているということは。
(ああ……。ほんとうに、私という人間は)
どうしてこんなことで、こんなにも心が疲弊してしまったのだろう。
わかっていたことではないか。玻璃皇子は、あんなにも魅力的な人なのだ。彼を独り占めしよう、したい、などと考えること自体、自分には分不相応なことだったのに。
幸いにして「我がものになってくれ」と求められたのであれば。そして、自分の心も彼の方を向いているのなら。周囲の状況がどうであれ、たとえ玻璃の心の一部しかもらえないのであれ、自分は素直に従っておくべきなのに。
(申し訳ありません、父上、兄上たち……それに、ロマンも)
あの少年に、こんなにも余計な心労を掛けさせて。
少年は、あれから何度も寝室の前に食事や紅茶、お菓子などを運んできては心配そうな声で「ユーリ殿下」と声を掛けてくれている。それを毎回、「ああ、どうしようか」と思いながらも結局は黙殺する形になって。
(情けない……。本当に、情けない王子で申し訳ない)
のそのそと起き上がって寝台に座り込み、ぎゅっと手首を握った時だった。
ふと袖の下に触れたものがあり、その存在を思い出して、ユーリは複雑な顔になった。
あの時、殿下から頂戴した銀の腕輪。
これを使えば、玻璃皇子と直接お話しができる。
「…………」
腫れぼったい目で、ユーリはそれをじっとしばらく見つめていた。
(いや。今はやめておこう)
まだ日の高い時間帯のはずである。玻璃はきっと、政務そのほかで忙しくしていることだろう。
話をするならば、恐らく夜だ。
ユーリは唇をきゅっと噛むと、腕輪の上から手首を握り、それを口元に近づけた。
訊ねてみよう。
わからないことはちゃんと訊いて、ちゃんと心でも納得したい。
もっときちんと、あなたと話がしてみたい。
そう思ったら、ほんの少しだけ体から力が抜けた。
そうして寝床にまた潜り込み、ユーリは改めて目を閉じた。
そこで黒鳶は、ごく控えめに息を吸い込んだようだった。その目には「やはり」という感じがありありと見えた。
「違います。まったく違う。……我ら滄海の民はみな、基本的には一夫一婦制。まあ、ご存知のとおり同性で番う者もおりますので、厳密にはこの言葉はおかしゅうございますが」
「ええっ……!?」
「ともかくも。相手は常に、ひとりです。余程の事情でもない限り、この国では自分と相手、ふたりだけで添うものと決まっております」
「そ、そうなのですか……」
黒鳶の説明は、大体こんな感じだった。
もしも結婚関係にある者が他のだれかに懸想するなら、そもそも婚姻関係を継続する意味がない。その場合は法に照らして関係を解消するのが普通である。
婚姻とはそもそも、法的な契約関係。当然ながら、それを反故にした者には程度に応じた量刑、つまりペナルティが科せられる。
具体的には相手への慰謝料、子供がいるならその養育のための費用そのほか、もろもろを支払うことが完全に義務付けられているのだという。これに関しては、もはや死にでもしない限り免除されることはあり得ない。
普段、言葉の少ない黒鳶がこれだけのことを説明するには、相当に時間がかかった。
「これらのことをユーリ殿下がご存知なかったのだとすれば。今回の殿下のご反応も、納得がいくというものです。ロマン殿には是非とも、その点をユーリ殿下にご説明して差し上げてもらいたい。きっとご安心いただけるかと」
「…………」
「玻璃殿下は、ご自身の閨にユーリ殿下以外の者を侍らせたりはなさいませぬ。……かつて一度だけ、添うたお方はありますが。今そのお方は、はるかニライカナイにお住まいですし」
「ニライカナイ……。えっ? そ、それって」
「ニライカナイ」とは、アルネリオで言うところの「天国」にあたる場所だと聞いている。つまり、そのお方はすでにこの世の人ではないのだ。
(玻璃殿下は……一度、伴侶をお亡くしなのか)
瞬きもせずに大きな目で自分を見下ろすロマンに、黒鳶はすっと頭を下げた。
「詳しいお話は、自分ごときがこのような所で申せることではありませぬ。そちらはぜひ、ユーリ殿下がご自身で、玻璃殿下からお聞きになっていただきたく」
「……そ、そうですね」
「今はもう少し、ユーリ殿下のお気持ちが落ち着くのをお待ちいたしましょう。臣下たる我らにできるのは、そのぐらいのことにございます」
最後にそう言ってもう一度頭を垂れると、黒鳶はすっと立ち上がり、瞬く間に空気の中に姿を消した。
ワゴンのそばで立ち尽くし、ロマンはしばらくぼうっとしていた。
なぜか不思議にあたたかなものが、自分の胸に湧きだしはじめているのを覚えながら。
◆
(わかってる……。わかってるんだ)
自分にあてがわれた寝台の中にもぐりこんだまま、ユーリは鬱々と時を過ごしている。
ここに閉じこもってしまってから、ほとんど丸一日が過ぎていた。
幸い、部屋には手洗い場が隣接しているし、いつも新鮮な水を供給してくれる設備も整っている。飲料用の水については、壁際のプレートをちょっと触るだけで、清潔なグラスに注がれたものがいつでも飲めるようになっているのだ。冷たいもの、温かいもの。さらに、この国ではごく一般的な緑茶が出てくるようにもなっている。これは正直、ありがたかった。
つまり、幸か不幸か一定期間「籠城」するには、もってこいの環境が整っていたわけである。
(ああ……。でもなあ)
一度こういうことを始めてしまうと、今度はやめどきというものが難しい。最初は「蛮勇」で済むものが、やめる段になったら恐ろしい覚悟と勇気が必要になってくる。
大体、どんな顔をして皆に会えばいいのか。
あれからあんまり泣きすぎて、壁の楕円形の姿見の中にはいつも、恐ろしいほど目の周りを赤く腫らしたみっともない顔の青年が映るばかりだ。髪はくしゃくしゃ、服はよれよれ。
とてもではないが、こんな姿をあの玻璃殿下には見せられない。
「自分はこんな男に惚れたのか」と、余計にがっかりされるに決まっている。それだけは、やっぱりユーリとて嫌だった。
そうでなくとも、玻璃皇子はお忙しい身の上なのだ。自分ごときつまらない外国の第三王子風情のために、貴重な時間を割けるようなお体ではない。今回の自分の訪問を歓迎するにあたって、殿下はきっと様々に他の仕事の都合をつけてくださったに違いないのに。
今のところ、ロマンが「ユーリ殿下は体調不良」ということで押し通してくれているようだったが、そんなものはいつまでも通じまい。早晩、こちらの親善使節の面々にも事実は知れてしまうだろう。
第三王子が奇妙なことで臍を曲げ、私室に籠城しているということは。
(ああ……。ほんとうに、私という人間は)
どうしてこんなことで、こんなにも心が疲弊してしまったのだろう。
わかっていたことではないか。玻璃皇子は、あんなにも魅力的な人なのだ。彼を独り占めしよう、したい、などと考えること自体、自分には分不相応なことだったのに。
幸いにして「我がものになってくれ」と求められたのであれば。そして、自分の心も彼の方を向いているのなら。周囲の状況がどうであれ、たとえ玻璃の心の一部しかもらえないのであれ、自分は素直に従っておくべきなのに。
(申し訳ありません、父上、兄上たち……それに、ロマンも)
あの少年に、こんなにも余計な心労を掛けさせて。
少年は、あれから何度も寝室の前に食事や紅茶、お菓子などを運んできては心配そうな声で「ユーリ殿下」と声を掛けてくれている。それを毎回、「ああ、どうしようか」と思いながらも結局は黙殺する形になって。
(情けない……。本当に、情けない王子で申し訳ない)
のそのそと起き上がって寝台に座り込み、ぎゅっと手首を握った時だった。
ふと袖の下に触れたものがあり、その存在を思い出して、ユーリは複雑な顔になった。
あの時、殿下から頂戴した銀の腕輪。
これを使えば、玻璃皇子と直接お話しができる。
「…………」
腫れぼったい目で、ユーリはそれをじっとしばらく見つめていた。
(いや。今はやめておこう)
まだ日の高い時間帯のはずである。玻璃はきっと、政務そのほかで忙しくしていることだろう。
話をするならば、恐らく夜だ。
ユーリは唇をきゅっと噛むと、腕輪の上から手首を握り、それを口元に近づけた。
訊ねてみよう。
わからないことはちゃんと訊いて、ちゃんと心でも納得したい。
もっときちんと、あなたと話がしてみたい。
そう思ったら、ほんの少しだけ体から力が抜けた。
そうして寝床にまた潜り込み、ユーリは改めて目を閉じた。
0
お気に入りに追加
104
あなたにおすすめの小説

新しい道を歩み始めた貴方へ
mahiro
BL
今から14年前、関係を秘密にしていた恋人が俺の存在を忘れた。
そのことにショックを受けたが、彼の家族や友人たちが集まりかけている中で、いつまでもその場に居座り続けるわけにはいかず去ることにした。
その後、恋人は訳あってその地を離れることとなり、俺のことを忘れたまま去って行った。
あれから恋人とは一度も会っておらず、月日が経っていた。
あるとき、いつものように仕事場に向かっているといきなり真上に明るい光が降ってきて……?
※沢山のお気に入り登録ありがとうございます。深く感謝申し上げます。

【完結】ぎゅって抱っこして
かずえ
BL
幼児教育学科の短大に通う村瀬一太。訳あって普通の高校に通えなかったため、働いて貯めたお金で二年間だけでもと大学に入学してみたが、学費と生活費を稼ぎつつ学校に通うのは、考えていたよりも厳しい……。
でも、頼れる者は誰もいない。
自分で頑張らなきゃ。
本気なら何でもできるはず。
でも、ある日、金持ちの坊っちゃんと心の中で呼んでいた松島晃に苦手なピアノの課題で助けてもらってから、どうにも自分の心がコントロールできなくなって……。

心からの愛してる
マツユキ
BL
転入生が来た事により一人になってしまった結良。仕事に追われる日々が続く中、ついに体力の限界で倒れてしまう。過労がたたり数日入院している間にリコールされてしまい、あろうことか仕事をしていなかったのは結良だと噂で学園中に広まってしまっていた。
全寮制男子校
嫌われから固定で溺愛目指して頑張ります
※話の内容は全てフィクションになります。現実世界ではありえない設定等ありますのでご了承ください

転生貧乏貴族は王子様のお気に入り!実はフリだったってわかったのでもう放してください!
音無野ウサギ
BL
ある日僕は前世を思い出した。下級貴族とはいえ王子様のお気に入りとして毎日楽しく過ごしてたのに。前世の記憶が僕のことを駄目だしする。わがまま駄目貴族だなんて気づきたくなかった。王子様が優しくしてくれてたのも実は裏があったなんて気づきたくなかった。品行方正になるぞって思ったのに!
え?王子様なんでそんなに優しくしてくるんですか?ちょっとパーソナルスペース!!
調子に乗ってた貧乏貴族の主人公が慎ましくても確実な幸せを手に入れようとジタバタするお話です。
サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。
トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。

僕はお別れしたつもりでした
まと
BL
遠距離恋愛中だった恋人との関係が自然消滅した。どこか心にぽっかりと穴が空いたまま毎日を過ごしていた藍(あい)。大晦日の夜、寂しがり屋の親友と二人で年越しを楽しむことになり、ハメを外して酔いつぶれてしまう。目が覚めたら「ここどこ」状態!!
親友と仲良すぎな主人公と、別れたはずの恋人とのお話。
⚠️趣味で書いておりますので、誤字脱字のご報告や、世界観に対する批判コメントはご遠慮します。そういったコメントにはお返しできませんので宜しくお願いします。
大晦日あたりに出そうと思ったお話です。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる